第6章 ナカモトサトシを告発せよ
そのころ津上は――
NSAがいくら報奨金を積んでも、Yは出現しなかったとは……! Yがたのみの綱だったのに……!
――6月9日現在、コーヒーを飲みながら〈ナカモトめざめる〉を推理する安楽椅子探偵になっている。
かれの考察はつづく――いや、待てよ、じつはYは証人として出頭したが、NSAがYの安全を確保するために、わざとその事実をふせているのかもしれない。それこそ証人保護プログラムの趣旨だから。
しかし、いくらNSAが秘密組織とはいえ、〈ナカモトめざめる〉がこれだけ世間の関心を集めたのに、Yをかくまうためだけに事実をふせるなど、ありえるだろうか? Yの証言であきらかになったナカモトとXのたくらみを、ふつうは世界で共有するだろう。
公開するとまずい事実が判明した可能性はある。たとえばNSAの高官がナカモトやXだったという、うそみたいな本当の話が起きていたら、きっと組織は秘密裏にかれらを処分し、対外的には知らぬ存ぜぬを貫き、関係者ぜんいんが死んだ50年後になってその不祥事を世間に公表するだろう……
津上は新しい情報に飢えているが、新聞や雑誌の記事はナカモトの資産移転説を性急に結論づける論考が大半を占めている。マスコミによる世論誘導すら疑いたくなるほど、〈ナカモトめざめる〉は平和裏に解釈されている。騒動はすっかり収まり、世間の関心は薄れてきている。
そのときだった。衝撃的な意見広告が津上の目に飛びこんでくる。
【みんなで 15jvwhSkiMF282ryXcK39qrVXQLzpXmBwC に送金して、
ナカモトをわりだそう! #KnockAndNotice】
という広告がテレビ・新聞・インターネット・SNSに、世界180か国語に翻訳されて同時に出稿されたのだ。津上にはスマホのプッシュ通知とパソコンのポップアップで上がってきた。
広告に記載されているアドレスは、Yのアドレスだ。
ノック&ノティスとはなんぞや?
津上は気になってポップアップをクリックすると、ランディングページに飛ばされる。
【ノック&ノティス運動とは?
(中略)ウォレットの密室に閉じこもる
ナカモトとXとYのなかで、
いちばん部屋から出てくる可能性が高いのは、
Yです。
いぜん失敗したNSAの作戦も、
Yによる告発をうながそうと計画したところまでは
その洞察力がいかんなく発揮されていました。
ただ最後の詰めで、少し欠陥があったのです。
その小さなあやまりとは、
Yは、ブロックチェーンという
仮想世界に生きる存在なのに、
無理やりYを現実世界に
引きずり出そうとしたことです。
正しくはYを、
あくまでブロックチェーンのなかで
引き出してあげるべきでした。
そこでわたしたちは提案します。
ブロックチェーンの住人たちよ、
みんなでYの密室をノックしよう! と。
ノックとはズバリ、Yへの送金です。
Yのアドレスにビットコインがたくさん集まれば、
ドンドンドンとドアがうるさくノックされるように、
ブーブーブーとウォレットがうるさく鳴るでしょう。
Yがちゃんとウォレットの通知設定をしていれば。
するとYは、いったいなにごとか
と思ってウォレットを開いてみるでしょう。
そもそもYは、じぶんがYであることに
いまだに気づいていない可能性があります。
人間だれしもじぶんだけは違うと思いこみます。
偏向性バイアスといいます。
じぶんの取引記録を見たYは、
そ、そんな、まさかじぶんが……!
