11.苦いけど美味しくて
帰りの馬車はいつもと様子が違った。
普段なら私の正面はフィルが座っていたのだけど、その位置にはティナとアーネが座っている。
フィルは車内の対角線の先に押し込まれていた。私から一番遠い場所だ。
馬車に乗り込む時も、フィルが手を差し伸べようとするのを押しのけてナディアが乗り込み、私に手を差し伸べた。
要するにあれ以来、フィルが私に接触しないように侍女ガードが発動している。
私は馬車の中で愛想笑いを浮かべつつ、重たい空気をどうしようか悩んでいた。
そっと横に座るナディアを盗み見る。
その目は厳しくフィルを睨み付け、目の奥で氷雪の嵐が吹き荒れているみたいだ。
侍女見習い二人――ティナとアーネも、その視線はフィルに突き刺すように注がれている。
「あの……みんな、そんなにフィルを睨み付けてたら可哀想だよ?」
「殿下はお気になさらず。外の景観でもお楽しみ下さい」
ナディアにっ! 取り付く! 島がない!
フィルを見ると、遠くを見るように窓に映る景色をぼんやりと眺めていた。
今朝までと今、何がそんなに違うんだろう……
以前フィルが私に結婚がどうとかって言ってたのは、ナディアも知ってたはず。あの時、傍に居たはずなんだし。
なのに急に態度が変わったのは……やっぱりさっきの「先約」宣言からかなぁ?
あの行為だけでそんなに大きく変わるものなの?
私が俯いて考え込んでいると、ナディアが静かに語りだした。
「公衆の面前で言葉で表すというのは、高位貴族にとって時に大変重たい意味を持ちます。あのような言葉を口にしたフィリップ王子との接触を我々が許していては、殿下とフィリップ王子の恋仲を公に認めるに等しい。それをフリートベルク第二王女を預かる傍仕えとして、容易に許す事はできません――殿下がフィリップ王子と真実恋仲であるならば、我々がそれを受け入れる事は可能です。ですが、そうではないと殿下はお考えなのでしょう?」
私はしばらく考えてから、ゆっくりと頷いた――恋仲とか、よくわからないし。
「当然、同様の発言をしたモフィス侯爵子息との接触も我々は容易には認めません。例えご友人であろうと、適切な距離を保っていただきます――本来であればフィリップ王子には、殿下のお傍で御身を守る盾となって頂きたかったのですが……遺憾に堪えません」
「……期待をしていたのに裏切られた事を怒ってるの?」
「有り体に言えばそうなります」
期待を裏切られる辛さはよく知ってる。
期待が大きいほど、その辛さが大きいことも。
多分ナディアは、それだけフィルに期待していたんだな。
「……でも、フィルは最初の夜会で私を連れ去ったよ? あれはたくさんの人に見られてたよ?」
「あれはまだ弁明の余地があるのです。殿下が急に体調を崩されたのでお運びした、とでも言えばそれで終わらせられる話なのです。ですがあのように宣言をされてしまえば、もう取り繕うことはできません。明日には学院中を、そしてこの国の社交界中を噂が駆け巡るでしょう」
私はごくりと唾を飲んだ。
「……どんな噂、かな?」
「”殿下にフィリップ王子とモフィス侯爵子息が想いを告げた”という、事実に基づいた噂です。今後片方だけと仲良くすれば、その男の告白を殿下が受け入れたと見做され、恋仲が確定します。両方と仲良くすれば、殿下が二人の男を両天秤にかけていると言われます。そのどちらも、我々は立場上看過できません。特に後者は断じて許せません」
意味の分からない単語に頭が混乱する。
断じて許せないって、それほど悪い事と見做されるって事?
私はおずおずとナディアに尋ねる。
「えっと、両天秤にかけるって、どういう意味かな?」
なんだかナディアは、私に説明すべきか迷ってるみたいだった。
私はナディアをじっと見つめて、答えを待つ。
しばらくして、ようやく重たい口を開いてくれた。
「”二人の男と同時に恋人になっている”という意味です」
同時に恋人?! それってして良い事なの?! ……あ、しちゃいけないことだから”断じて許せない”のか。
「そんなことある訳ないじゃない?! どちらともお友達じゃダメなの?!」
「それが通用しない状況だと私は申し上げております。モフィス侯爵子息が恋人に立候補するだけで終われば、彼を排除するだけで済みました――フィリップ王子、なぜ貴方はあそこであのような言葉を口にしたのですか。あなたはもっと冷静な方だと思っておりましたが」
フィルをそっと見ると、相変わらず窓の外をぼんやりと眺めていた。
「……あのまま放置しておけば、どれほど守りを固めていても彼がゲルダさんを攫っていってしまう、そんな予感がありました。僕にもそれは断じて許すことができなかった。例え今の状況になろうとも、一方的にあの男にゲルダさんを攫われる訳にはいかなかった。そう思っただけです」
攫っていってしまう? フレドが?
