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第7章 迫りくるハイパーインフレ

 それからおよそ9か月の時が流れる――


 2032年3月16日、津上は久しぶりにトランザクションエクスプローラーをスマホでのぞいている。


 すっかりその存在を忘れていたが、ノック&ノティス運動が目標としていたカンパ1億件をまもなく達成しそうだ、とニュースで知ったのだ。



 〇アドレス15jvwhSkiMF282ryXcK39qrVXQLzpXmBwCの情報

 ///////////////////////////////////////////////////////////////////////

 取引件数:99899919

 受信総額:1085.29156307BTC

 送信総額:12.94245012BTC

 最終残高:1072.34911295BTC

 ///////////////////////////////////////////////////////////////////////



 ホントだ、取引件数が9900万弱だから、あと約100万件だ。


 Yのアドレスの取引件数には、2011年3月25日までの取引12件が含まれているから、この数字が1億とんで12件になれば、はれて目標達成となる。


「わあ、すごーい! 1072BTCも貯まっている!」葉子が津上のうしろに立っていて、はしゃいでいる。「これって、日本円でいくらですか?」


「ざっと、1200億円くらいかな」


「キャー、うらやましい!」葉子は飛び跳ねる。


「ブロックチェーンの住人たちが結束すれば、ちりも積もれば山となる、か……」津上は感慨にふける。


 とはいえ、住人たちのなかには金の亡者たちもたくさんいた。そのせいでノック&ノティス運動のお金配りキャンペーンは、混乱のさなか始まった。


 冒頭から、金の亡者たちがひとりで何度も1satoshiだけをYに送金し、お金配りキャンペーンへの応募件数を荒稼ぎしようとしたのだ! そのためカンパ件数は、わずか1時間で最初の100万件に到達した。


 ところがそれらの取引のほとんどは、すぐにはブロックに込められず、すべての取引が込められたのは約1週間後のことだった。


 ナカモトたち開発者が〈0.00000001BTCの洪水攻撃〉と呼び、恐れていたDoS攻撃が、攻撃ではなく人災として現実に起きてしまったのだ!


 ブロックの容量が上限いっぱいで込めきれなかった取引は、データの一時的な保管場所であるメンプールのなかで、次のブロックの生成を待たされる。送金手数料を多く払えば優先的にブロックに込められるが、足りなければいつまでも込められずに待たされる。そのあいだにも取引が増えると、プールの水はさらにあふれる。ブロックチェーンが正常化するには、約10分おきに生成されるブロックが未済の取引を着実に消化して、水が引くのをただ待つしかない……


 こうして起きた2031年6月ビットコイン豪雨にも負けず、10BTCを獲得した人物は、送金手数料をあらかじめ多く設定していたことで、1satoshiの送金をブロックに込めてもらうことに成功していた。そして、そのうちの1件が幸運にも10BTCに当選したのだ。水に溺れながらも財宝を獲得したその雄姿から、その人物はビットコイン界のモンキー・D・ルフィと形容されて、メディアで盛んにもてはやされた。

 こんなふうに――



『ルフィさん、当選おめでとうございます!』


『ありがとうございます』


『お金配りキャンペーンにはぜんぶでいくら投じたのか、あらためてお聞かせねがえますか?』


『100件・100satoshiを送金しましたが、期限内に届いたのは54件でした。よって投資金額は54セントです。でも、送信手数料がぜんぶで800ドルくらいかかりました』


『まあ、たった54セントで800ドルも! ずいぶん割高でしたね!』


『それでも賞金の1000万ドルと比べたら、びびたる金額でしたよ』


『ええ、そうでしょう。ところであなたは、ワインズバーグ兄弟が提唱するノック&ノティス運動の理念をごぞんじですか?』


『いいえ、申し訳ないのですが……ぜんぜん知りません。〈ナカモトめざめる〉にはまったく興味がないので……』



 ワインズバーグ兄弟は悔やんだ――ちくしょう! カナヅチ野郎どものせいでビットコインのコミュニティに多大なる迷惑をかけてしまった! 


