第9章 ナカモトサトシの野望
しばらくして津上はいくらか正気に戻ると、立ち上がって執務室を出る。
「津上さん、ウォレットは復元できましたか?」と、待ちわびた葉子から結果をたずねられる。
「ああ……」
「ほんとうですか!? それでビットコインはいくらか残っていましたか?」
津上は葉子のまえをとぼとぼ通りすぎて、「早退する……」
「えっ、今夜はみすず銀行の東京支店長さんと会食の予定でしょう? 国債の売りオペの実施にむけた重要な意見交換の場になるとおっしゃっていませんでしたか?」
津上は少しだけふりかえって、「欠席する……」
「えっ、欠席!? もしかして体調を崩されましたか?」
「いや……」
「じゃあどうして?」
「Xに会いに行く……」
「Xって? えっくす、えくす、江楠さん?」津上は出ていく。「――ああ、ちょっと待って!」
葉子は立ったままポカンとする。「ああ、行ってしまった……まったくもう! ドタキャンもいいところだわ! 急いで先方に欠席の連絡を入れなくちゃ!」
津上はタクシーで霞が関へと移動する。
その道中の国道1号線で、道路わきにデモ隊を見かける。石油元売と食品卸売の業界団体が、インフレにたいする政府の無策を抗議しているのだ。津上は地べたの市況に注視してきたが、サプライチェーンの上流ではもっと早くからインフレに苦しんでいたようだ。
財務省に到着すると、守衛に元妻アリスへの取り次ぎをたのむ。
しばらくしてアリスが玄関先に現れる。「あなた、どうしてここに? 会いたいときは弁護士を通してくれないと困るわ。はっきり言っておきますけど、わたしはあなたと復縁するつもりはありませんから」
「いや、ちがう。きみに会いに来たわけじゃない」
「じゃあいったい何の用で?」
「城山に会いに来た」
「城山くんに? まさかわたしをめぐって決闘でもするつもり?」
「フッ、そんなわけがない」
「でしょうね! もし決闘なら、あなたを男らしさで見直したかもしれないのに、あなたはよっぽど意気地のない人よ! ほんと、離婚してせいせいしたわ。まあいずれにせよ、城山くんはお忙しい人よ。予定がびっしり詰まっているわ。ちゃんとしかるべき筋に届け出て、予約を入れてくれないと会えないの。なんてったって財務大臣だもの!」
津上はいらだつ。「いいから、ぼくが面会に来ていることを伝えるんだ!」
「しかたないわね。いちおうお伝えするけれど、城山くんはいま外国の要人さんと面会中だから、それが終わったらね」
「ダメだ、今すぐ取り次げ!」
「あなた、わがままを言わないで」
「さっさと行けえ!!!」と津上は思わず絶叫する。
「キャアアア!」驚いたアリスは、逃げるように館内に駆け込み、大臣室へと直行する。
いっぽう津上はその場で呼吸を整えている。ハア、ハア……思えば、アリスと夫婦だったとき、こんなに怒鳴ったことはなかった。
しばらくして、アリスが玄関先に戻ってくる。「あなた、城山くんがお話ししてくれるそうよ。さあ、お越しになって」
このあとアリスが津上を大臣室まで連れて行き、津上がその扉を開くと、城山とMMT党出身の経済産業大臣が、トーブを身にまとうアラブ人と向かいあって座っている光景が、目に飛び込んでくる。
城山が立ち上がり、「では、これで商談成立ですね」と言って、アラブ人に握手を求める。
アラブ人がこれに応じる。「イエス、イッツ・ア・ディール!」
このあと和気あいあいとした雰囲気で、アラブ人と経産大臣と通訳が退席していく。
すると大臣室に、城山と津上のふたりだけが居残ることになる。
城山は緊迫するインフレ情勢にまるで気づいていないかのように、とても穏やかに話しかける。「かれはサウジ王族のひとりさ。こんどわれわれは、サウジアラビア産の石油をむこう3か月、日本に独占供給してもらうことで合意したんだ」