「ねぇフィル、フレドは人攫いなんかじゃないよ? ただの学院の生徒だよ? 私を攫っていく訳が無いじゃない。一体どうしたっていうの?」
私の正面でティナとアーネが椅子から半分ずり落ちて頭をぶつけていた。
「大丈夫?! どうしたの? 痛くなかった?」
「いえ、殿下の俗離れにまだ慣れ切っていないだけですのでお気になさらず」
「……これを本気で仰るのが殿下なのですね」
ティナとアーネが頭を押さえつつ、力なく私に応えた。
ナディアが深い溜息をついた。
「所詮、フィリップ王子も十五の青二才だった、という訳ですね。迂闊でした。今後はそのように認識を改めさせて頂きます――ティナ、アーネ。貴方たちも、これまで以上に心するように」
「はい!」
「……はい」
フィルを傍に近寄らせられないなら、私の護衛は実質ティナとアーネだけになってしまう。
だから気を引き締めろ、という意味かな?
ピリピリとした侍女三人にかける言葉を見つけられない私は、ただ黙り込む事しかできなかった。
馬車は再び気まずい沈黙に支配されたまま、王宮へ戻っていった。
****
部屋に戻り、私とナディア、ティナ、アーネの四人だけとなって、ピリピリとした空気がようやく柔らかくなった。
私の口から思わずドデカ溜息が出てしまう。
「――はぁ。やっとまともに息が出来るようになった……みんな一体どうしちゃったの? 息苦しくて大変だったよ?」
ナディアの入れてくれた紅茶を一口飲んだ後、私はソファにぺしゃっと潰れた。
正直疲れた……夜会に出るより、ずっと疲れた気がする。
そんな私に、柔らかく、けれどしっかりとした言葉でナディアがお説教してくる。
「前々から申し上げている通り、殿下は竜の寵児であると同時にフリートベルク王国第二王女であるご自覚をお持ちください。殿下も十五歳を迎えた妙齢の淑女なのです。特に異性との振る舞いにはご留意下さい」
自分が若い女子なのは分かってるけどさー……
確かに第二王女だけどさー……
私は口を尖らせて不満を言う。
「そんなこと言ったって、淑女らしい教育なんて受けてないし! 今更王族の淑女として振舞えって言われたって出来る訳ないじゃない!」
私に求められるのは竜の寵児である事だけ――今までそうだったし、王族の淑女としての振る舞いは求められてこなかった。
ほとんどは神殿や礼拝所に滞在して祈りを捧げるだけの人生だった。祈りを捧げる巫女として在ればよかった。
時折今回みたいに王宮に呼ばれてたけど、その時ぐらいかな、淑女として振舞えとナディアが煩く言うのは。
時々ナディアが移動時間の隙間で淑女のマナーを教えてくれたけど、わずかな時間で付け焼刃のマナーを覚える事にどれほどの意味があるというのかな?
私には、自分に求められない振る舞いを覚える事に意義なんて見い出せなかった。
反復練習する時間も場所も与えられないのだから、身に着く訳もない。
私は一度教えられただけで完璧に身に着けられるような優秀な人間じゃなかった。むしろ不器用な方の人間だ。時間が開けばすぐに忘れてしまう。
中途半端で拙いマナーを覚える事に時間と労力を費やして見世物として嗤われるか、好きに振舞って礼儀知らずの珍獣として嗤われるかの違いでしかない。
それなら私は、その時間を創竜神様への祈りに充てる。
移動すらままならない私に、そのくらいの自由は許されたっていいはずだ。
ちらっと横目で見ると、ナディアが悲し気な目で私を見ていた。
「殿下の境遇を我々は重々承知しております。ですが周囲に居る者や噂を耳にした者全てがそうである訳ではないのです。フリートベルク王国の名を背負う以上、縛られるものや譲れないものはどうしても出てきます――殿下が平民の出身であれば、と思った事は一度や二度ではございません。お辛い人生なのは承知していますが、どうかご自身のお立場を忘れぬようお努めください」
ナディアは私が十歳の頃から傍仕えをしてきた人だ。
五年も私の傍仕えをしてるんだから、それは色んなものを一緒に見てきた。
特に貴族社会の醜い面は、これでもかーってくらい見てきた。
そんな彼女に支えられてきた五年間だった。
そのナディアがここまで言うのだから、今日の事はもうどうしようもないんだろうな。
私は、創竜神様に仕える竜の巫女で在る自分を捨てる事はできない。
同じようにナディアも、フリートベルク王国第二王女の傍仕えを捨てることはできないのだろう。
どうしても譲れない一線、という奴だ。
そこを譲ったら自分が自分でなくなってしまう。
私は小さく溜息をついて、項垂れた。
「せっかく友達が出来たと思ったんだけどな……近寄る事も許されないのか……王族って大変なんだね」
フレドとは仲良くなれる気がした。でもこれ以上近づいちゃいけないんだって。
フィルは……既に充分仲が良かった。でもこれからは、離れないといけないんだって。
どっちも心が寂しい気がする。
ぴゅーぴゅーと秋の冷たい風が心を通り過ぎているような、そんな感覚だ。
「フィルと一緒に飲んだコーヒーが、また飲みたいな」
なんとなく心に浮かんだ言葉が、思わず口に出ちゃったみたい。
言って少ししてから気付いて、びっくりして自分の口を押えてた。
そっとナディアの顔を盗み見たら、驚いた表情で私を見てた。
「……明日、礼拝が終わったらあのカフェテラスに行かれますか?」
どこか寂し気な微笑みを浮かべるナディアに、私は静かに頷いた。
****
学院の礼拝堂で礼拝が終わった私たちは、街に向かってカフェテラスに入った。
以前頼んだコーヒーをナディアがオーダーしてくれて、今私の目の前に、再びあの黒い液体が入ったカップが置いてある。
ゆっくりとカップに口を付けて、少しだけ口に含む――やっぱり苦い?!