 そこでかれらは洪水の再発防止策として、お金配りキャンペーンの応募要項をすぐさま修正した。次の200万件めの賞金から、0.0001BTC=約100ドル以上の大口のカンパのみを抽選の対象とすると定めたのだ。


 すると効果はてきめんに表れて、金の亡者たちによる1satoshiのカンパは一掃された。


 カンパの金額は、カンパをかねてお金配りキャンペーンに応募する0.0001BTC以上と、純粋なカンパのみのそれ未満に二極化した。


 前者のカンパはじっさい、ほとんどが0.0001BTCちょうどだが、後者のカンパはとくに、よろしくの4649satoshiやI Love Youの831satoshiなどが多く見られた。Yによる告発を信じてやまない人たちが、それぞれの国の言語でYに告白しているのだ。


 ところが、ノック&ノティス運動がカンパ1億件に近づいても、Yはいっこうに告発しない。送信総額は2011年3月25日時点の約13BTCからまったく増えない。


 きょう現在までのカンパ純人数は約7千万人と推計されている。


 津上は心のなかでYをののしっていた――7千万人から1200億円も集金したのに、Yはいまだ報復をビビッて告発をためらっているとは! 根性なしめ! というか詐欺師じゃん! 


 いっぽうで同情もしていた――いや、もしかしたらYはもう死んでいるのかもしれない……だとしたらYはかわいそうなやつだ……と。


 もしくはYは生きていても、ウォレットが死んでいるという可能性がある。ビットコインをしばらく動かさないうちに、うっかりウォレットを紛失してしまい、秘密鍵も忘れていて、ウォレットを復元できない状況に陥っているのだ。Yはビットコイン初期のユーザーだからなおさらだ。


 ワインズバーグ兄弟はYに告発させるためにカンパ1億件をめざしてきたが、いつしか目的と手段が入れ替わり、カンパ件数の増加のほうに一喜一憂しているじぶんたちに気づきはじめた。


 そこでかれらは苦渋の決断をくだした。鳴かぬなら斬ってしまえホトトギス、と。



【大切なお知らせ


    ノック&ノティス運動の一環で

    続けてきたお金配りキャンペーンは、

    まもなく到達するカンパ1億件をもちまして、

    終了とさせていただきます。

    これまでのご愛顧、

    まことにありがとうございました。

    これまでカンパしてくれたみなさまに、

    感謝を申し上げるとともに、

    現状ではYによる告発を実現できていないことを、

    深くおわびいたします。

    そこで、最後の1億件めのお金配りキャンペーンは、

    みなさまへの感謝の気持ちを込めまして、

    賞金を95BTCに増額させていただきます。

    1等30BTC1本、2等10BTC2本、

    3等5BTC4本、4等1BTC25本の、

    合計32本95BTCを抽選でプレゼントいたします。

    ただし、参加はおひとりさま1件までとさせていただきます。

    みなさま、ふるってご参加ください。

    Yのアドレスを再掲いたします。

    15jvwhSkiMF282ryXcK39qrVXQLzpXmBwC

            

        主催者 ワインズバーグ兄弟】



 なんと! 最期のお金配りキャンペーンは、実質的な還元率が最大で95%まで跳ね上がる! ちなみに日本の宝くじの還元率は46%で、競馬は74%なので、これらよりぜんぜん高い。


 そしてたったいま、



 〇アドレス15jvwhSkiMF282ryXcK39qrVXQLzpXmBwCの情報

 ///////////////////////////////////////////////////////////////////////

 取引件数:99900012

 受信総額:1085.30196307BTC

 送信総額:12.94245012BTC

 最終残高:1072.35951295BTC

 ///////////////////////////////////////////////////////////////////////



 カンパ件数が9900万件を突破し、1億件めのお金配りキャンペーンが始まった。


 葉子がうしろから津上の肩を揺さぶって、「ねえ津上さん、超お買い得なギャンブルじゃないですか! ぜひ応募しましょうよ!」と、はやしたてる。


「たしかにお買い得だけど、1口約1万円だぞ? 高すぎだよ。それに、いずれか当選する確率が100万分の32なのはやはり低すぎる!」


「津上さんならきっと当たりますよ!」


「当たらないって! きみがかってに参加すればいい」


「参加したいのはやまやまですが、いぜんお話ししたように、わたしにはイーサリアムちゃんのトラウマがあって、ビットコインを新しく買うのは怖いんです。だから代わりに参加してくれませんか?」


「ぼくだって、日銀に入るときにビットコインは処分したと言っただろう? いまさら取引所にアカウントを開設してビットコインを買うなんてめんどくさいよ」


 などと話しているうちに、取引記録が自動で更新される。



 〇アドレス15jvwhSkiMF282ryXcK39qrVXQLzpXmBwCの情報

 ///////////////////////////////////////////////////////////////////////

 取引件数:99910541

 受信総額:1086.35376307 BTC

 送信総額:12.94245012 BTC

 最終残高:1073.41131295 BTC

 ///////////////////////////////////////////////////////////////////////



 ものの数分で取引件数が9901万件に伸びた!