津上にとって寝耳に水のニュースだ、いや、国民ぜんいんにとって。「こんな原油高の情勢で? いったいいくら払えば一国の石油を買い占められるんだ?」
「10兆円かな」という城山の軽口に、津上は唖然とする。
「なんだと……そんな高値で買い付けたら、ますます原油価格が高騰するだろう? そうではなくいまこそ、備蓄している石油を放出するときだ! だいたい10兆円なんて金が政府のどこにある? またMMTで国債発行か?」
「ちがうよ」
津上は悟る。「ま、まさか……きみのビットコインで?」
「おやっ?」城山はにんまりして近づいてくる。「わあ、ようやく気づいてくれたんだね!」
津上は、つかんでくる城山の両手を振り払う。「ああ、気づいたさ! きみとナカモトは、ぼくに挑戦状をたたきつけていたということに!」
「おいおい、あれは挑戦状ではないよ。招待状さ。マスコミのデタラメ記事を真に受けるなよ。ミステリ小説じゃあるまいし、挑戦状なんて仰々しすぎる」城山はかかげた週刊誌をほうり投げ、津上を見つめる。「そうではなくきみは、ナカモト陛下とわたしから、ビットコイン三体協会の一員として招待されているのだよ」
津上は発狂する。「ナカモトへいか、だとぉ?」
「ああ、ナカモト皇帝陛下だ。そしてわたしは、陛下の諮問を受けて政務をつかさどる第一大蔵卿、すなわち事実上の首相さ」
「城山、きさま、いったいなにを言っている!」津上は立ち上がって城山をにらみつける。
城山は、まあまあおちついて、というしぐさで津上をなだめてから「わたしとしてはすぐにきみを第二大蔵卿、すなわち事実上の財務大臣に任命するつもりだった。でも陛下がどうしても、きみがじぶんから気づくまで待つように、とおっしゃってさ。きみのビットコインに対する忠誠度を診たかったようだ。そこでわざわざ取引記録を仕組んで、きみだけがわたしたちの関係に気づけるように推理の余地を残しておいた。ほら、きみはむかし謝恩会で、わたしへの誕生日プレゼントとしてビットコインをくれたね? ちゃんと覚えていてくれたんだね?」
津上はポケットから懐中時計を取り出し、テーブルに置く。「これはきみに返す!」
「いいや、これはわたしがきみにあげたものだから、どうかそのまま持ちつづけてくれ」城山は津上の手に懐中時計を収めようとするが、こばまれる。「わかったよ、懐中時計は返してもらう。でも、どうかわたしの話を聞いてくれ」
津上は黙りこむだけで、立ち去らない。
城山はホッとして語りだす。「そもそもきみを、ビットコイン三体協会の一員として招待することになった発端は、わたしが陛下から100万BTCの送金先アドレスをたずねられたさい、わたしが誤って、きみがわたしに作ってくれたアドレスを、陛下にお伝えしてしまったことにあった。
「すると陛下は取引記録を調べて、『コレハ、2011年3月ニ使用歴ノアルあどれすデハアリマセンカ!?』
「しまった、陛下から叱責された! そう思ってわたしはとにかく焦ったよ。
「『まことに申し訳ございません。すぐに新しいアドレスを作成して、改めてお伝えします』と丁重に謝ったら、
「『イイエ、ソレニハオヨビマセン。取引記録ヲ拝見シタトコロ、コノあどれすトツナガッテイル送信元あどれすニハ、2010年6月ニ、ワタシノ盟友デアルあんだーそん氏カラ5BTCヲ受信シタ記録ガアリマスネ! コチラモアナタノあどれすデスカ? デアレバアナタハ、びっとこいんノ創成期ニ普及活動ニ貢献シテクレタ恩人デハアリマセンカ! デアレバワタシハ、アナタニタイスル親愛ノ情ヲ世界ニ示スタメ、アエテコノあどれすヲ、100万BTCノ送金先ノヒトツトシテ指定シタイト思イマス』