と、他ならぬじぶんがYであることに
ようやくノティスするでしょう。
Yが〈ナカモトめざめる〉を知らないほど
世事にうとくなければ。
また、ノック&ノティス運動には
もうひとつの目的があります。
それは、Yへの報奨金を
みんなでカンパしようという目的です。
いわば、暗号通貨のクラウドファンディングです。
もしかしたらYは、
国家からほどこしを受けることに抵抗を感じる人間で、
NSAの報奨金を、わざわざ名のり出てまでは
受け取りたくなかったのかもしれません。
しかし、そんな信条的な障害であれば、
このビットコインのクラウドファンディングが
取りのぞいてくれるでしょう。
1人でも多くのみなさんのご参加を願います。
Yのアドレスはこちらです。
15jvwhSkiMF282ryXcK39qrVXQLzpXmBwC
主催者 ワインズバーグ兄弟より】
津上は率直に、おもしろそうだなと思う。うまくいきそうな気がする。
主催者のワインズバーグ兄弟はナカモトにつぐ、個人では世界第2位のビットコイン保有者で、9万BTCほど所有していると言われている。ナカモトの10分の1弱だ。また、かれらは大手の暗号通貨取引所のオーナーでもある。
古参のビットコイナーはふつう、リヴァタリアンでありサイファーパンク信奉者なので、ナカモトの身元を暴こうという試みにたいしては断固として反対するはずだが、ワインズバーグ兄弟はちがうようだ。
現代ではビットコインはかなり大衆化しており、多くの保有者はナカモトさがしに躍起になっている。ワインズバーグ兄弟はきっと利用者の声に同調したのだろう。このクラウドファンディング用のビットコインがじしんの取引所で購入されれば、収益になると目論んでいるわけだ。
それにしても津上は疑問を感じる――いったいどうやってノック&ノティス運動は、Yを仮想世界にとどめたまま、すなわち出頭させずに告発へといざなうのか?
たとえばメールやSNSであれば、
『わたしは何月何日何分にいくらかのビットコインをどこどこに送ることで、わたしがYであることを証明します』
と、冒頭でじぶんの身元を明かさないまま宣言したうえで、
『〇〇がナカモトサトシです!』
と、告発できるだろう。ちなみに、このことを専門的にはゼロ知識証明という。
しかし、そのメールやSNSじたいが、発信元を特定されるのではないかという不安が残るだろう。
より原始的な通信手段の手紙を出すにしても、2031年の現代では監視カメラが設置されていない郵便ポストなど存在しない。そのカメラを一時的に遮断しても、その近辺にある監視カメラの映像によって細工した犯人は特定されるだろう。
そのとき――おやっ? よく見ると、ランディングページ上部の固定エリアに〈Yだと気づいたあなたへ〉というバナーが貼ってある。
津上はクリックしてみる。
【じぶんがYだと気づいたあなたへ
親愛なるあなたへ、あなたがいっさい表に出ることなく、ナカモトとXを告発するための方法をご伝授いたします。
それは初期のポケットベルのように、ビットコインの送信金額でことばをつづり、メッセージを発信していただくという方法です。
そのさいあなたは、ビットコインをあなた自身に送金してください。そうすればあなたは報奨金を減らさずにすみます。
それでも送金手数料はかかりますが、報奨金から一時的に建て替えてください。のちほど主催者から同額を送金して負担させていただきます。
送信金額でことばをつづる方法はいくつかございます。たとえば英語のばあいは以下の方法を推奨します。
〇古代ギリシアのポリュビオスが作った5×5マスの暗号表
たとえばYOUであれば、Y(5,4)、O(3,4)、U(4,5)に読み分けて、0.00543445BTCを送信していださきます。詳しい変換表はこちらをクリックしてください。
〇アスキーコードの暗号表
同じくYOUであれば、Y(121)、O(111)、U(117)に読み分けて、1.21111117BTCを送信していださきます。金額は大きくなりますが、アルファベットのほかに記号を追加できます。詳しい変換表はこちらをクリックしてください。
もちろん、あなたの独自の暗号表を考案していただいてもかまいません。こちらで責任もってあなたのメッセージを解読いたします。