「うわあ、ビットコインジャンボがどんどん売れている! 津上さん! 今すぐアカウントを開設して応募用コインを仕入れてください!」


「もうまにあわないよ。いま開設を申請しても、認可されるのは早くてあさってだ。本人確認の審査は時間がかかる」


「そんなー!」


「あきらめてくれ」


 すると葉子は思いつく。「ねえ津上さん! むかし処分したというそのビットコインは、じつはかすかに残っていたりしませんか?」


「いいや、残ってないって」


「ほんとうに本当ですか?」


「そう言われると……なにぶん20年以上もまえだから正確には覚えていないけど……」


「いちおう、ダメもとで調べてみてくれませんか?」


「ああ、いいよ。家に帰ったらニーモニックを調べて、ウォレットを復元してみるよ」


 ニーモニックとは、秘密鍵とは別に、ウォレットアプリを復元するパスフレーズである。2013年9月から始まった方式で、じつは津上はビットコインと縁を切ったあとも、これだけは試していた。いまではデジタル円アプリにも導入している。


「えー! 今夜にはきっと、お金配りキャンペーンは終わっちゃいますよ! いますぐ家に電話して聞いてくれませんか?」そう言って葉子は、津上の頭を激しく揺する。


「わあああああ……わかった、わかったよ!」


 津上はやむなく自宅に電話をかけると、春休みを過ごしていた息子につながる。


『もしもし、父さん、どうしたの?』


「もしもし、おねがいがあるんだ。書斎にあるはずの英和辞典を探してくれないか?」


『いいけど、なんで急に辞書なの?』


「辞書にだいじなメモを記しているから、調べてほしいんだ」


『それって仕事に必要なメモなの?』


 津上は葉子からにらまれている。「ああ、どうしても必要なメモだから至急、調べてくれ!」


『わかったよ、ちょっと待って』ろうかをスタスタ歩いて、ドアを開ける音が聞こえる。『英和辞典、英和辞典と……あった! で、どこにメモしてあるの?』


「それが……どこにメモしたかは父さんも覚えていないんだ」


『ええっ!?』


「でもね、12個の英単語に丸で印をつけたことだけは覚えているんだ」


『えー、ということは全部のなかから探すの?』


「そうなんだ……悪いけど探してくれないか」


『しかたないなあ――おっ、さっそく見つかった。あっ……!』息子の声が急にとだえる。


「どうした? なんという単語が見つかった?」


『ディボースという単語に……印がついているよ……』


 よりによってdivorceとは……! 言うまでもなく離婚を意味する。


 じつは津上は、昨年末にアリスと離婚していた。


 やはりアリスは、城山のもとで私設秘書として働きながら、夫を愛しつづけるのは難しかった。津上も息子も娘もその離婚の心痛をいまだに引きずっている。


「そうか、わかった……で、そばに数字が書いていないか?」


『書いてあるよ。5って』


「りょうかい。divorce・5だな」津上は手帳に記す。「よしっ、その調子で続けてくれ」


『じゃあ、Aから順にめくってみるよ……』ペラペラと音が聞こえる。


 しばらくして息子は提案する。『ねえ父さん、時間がかかりそうだから、いったん電話を切ってもいいかい? ぜんぶ探しおわったらラインでメッセージを送るよ』


「そうだな、いったん切ろう。連絡を待っているよ」


『はあい』


「ではよろしく」津上は電話を切る。


「どうですか、うまくいきそうですか?」と葉子がたずねる。


「ああ。でもしばらく時間がかかりそうだから、今からお昼ごはんを食べに行こうか」


 津上は2032年に入ってから外食する回数が増えている。離婚したからではなく、外食をつうじて地べたの物価を調査しているのだ。


「いいですね! 今日はわたしが津上さんにおごります! 息子さんに働かせちゃって悪いので」


「そうかい、ありがとう。ではおことばに甘えるよ」


 ふたりは京橋のほうへ出かける。


 葉子が話しかける。「津上さん、MMTは大成功ですね。ほら、中央通りを歩く人々の服装を見てください」


 津上が見ようとしないので、葉子はそのまま続ける。「みんな華やかで着飾っているわ。うわあ、高島屋をのぞけば、どこもかしこもお客さんでいっぱい!」と、じぶん短観を述べる。「日本銀行は公務員みたいに景気変動してもお給料が変わらないから、こういう好景気のときはもうかっている民間企業で働いている人たちがうらやましい!」


 ようやく津上が口を開く。「ふん、この好景気はいつまでも続かないさ。いずれは後退局面に入る。そのとききみは『日本銀行で働いていてよかった、お給料が安定していて』と言うだろう」