「『いいえ、陛下にお伝えしたアドレスは、もともとわたしの友人が作ってくれたもので、5BTCを受け取ったのはその友人です。かれがわたしにビットコインを送ってくれたことで、わたしはビットコインの世界に入りました』
「『ホウ、ソウデシタカ。デハ、ソノカレコソワタシノ恩人デスネ? キット優秀ナ人間ナノデショウネ?』
「『はい、きわめて優秀で、2011年1月の時点でビットコインをテーマに修士論文を書いた、先見の明がある男です』
「『ソレハオモシロイ! デハ、ソノ友人モワレワレノ計画ニ誘ッテミマセンカ? 現在ハナニヲシテイル方デスカ?』
「『かれは名前を津上といいまして、いまは日本の中央銀行である日本銀行で幹部職員として働いております』
「『ナント! ゼヒソノ方ヲ誘ッテクダサイ!』
「こうしてきみはナカモト陛下から認められたわけだよ」
津上はうわのそらで城山の話を聞いていた。「ナカモトが架空の人物ではなく、そんなにもありありと実体をともなっているなんて、にわかに信じられない……しかも、きみと通じているなんて」
城山は苦笑する。「実体をともなわずして、どうやってビットコインを作ったのさ? ナカモト作る、ゆえにナカモトあり、だよ。それにね、わたしはたしかに陛下と通じているよ。いちどもお目にかかったことはないけれどね。おそらく今後も陛下と会うことはないだろう。陛下との交信はいちどメールでつながってからは、テレグラムに切り替えておこなわれている」
「どうやって最初にナカモトと接触できたんだ?」
「ある日突然、陛下から連絡が来たのさ。例のサトシンからね。件名にはご丁寧に『なかもとさとしト申シマス』と記されてあったよ。要するにわたしは陛下からナンパされたのさ」
津上はなおも信じられない。「どうしてナカモトのほうから、他ならぬきみに接触が試みられたのか? 世界じゅうの人間がサトシンにメールしても、うんともすんとも返事しなかったナカモトが、どうしてきみにだけはメールをよこしたのか?」
城山は誇らしげに「フッ、それはわたしだけが陛下から認められたからだろう」
「だからなにが? なにがいったい認められたのか? 世界じゅうの人間が認められなくて、きみだけが認められた、その差は何だったんだ?」
「それは魂のたっぷりこもった熱い思想だよ」
「はあ?」津上はあっけにとられる。
城山は説明する。「わたしは財務省職員として働きながら、新たな貨幣制度の創設を訴える白書をインターネットに匿名で発表していたんだ。するとサトシンからメールが来て、
「『アナタノ白書ヲ読ンデ、トテモ感動シマシタ。ツキマシテハ、アナタノ事業計画ニ出資シタイト考エテイマス』
「最初は悪質ななりすましメールかと思ったよ。ナカモト陛下をかたる人間はこの世に腐るほどいるからね。この人もまたわたしをからかおうとしている、そんなふうに疑ってわたしは既読スルーした。いま思えばとんでもなく無礼だったけど。
「ところが数日後ふたたびメールが届いて、『アナタガ発表シタ白書ニ、ワタシハ非常ニ感銘ヲ覚エマシタ』と、ふたたび褒めてくださる。また既読スルーするのはさすがに失礼かなと思って、
「『お読みいただきありがとうございます』とわたしが軽く返したら、
「『ツキマシテハ、ゼヒワタシノ財産ヲ使ッテ、アナタノ構想ヲ実現サセテミマセンカ?』と。これまた早すぎる展開にわたしはついていけなかったよ。
「『出資と申されましても、いったいどのようなお考えがあってのお申し出ですか? わたしの構想はお金があれば実現できるようなたぐいのものではなく、政府に訴えて実現にこぎつけるようなものですよ?』
「『イイエ、ワタシガ保有シテイルびっとこいんヲ使エバ、アナタノ構想ハ形ヲ変エテ実現可能デアルトワタシハ思イマス。政府ニタヨル必要ハアリマセン』
「形を変えて実現する? はて、いったいどういう意味だ……?