慌てて水で舌を洗い流して、水の入ったコップを空にして息をつく。
「やっぱり苦いよー。フィルはどうしてこれが美味しいと思うのかな」
「こちらを加えてみてください」
微笑むナディアが、お砂糖とミルクを差し出してくれた。
さらさらとお砂糖を加え、トプトプとミルクをたっぷり注いだ。
真っ黒な液体が琥珀色に代わっていく。
改めて口に含む――甘くて美味しい。
これなら飲めると飲んでいくけれど、なんだか”これじゃない”気がしてやっぱり寂しくなり、カップをお皿に戻した。
「なんだか、美味しいけど美味しくないの。変なの」
しょんぼりとカップの中の琥珀色の液体を眺める。
なんで美味しくないのかなー?
ナディアは何も言わず、静かに私を見つめてた。
ティナとアーネは前回一緒じゃなかったから、多分よくわかってないんだと思う。戸惑った表情で私を見つめてた。
私はそれ以上カップが進まず、琥珀色の液体を見つめながら、三人が紅茶を飲み終わるのを待って席を立った。
お店から出る前、ナディアが店主と話をして何かを買っていたみたい。
「ナディア? 何を買ってたの?」
「いえ、殿下は気になさらず」
なんだろう? こんなところで買い物なんて珍しい気がする。
その日はそのまま王宮に戻り、私は王宮の礼拝堂で一人、祈りを捧げていた。
傍にはティナとアーネが控えてる。
ナディアは用事があると言って、今日は礼拝堂に来なかった。
****
夜になり礼拝堂から部屋に戻ると、なんだかとっても香ばしくて良い匂いが漂っていた。
「これ、紅茶じゃないよね……あれ? コーヒーの香り? なんで?」
戸惑う私に、ナディアはソファに座るよう促した。
腰を下ろした私の前に、ナディアがお皿を置いた。
目の前にあるのは……固いパンに燻製肉と新鮮な葉野菜を挟んだ物。なんだかとっても見覚えがある。
「ナディア、これが今日の晩御飯なの?」
ナディアがにっこり微笑むと同時に、ドアがノックされる。
ティナとアーネがドアを開けると、そこに居たのは見慣れた金髪の男の子。青い空のような瞳が私を見ていた。
「フィル?! なんでフィルがここに居るの?!」
「晩御飯にお呼ばれしたので、御馳走に伺おうかと思いまして。今日はここで、美味しいコーヒーが飲めるらしいですね」
どこか照れた笑いを浮かべながら、フィルが私の正面に座る。
フィルにも私と同じパンが給仕され、一緒に真っ黒なコーヒーの入ったカップも置かれていた。
私の前にも同じように、真っ黒いコーヒーが置かれていた。
「では、いただきましょうか」
フィルがパンを頬張りながら、黒い液体をごくごくと喉の奥に流し込んでいく。
私は戸惑いながら、パンを齧っては黒い液体をちびちびと舐めて行く――やっぱり苦い。
そんな時間をしばらく過ごして、二人はパンを食べ終わる。
フィルは食後にコーヒーをお替りして、再びごくごくと飲んでいく。
「ねぇフィル、やっぱりこれが美味しいっておかしいよ?! 苦いじゃない!」
「飲み慣れれば美味しく感じるようになりますよ」
微笑むフィルに、むくれた私は張り合う様にカップに舌を伸ばす――苦い。なのにどこか美味しく感じる。
必死にカップの黒い液体をちびちびと舐めていると、フィルが私に笑いかけた。
「お砂糖とミルクを入れてみたらどうですか? 少しは飲みやすくなりますよ」
「……昼間、それは飲んでみたの。でも、美味しいけど美味しくなくて、途中で飲むのを止めちゃった」
フィルはそれには応えず、私をじっと見ているようだった。
私はフィルの視線を感じながら、ちびちびと黒いコーヒーを舐めて行く。
「苦くて美味しくないのに、飲むのを止めないんですね」
「よくわかんないけど、そんな気にならないの」
フィルに一言応えた後、私はちびちびとコーヒーを舐め続ける。
一口分くらいを飲んだところで、私の舌がギブアップした。
「もーだめー! 苦いー!」
苦笑するナディアからお水の入ったコップを受け取って舌を洗い流していく。
「なんでこれが美味しいのか、やっぱり理解できない!」
口を尖らせてフィルに文句を言う。
フィルはおかしそうに笑っていた。
「好みの差です。いつか美味しく感じるようになる事もあるでしょう」
フィルは自分のコーヒーカップを空にすると、立ち上がって「御馳走様でした。では」と立ち去ろうとした。
私の手がいつの間にかフィルの服を掴んでいて、それに気づいた私の時間が一瞬止まった。
あれ? なんで引き留めたんだろう?