主催者 ワインズバーグ兄弟より】
なるほど、これでYはブロックチェーンにとどまったまま告発にのぞめる。
しかしまだ課題は残されているように思う。Yが告発によってナカモトやXから報復されるかもしれないという恐怖を、いかにして克服するかという課題である。
これについては、ワインズバーグ兄弟にたいしておこなわれたインタビュー形式のPR動画が詳しい。
『――そもそもアメリカ政府の報奨金1億ドルなんて、おれたち兄弟のビットコインからでも余裕で贈れるよ』
『す、すごい!』聞いていた記者は圧倒される。
『でも、だからといってそんな楽をしたらダメだ。もっと世界を巻きこまないといけない!』
『世界を巻きこむとは?』
『これはおれたち自身が金持ちだからよく分かることだが、いくらお金を使って防備を固めても、心の安全だけは得がたいものなんだ。おれたちはSPを付けていても、誘拐されるんじゃないかという恐怖をつねに感じている。無意識に鳥肌がたって、ちょっとした物音でも体が敏感に反応する』
『お金持ちならではの悩みですね』
『安心を提供するには、いくら大金を積んでもなお足りない。みんながおまえの安全のことを想っているぞ、という温かい気持ちを示してやる必要があるのさ。だからおれたちは、カンパの金額だけでなくカンパの人数をどーんと集めたいんだ』
『受信総額ではなく、受信件数ですか』
『そのとおり。おれたちはカンパ件数を今月中に100万件に到達させることをめざしていて、ゆくゆくは1億件まで伸ばしたい。そこでこんどGiveaway(お金配り)キャンペーンを企画している。カンパが100万件を到達するごとに抽選で1名に、おれたちから有志で10BTCを進呈する!』
『じゅ、10BTC! 1000万ドルじゃないですか!』
『カンパの金額は、0.00000001BTC、つまり1satoshiでもいい。これなら米ドルでたかが1セントだから、だれでも参加できるだろう。だいじなのは金額ではなくて一人ひとりの気持ちが集まること。そうすればYは、じぶんには大勢の仲間たちがいるってことを知って安心し、告発に踏みきれるはずだ』
『なんてすばらしい妙案でしょう! わたしもぜひ送金してみたいと思います』
『ありがとう。それからおれたちは、Yが告発したあとの人生をどう過ごすかについて指針を得るために、ミスター・アサンジから話を聞いて――』
じゅ、ジュリアン・アサンジ……!
津上はここで視聴を中断して、机のうえの棚に手を伸ばす。そして『ナカモトは電子通貨の夢を見るか?』を手に取る。
たしかアサンジはナカモトの因縁の相手だったはずだ。
索引からジュリアン・アサンジとの邂逅について書かれたページを探しだす。
【掲示板『ビットコイントーク』では2010年11月10日に、〈ウィキリークスの問いあわせ先は?〉というタイトルのスレッドが立った】
【当時、ウィキリークスはアメリカ政府から決済手段の利用を厳しく制限され、資金繰りに苦しんでいた。じっさいウィキリークスが11月28日にアメリカ政府の機密外交文書を公開すると、アメリカ政府はペイパルに命令して12月3日にウィキリークスの送金を停止させていた】
【そこである投稿者が、ビットコインを決済手段としてウィキリークスに採用してもらうよう関係者に働きかけてみないか? とスレッドで呼びかけたのだ。次から次に賛同する意見が述べられ、その機運はどんどん高まっていった】
【ナカモトもきっとこのスレッドを最初から見ていたはずで、だとすれば1か月ちかくも静観していたことになるが、12月5日になって初めてこの件にかんして投稿し、「いいえ、その話は進めないでください。ビットコインのプロジェクトは、そのつどソフトウェアを強化できるよう、ゆるやかに成長させていく必要があります。わたしはウィキリークスがビットコインを採用しないよう強く求めます。ビットコインはまだ揺らん期にある小さなベータ版コミュニティです。ウィキリークスがもたらす熱量によって、ビットコインは破壊されてしまいます」と、明確に反対の意思を表明した】
【これが決定打となって、スレッドはウィキリークス反対という投稿が大勢を占めるようになった。ナカモトはビットコインの運営にたずさわるひとりの人間にすぎなかったが、やはりなんといってもビットコインの創始者であり、ナカモトの意見は他のどの人間の意見よりも重かったのだ】