「ハッ! そのときわたしは理解したんだ。たしかに陛下のビットコインがあれば、わたしの構想は実現できるじゃないか! と。
「『まさか、あなたはほんとうにナカモトサトシさんですか?』とたずねたときにはもう、わたしは陛下が陛下であることに確信していた。
「『イイエ、ワタシハなかもとさとしデハアリマセン。タダ、なかもとさとしノ名前デ活動シテイル者デス』
「『では改めて、ナカモトさま、いいえナカモト陛下、ぜひともあなたの出資を受け入れさせてください!』
「『イイデショウ。タダシ条件ガアリマス。ソレガ満タサレレバ、ワタシハアナタニびっとこいんヲ送金シマス』
「『条件とは何でしょう?』
「『ソレハアナタジシンガ覚悟ヲ示スコトデス。覚悟トハスナワチ、財務省ヲ辞メルコトデス。アナタハ白書ノナカデ、ジブンガ財務省職員デアルコトヲ、トコロドコロ匂ワセテイマス。アエテソウ記シマシタネ?』
「『ええ、そのとおりです。匿名とはいえ、あれは政府内部からの批判白書なのです』
「『ソノ気持チハヨク分カリマス。シカシアナタガ官僚ノ地位ニ甘ンジテイルカギリ、アナタノ構想ハ実現デキナイトワタシハ思イマス。実現スルニハヤハリ政界ニ進出シテアナタ自身ガ権力ヲ得ナケレバ』
「わたしはたしかに陛下のおっしゃるとおりだと思ったが、
「『わたしが財務省を辞めたとたん、陛下との交信がとだえることはないでしょうね?』と心配でたずねた。
「『信ジルカ信ジナイカハアナタシダイデス。口先デ構想ヲ訴エルノミデミズカラ行動ヲ起コサズ、夢ヲ夢ノママデ終ワラセルノモマタ、ヒトツノ人生デショウ』
「わたしはこのチャンスをぜったいに逃してはならないと思った。
「『ナカモト陛下、わたしはいまここに決心しました! 財務省を辞めて政治家に転身し、みずからの力で運命を切り開きます! 陛下におかれましてはどうかお力添えほどよろしくおねがいいたします』
「『ソレハヨカッタ。期待シテオリマス。マズハ選挙ニ勝ツタメノ方法ヲ考エテクダサイ。ソレカラ、選挙活動ニ必死ニ取リ組ム姿勢ヲ見セテクダサイ。ソレラガ確認デキシダイ、ワタシハアナタニびっとこいんヲ送金シマス』」
津上が口をはさむ。「城山、きみがさっきから言っている夢やら構想とはいったい何なんだ? 話を聞いているかぎり、きみはどうもMMTの実現が目的ではなかったようだね? だって国家の関与を強めるMMTは、国家権力の打倒を願ってビットコインを創造したナカモトの興味とはまるで正反対だから。〈MMTを実現させる党 財政法第5条を改正して〉……ハッ! すべてはきみの茶番劇だったのか。MMTでインフレをもたらし、日本円の破壊工作をしかけることが真の目的だったなんて! とどのつまりはビットコインで石油を買い占めて、インフレをさらに悪化させてみせようとは!」
「そうさ。わたしがMMTを本気で信じているわけがないだろう? あんなクソ理論は、一発逆転を狙うエセ学者たちがこぞって唱える机上の空論さ。でもね、日本円の破壊はわたしの計画の序章にすぎないよ。わたしの野望はそんなに悪事にまみれたものではない」
「なにっ、まだこの先があるのか!」
「ああ!」城山は満を持して語りだす。「それこそわたしが白書で発表したことさ。わたしの夢は、いまの時代にあう新しい貨幣を創造することだ!」
「なんだと? デジタル通貨のほかに、いったいどんな貨幣のイノベーションが残されているというのか?」
「イノベーションじゃなくて、リノベーションかな!」
「リノベーション? いったい何の?」