「津上さん、いいかげん負けを認めたらどうですか? MMTは正しかったんですよ。国民はみんなそう思っていますよ」


 津上はこれには答えず、行きつけのラーメン店に入り、葉子もつづく。


 客席に着いてメニュー表を見るや、津上は気づく――ラーメンの値段が上がっているのだ。しかも一品だけでなく、どの商品ものきなみ上がっている。


「大将、ついに値上げしたんですね」と顔なじみの大将に話を聞くと、大将は申し訳なさそうに、


「ええ津上さん、すみません、全商品を100円から200円ほど値上げさせていただきました」


「いいえ大将、べつに責めているわけではないですよ。この店に通っているのは安いからではなくて、ラーメンがおいしいからなので」


「そう言っていただき、まことに光栄です」


「それにしても急でしたね。このまえ来たのはたしか……先々週でしたか」


「これには理由がありまして、景気が良くなっておかげさまでウチも繁盛していますが、原材料費や賃金が上がってきているんです」


「なるほど」景気はすでに過熱しているようだ。


「いま時給2000円で従業員の募集をかけても、応募が入ってこないんですよ」


「なんと!」昨年2031年の東京都の最低賃金は時給1369円だった。デフレ不況から脱却した日本経済は賃金を着実に向上させてきたのだ。しかし今年はこの調子だと、いっきに数百円ほど跳ね上がりそうで、そうなると、「まずいな……」


「えっ、津上さん、このラーメン、出汁がきいていてとてもおいしいですよ」


「いや、まずいのはラーメンじゃなくて、物価のことさ」


 葉子はお冷をふくんで飲みくだし、「べつに物価が上がっても、大将が言うように賃金が上がってお給料がぐんと増えるなら、効果は相殺するから問題ないでしょう?」


「いやいや、それがインフレなんだよ!」津上ははしを止める。「きみは年金保険料を払っているかい?」


「ええ、もちろん、まじめに払っていますよ」


「インフレが悪化すれば、なけなしの年金しか支給されなくなるぞ? ハイパーインフレはいくらなんでも、マクロ経済スライドでは対処しきれないから」


「それは困りますね。まじめに払っている正直者がばかを見るのは」


「それがインフレの恐ろしさだ。インフレによって借金は目減りするけど、将来の年金受給額も目減りする」


 すると頭上のテレビから、聞きなじみのある声が聞こえてくる。


『――もしインフレ率がこれいじょう上がったばあいは、政府はすぐさま緊縮財政にかじを切り、日本円の市中流通量を減らしてインフレ率を抑えます』


――城山だ。国会の衆議院予算委員会がテレビで生中継されている。


 じつは日本経済はいま、インフレ率5%に到達してしまったのだ。適正な水準は2%と言われているので、高い状態にある。


 その城山財務大臣と対峙しているのは、


『価格には下方硬直性があり、いったん上がった価格は下がりにくいものです。インフレ率を抑えるのは至難の業です!』


――一介の野党議員に転じていた民自党の山下元首相だ。かれが質問台に立っている。昨年に連立交渉していたころとは、すっかり立場が逆転している。


 山下は続ける。『そもそもインフレ・デフレとは、モノとカネの価値の対比です。たとえカネの流通量を抑えても、それ以上にモノの供給が減れば、相対的にカネの供給が増えることになり、インフレは起こりえます。2031年の日本の食糧自給率は30%で、エネルギーは10%。どちらも外国からの輸入に依存しています。もし不測の事態が起きてこれらのモノの供給がとどこおれば、だぶついていた貨幣が刺激されて、悪性インフレの懸念が強まるでしょう。じっさい2022年のロシアによるウクライナ侵攻では、物流がとどこおって悪性インフレが起こりました』


 城山が答弁する。『現代では、そんな過去の反省を踏まえて、石油や食糧をじゅうぶん備蓄しておりますので、モノが不足する心配はございません――』


 店が混んでいたので、津上と葉子は食事を終えると、ただちに会計を済ませて店を出る。


 ちょうどそのとき津上のスマホが振動する。息子からラインだ。


 メッセージを開くと、そこにはニーモニックが載っている。


 1   gold      2   price

 3   coin      4   supply

 5   divorce   7   economy

 8   cash      9   market

 10  demand    11  budget

 12  bussiness


 まったくの偶然だが、経済に関する英単語がやけに多いなあ、と津上は思った。ニーモニックに使われる英単語はぜんぶで2048語もあるのに、なんとまあ奇妙な組み合わせだ……おやっ?