【しかしながら、ナカモトの介入は遅きに失したのかもしれない。なぜならばこのころにはもう、ウィキリークスがビットコインの導入を検討しているといううわさが立ちはじめていたからだ】
【その当時までビットコインは、ごくごく狭い暗号界隈のかぎられた人間だけに知られた、いわば地域通貨にすぎなかった。しかし、ウィキリークスと結びつけられたことでいちやく知名度を上げ、国際通貨の様相をおびはじめた】
【このことについてナカモトは、つづく12月11日の投稿で「ウィキリークスがスズメバチの巣を蹴って、ハチの大群がわたしたちにむかって飛んできています」と嘆いた】
【そしてこのスズメバチ発言が、ナカモトがじぶんのことばで投稿した最期になった。投稿じたいはその翌々日がほんとうの最期だが、そこにはもうナカモトの肉声はなく、ソフトウェアの更新情報がたんたんと、事務的なことばで記されているだけである。スズメバチ発言の直前には、病気で長期療養していたハル・フィニーの久しぶりの投稿にたいして「きみがそう言ってくれることには多くの意味があるよ、ハル。ありがとう」と、いま見なおすと感傷めいた発言を残している】
【こうしてナカモトは2010年12月13日、ビットコインのコミュニティから姿を消した。ギャビン・アンダーソンら数人とは個人的にメールが続けられたが、それも2011年5月頃までにはとだえた】
【すると2011年上半期に、ナカモトが恐れていた事態が起きてしまう。まさに「ハチの大群」がビットコインを襲ってきたのだ】
【すなわち、ビットコイン価格が初めてバブルを迎えたのである!】
【1月1日の時点で0.3ドル/BTCだったビットコイン価格は、4月中旬の1ドル/BTC前後からうなぎ登りに上昇しつづけ、6月10日には35ドル/BTCまで到達した。およそ半年で価格は約100倍になったのだ!】
【同じころ闇ECサイト〈シルクロード〉が隆盛し、ビットコインが麻薬取引で利用されるようになった。さらになんと6月14日には、ウィキリークスがほんとうにビットコインを決済手段として導入した! たんなるうわさが現実になってしまったのだ】
【ナカモトはビットコイン価格が急騰していく様子を、ビットコインがじぶんの意図しない用途で利用されていく様子を、いったいどんな気持ちで見守っていたのか?】
【じぶんのビットコイン資産が4千万ドルにふくらんで、喜んだ? ビットコインの市場が拡大して、喜んだ?】
【そんなわけがないだろう! ナカモトは悲しんだに決まっている!】
【じぶんが手塩にかけて育てたビットコインが、いまわしい投機や闇取引に染まり、じぶんの手の届かないところに離れていったことを悲しみ、ひどく絶望したにちがいない。なぜならば「ビットコインは株式ではありません」と語っていたように、投機とは一線を画したいとナカモトは願っていたはずだから。ナカモトにとってビットコインとは「収集品あるいは財貨のような」ものだった】
【ナカモトは後悔していたかもしれない。〈ウィキリークスの問いあわせ先は?〉と最初に問われたあのとき、じぶんがいち早く反対していれば、周りの仲間たちもすぐに同調し、議論はたちまちしぼんでいったかもしれないからだ。そうなれば変なうわさが立つことはなく、ビットコインが外の世界のハゲタカたちに狙われることもなかっただろう】
【いったいなぜじぶんは、あの投稿を1か月ちかくも放置していたのか? もちろんそれは、じぶんの代わりにコミュニティのだれかが止めてくれることを期待していたからだ。じぶんが強弁すれば独裁者になってしまう。じっさい、発言者が他にいるにはいた。だが、ビットコインを拡大させようとする勢力を封じこめられるほど強力ではなかった】
【ああ……! いまとなっては、あとの祭りだ】
津上は本を閉じる。
そう、アサンジは、本人に非はないとはいえ、かつてナカモトの夢を打ち砕いた男なのだ。
もしアサンジがワインズバーグ兄弟の要請に応じてYに協力し、ナカモトの告発をうながすようであれば、ナカモトがいま抱いているなんらかの夢が、アサンジによってふたたび打ち砕かれるかもしれない。となれば〈アサンジふたたび〉である。
しかしアサンジにとって、ナカモトの告発は正義なのか?