「ケインズが提唱したブレトンウッズ体制のリノベーションだ!」
「1944年にブレトンウッズで決まったことといえば……IMFや世界銀行の創設か?」
「そっちじゃない」
ならば残るはひとつしかない。「金本位制か?」
「そのとおり! ただし、金本位制というより、本位制度じたいのリノベーションだ。きみも知っているとおり、貴金属で貨幣の価値を裏づける制度だ」
「なぜいまさら本位貨幣なのだ? もう終わった貨幣だろうに?」
「たしかに、ニクソンショックで金本位制は終焉して、世界は兌換紙幣から不換紙幣へと切り替わった。それによって、価値に裏づけのない紙切れがどんどん印刷され、信用創造がふくらんでいった。わたしはそれが問題だと思うから、止めたいのだ!」
「なぜ? 不換紙幣のおかげで世界は金の保有量にとらわれることがなくなり、急速な経済発展をとげたじゃないか」
「もちろん社会が豊かになったことは認める。でもいっぽうで、伝統的な財金政策ではもはや制御できないほど、貨幣は巨大にふくらみすぎたよね? こうして世界は景気変動の波につねに振り回されるようになった。中央銀行がおろした銀行券を民間銀行が企業に貸し付けて、利潤がことさら追求された結果、自然環境はどんどん破壊されていった。2015年のパリ協定で、日本はおととし2030年までに温室効果ガスの排出量を2013年比で26%削減すると約束していたが、はたしてこの約束は守られただろうか?」
津上は答えに窮する。「いや、守られなかった。しかし削減は着実に進んでいる」
「ほんの数パーセントはね。しかしそれはコロナ禍の経済停滞で吸収されたものだよ。つまり日本はここ15年で温室効果ガスを、実質的にほとんど削減できなかったのさ。なぜだか分かるかい?」
「それは、国民ひとりひとりの努力が足りなかったから――」
「ちがう! そんな生半可なことじゃない! 人々が使っている貨幣が、あいかわらず利潤を求める経済合理性にもとづいて発行されつづけているからだよ! この問題を解決しないかぎり、持続不可能な開発はこれからもどんどん続くだろう。だからこそ信用創造を基盤とする不換紙幣を廃止して、本位貨幣に戻し、日本を定常経済に着地させる必要があるのだ!」
津上はつい城山の理念にひかれそうになるが、「しかしどうやって本位制度を復古するのだ? 世界じゅうの金貨をナカモトのビットコインで買いあさっても、日本経済をまかなうにはまだ不足するだろう?」
ハッ……! そのとき津上は悟る――
金貨よりも重いものがこの世にはあるではないか!「ま、まさか」
「そのまさかさ。ビットコインで通貨の価値を定義づけるのだ! すなわち、ビットコイン本位制の創設だ!」城山の演説に熱がおびる。「わたし自身がcoinbaseとなって、ビットコイン本位貨幣を発行し、この日本で定常経済を実現してみせる! そして同時に、だれひとりとして不幸にならない、貧困に苦しまない社会保障制度を創設してみせる! 日本円に代わる新通貨の名称はもう決めてある! 比だ! この一字でビイと読ませて日本比だ。もちろん比特幣からとっている。円と同じ4画で書きやすいだろう? 通貨単位としてこれ以上ふさわしい文字があるだろうか!」
「きみの理念は分かった。しかしきみは、世界から信用を集める日本円をなぜあえて破壊しようとするのか? 制度だけ導入すればすむ話だろう?」
「いいや、どうしても日本円の破壊が必要だ! 国民総ざんげさせるために!」
「なぜ国民が謝らなければいけない? いったいなににたいして?」