恐る恐る顔を見上げると、フィルも戸惑った顔で振り向いていた。
私は言葉に困り、目を逸らしながらなんとか口を動かす。
「あっと、えーと……今日の学校は、どうだった?」
「いつも通りですよ。もうじき来期が始まる。授業もほとんどありません。僕は武錬クラブで汗を流していました」
フィルは微笑んで応えた。
「フィルは、魔導学部に進んでも武錬クラブを続けるの?」
「……そうですね。今の僕はもう、ゲルダさんの傍に近寄れなくなりました。武錬クラブで汗を流すのも、ありかもしれません」
私はフィルの服を掴んだまま、どうしたらいいか考えた。
今のまま、魔導学部に入学して白竜信仰クラブの人たちと時間を過ごす……でもそこには、フィルの姿がない。
――じゃあ、私が武錬クラブに入ったら?
「私……私も! 武錬クラブに入る!」
私は気が付くと、そんな言葉を口にしていた。
部屋の時間が止まった気がした。
私もフィルも、ナディアもティナもアーネも動きを止めた。
秒針の音だけが静かに聞こえていた。
少ししてようやく部屋の時間が動き出し、フィルが戸惑いながら私に尋ねてくる。
「ゲルダさんは、武錬の心得はあるんですか?」
「ある訳ないじゃない! 私は何もできない女の子だよ!」
「では、止めておいた方がいいでしょう。あそこは武錬を研鑽するクラブです。そうでない者が居る場所ではありません」
「……じゃあこれから武錬を習う! それならいいでしょ?!」
戸惑うフィルの青空のような瞳を、私は必死に見上げながら訴えていた。
再び部屋の時間が止まっていた。
不意に、ナディアが含み笑いをしているのに気が付いた。みんなが動きを止めている中、ナディアの肩が小さく揺れていたのが見えたのだ。
私とフィルの視線がナディアに向かうと、ナディアが笑いを堪える様に口を開く。
「ふふ……わかりました。殿下が武錬クラブに所属できるよう、私が取り計らいましょう。名目はなんとか致します」
私は驚いていた。
昨日の馬車では正面に座る事すら許さなかったナディアが、フィルと同じクラブに所属する事を許した。
それはクラブ活動の時間、武錬場で共に居る事をナディアが許したという事だ。
今のナディアが許す事だとは思えなかった。
まったく理解できない。
え? どういうこと?
ナディアが鋭い目つきになってフィルを見つめた。
「フィリップ王子、分かっていますね?」
「……はい。私が責任をもってアデラガルト王女をお守りいたします」
その言葉でナディアの目が優しくなり、柔らかく微笑んだ。
「今はそれで結構です。くれぐれも攫われる事の無いよう、心して下さい――さぁ殿下、そろそろ御手を御放しください。フィリップ王子の服が伸びてしまいます」
言われて「あっ」と手を離す。ずっと”むんず”と掴みっぱなしだった。
フィルはどこか照れ臭そうに笑い「ではまた明日」と言って部屋を去っていった。
「ねぇナディア、あれで良かったの? それに、どうして今日の晩御飯がパンとコーヒーだったの?」
「ご自覚がないようであれば、今はそれで結構です――いかがでしたか? 今夜のコーヒーのお味は、昼間のコーヒーより美味しくお感じになられましたか?」
「苦かったよ! とっても苦かった! ……でも、昼間より、美味しかった、と思う」
どんどん小さくなる私の声を聞きながら、ナディアは優しく微笑んでいた。
ようやくタイトルにあるコーヒーを絡めたエピソードが出せました、という感じですね。