 津上はすぐに息子に電話をかける。「おい、6番が抜けているぞ?」


『ごめん、父さん、じつは6番だけが見つからなかったんだ』


「なんだって!?」


『必死に探したんだけど、どうしても見つからなかった……』


「きっと見落としているんだろう」


『そうかもしれない――11語でなんとかならないの?』


「ダメだ、12語がぜんぶ順番でそろわないと意味がない。もういちど探してみてくれ」


『はあ……』


「あと1語だから、どうか、たのむ!」


『ねえ、なにかヒントはないの?』


「ないよ。ヒントがないから、パスフレーズなんだ」


『はあ……もう3周も辞書をめくったのに』


「きっと湿気で紙がくっついているんだろう。一枚一枚、ページ番号を確認しながらめくってみてくれないか」


『わかったよ。バイトに行く時間が迫っているから、もういちどだけね。またいったん電話を切るよ』


「ありがとう。忙しいところ無理を言ってすまない」


 津上と葉子が日銀に着いたころ、ふたたび電話がかかってくる。


『父さん、見つかったよ!』


「ほんとうか! よかった! それで、6番は?」


『パニックだよ』


「そうか、ありがとう! 助かったよ!」


『どういたしまして』


 津上は電話を切ると、ニーモニックの表に6番・panicを追記する。また経済用語かよ……と津上は苦笑する。


 panic(恐慌)――この単語が日本経済のゆくえを占っているようで、津上はなんだか不気味に感じる。



 同じころ、国会では質疑が続いている。


 山下元首相「このまま赤字国債の発行を拡大すれば、日本もギリシアのようにいずれは財政破綻してしまいます!」


 城山財務大臣「2010年のギリシアの事例では、外国人投資家がギリシア政府に国債の償還を求めたため財政破綻しました。しかし日本では国債のほとんどを、銀行をはじめとする国内の機関投資家が保有しており、外国人投資家はほとんどおりません。国内の投資家のみなさまには償還ではなく借り換えに応じていただいていますので、理論的には無限に国債発行を続けても、財政破綻は起こりません」


「しかし、いままで借り換えに応じていた国内の投資家も、いずれ応じなくなるでしょう。償還を求められたら、そのときどうしますか?」


「そのときは日銀に新規国債をじかに引き受けさせて、そこで得たデジタル円を返済にあてます。財政法第5条の改正によってそれが実現しました」


「それでは借り換え先が日銀に替わるだけです! それどころか実質的に日銀から通貨の発行権を奪っています!」


「いいえ、政府が発行するのはあくまで国債であり、貨幣ではありません」


「国債は貨幣ではないとはっきりそうおっしゃるならば、国債はやはり借金だと認識していますね? 政府はその借金を返済する意思があるのですか?」


「もちろん政府は今も昔も、借りたお金はかならず返すことをお約束しております。ただし、不況のあいだは返済をしばし猶予していただきまして、景気が回復して税収が伸びたときにしっかりと返済させていただきたいのです」


「いいえ、政府には借金を返済する意思はないですよ――と少なくとも市場からは思われているからこそ」山下はフリップを取り出す。フリップには右下がりの日経平均株価と、右上がりの円ドル為替相場と国債金利の、3つのグラフが載っている。山下はカメラ目線になる。「テレビをごらんの国民のみなさん、株安・円安・債券安のトリプル安が日本を襲っています!」城山のほうに向きなおる。「あなたは日本をデフレ不況から救った救世主ではない! ただの売国奴だ!」


「失礼な! 発言を撤回し、謝罪してください!」


 しかし山下はこれに応じない。


 そのまま制限時間を過ぎて、山下の質疑は終了する。


 そして、2032年度予算案は採決にかけられ、民自党議員の怒号が飛び交うなか、連立与党の賛成多数で可決される。このあと政府は、衆参両院の本会議でも予算案を通過させ成立させる。


 こうして赤字国債の大量発行は2年連続で実施されることになる。



 ところが、前年の2031年から32年にかけて、山下がまさに懸念していた2つの危機が水面下でほんとうに訪れていた。


 食糧危機――地球温暖化がもたらす気候変動によって、世界各地で干ばつや豪雨災害が同時多発的に発生し、食糧の生産量が激減していた。


 石油危機――OPECが石油価格の向上を狙って半年のあいだ日量100万バレル減産していた。日本には石油の備蓄が約1年ぶんあるため、当面の支障はなかったが、将来的に予想される燃料費の増加が、現在の商品価格に転嫁されていった。


 こうして日本に、毎月のインフレ率が50%という、ハイパーインフレの危機がしのびよる。

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