「国民ひとりひとりが住宅ローンを借りることで、信用創造に加担してきた歴史にたいしてだよ! サブプライムローンで信用創造に加担したアメリカ国民は、リーマンショックで天罰を受けた。しかし日本人はいまだ直接的に天罰を受けていない。だから日本円を破壊して大恐慌に陥れ、猛省をうながすのだ!」
津上はことばを失う。「そ、そんな……」
城山はさらにまくしたてる。「そうでもしなければ、環境破壊はいっこうに収まらないよ! わたしの仕事は、これから大恐慌で苦しむであろう人々からは大いに非難されるだろう。しかし、100年後の未来人からはかならずや評価されると信じている。ビットコイン三体協会のおかげで地球の環境は守られました、ありがとうございますとあがめられるだろう。きっと後世の歴史の教科書にわたしたちの名前と功績は載るだろう」
「ぼくがきみの野望を止めてみせる! 日本円は破壊させない!」
「ほう、きみは陛下とわたしからの招待を断るのか?」
「あたりまえだ!」
「しかたない。残念だが、わたしだって過去に、きみたちからの結婚式の招待を断ったから、とやかくは言えない――おっと、きみたちは離婚したか。じゃあわたしは招待を断って正解だったな。あやうく祝儀代を損するところだった」
ちょうどそのときアリスがお茶を持って入ってきたので、津上はつかみかかった拳をほどく。もう少しで城山を殴るところだったが、突きはなしてきびすを返す。
城山が津上の背中にむかって「おいおい、いまさらまにあわないよ。日本円は崩壊にむかってまっしぐらだ」そう言ってモニターをつける。経済指標がパッと一覧で表示される。
消費者物価指数、日経平均株価、円ドル為替相場、国債金利……ありとあらゆる指標が、ハイパーインフレがもたらす大恐慌の兆候を示している。経済とはかくも秒単位で動くものなのだということを、日本人は1989年のバブル崩壊で経験していたが、長らく続いたデフレ不況ですっかり忘れていた。
だが津上は希望を失っていない。「いや、まだまにあう!」
「フン、そんなの、ただの捨てセリフさ。インフレはもはや手の打ちようがない状態にまで進行している」
「いや、ぼくがかならずインフレを平定してみせる!」
「まあ、せいぜいがんばってくれ」
津上は財務省を出る。
いま城山をメディアに告発しても、どうせしらばっくれられて時間を浪費するだけだろう。だから告発はインフレ平定のあとだ。
津上は葉子をつうじて2週間の休職を申請し、このあいだにインフレ平定にむけた施策をねる。
いっぽう城山は大臣室に残り、となりにはアリスを座らせてかき抱き、ナカモトとの交信を回顧する。
『びっとこいんハ、イマワシイ闇取引ヤ投機ニ巻キコマレ、ミンナノ貨幣ニハナリキレズ、タンナル金融資産ニシカナリマセンデシタ。コノコトハワタシニトッテ大イナル無念デシタ……』
城山はこのとき、うまい励ましのことばを思いつかなかった。
ところがナカモトから続けざまにメッセージが届いて、
『シカシコウシテワガ子ノヨウナびっとこいんガ、裏方ニマワッテ本物ノ貨幣ヲ支エル役目ヲ担エルノナラバ、ソレハソレデワタシノ本望デス。親愛ナルはるノ構想デモアリマスカラ』
もともとビットコイン本位制を最初に提唱したのは、ビットコインの共同開発者であるハル・フィニー氏だった。かれが掲示板にしたためたのを、ナカモトは返事こそしなかったが、ちゃんと読んでいたのだ。
『ナカモト陛下、わたしはあなたに忠誠を誓います』
城山はナカモトに想いをはせながら、アリスのこめかみにそっとキスする。