アサンジは国家権力と対抗したという意味ではナカモトと同志であり、のちにかれは、ウィキリークスの窮地を救ってくれたとしてナカモトに感謝している。だから、同志であり恩人でもあるナカモトを売るような真似を、アサンジは好まないかもしれない。
アサンジはつい先日、アメリカの刑務所での長い服役を終えて出所したばかりだ。これから接見が試みられて、かれの意向が確認されるのだろう。いずれにせよアサンジが、ワインズバーグ兄弟にとって最高の相談相手になるのはまちがいない。いやしくも世界でもっとも告発を体現している男だから。
ほんとうに、このノック&ノティス運動は成功するかもしれない、と津上は感心する。やはり金持ちの考えることは発想が桁外れだ。鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギスを、地で行くとは!
ナカモトよ、おまえの正体が暴かれる日が刻々と近づいているぞ。世界をあなどって挑戦状を出したことを、いま後悔してないか?
そのときとつぜん、「津上さん!」
ん? 呼ばれて津上が顔を上げると、秘書の葉子がケーキを抱えて執務室に入ってくる。「お誕生日おめでとうございます!」
あ、そうだった、きょう6月9日はじぶんの誕生日だった。津上は安楽椅子探偵ごっこにすっかりに没頭して、今朝まで覚えていたことを忘れていた。「わあ葉子ちゃん、どうもありがとう!」
葉子はろうそくに火のついたケーキを慎重に運んできて、机のうえに置く。その様子を眺めていて津上は、いっしょに働きはじめてから毎年のように、葉子がケーキを準備してくれていることに気づいた。
ふーっ。津上がろうそくの火を吹き消すと、葉子はパチパチパチと拍手する。
「ああ、ぼくも45歳になったのか」
「津上さん、45歳の年はどんな一年にしたいですか?」
問われて津上は急に現実に戻される。「うーん、じぶんがどうこうするまでもなく、ことしは激動の一年になりそうだなあ……」
「といいますと?」
「ほら、こないだ財政法が改正されて、いよいよ秋から国債の直接引き受けが始まるだろう? すると冬にかけて日本円の市中流通量がぐんぐん増えていくだろうから、日銀はつねに物価の動向を注視していく必要がある。少しでも上昇の気配が見られたら、ただちに金融政策を強化しなければ。ただひとつ気がかりは……平井総裁だ」
「総裁が? どうかしました?」
「ほら、すっかり財務大臣に人事権を掌握されて、強く発言できるのか、ちょっと心配でね。あの人はとても優しいから」
「そのときは津上さんが総裁に代わって、城山さんに対抗してください。大学の同期でしょう?」
「ハハハ、そうだな、わかったよ」
津上は仕事を終えると、銀座のレストランへと向かう。アリスから誕生日祝いで夕食に誘われていたのだ。子どもたちはすでに自宅で食事をすませたらしい。レストランに着くと、アリスは先に着いて待っていた。
夫婦は仲良くフランス料理に舌づつみをうつ。食後はワインを飲みながらたわいもないことを語らう。
ところがアリスがふとトイレに発った、そのときだった。
「やあ、つがみ!」
と不意に呼ばれて、津上はふりかえる。「お、おまえは……!」
城山がうしろに立っている。「久しぶりだな! 元気にしていたか?」
「わあ、城山じゃないか!」津上はとっさに立ち上がる。「いいえ城山財務大臣、いつもあなたの活躍ぶりをテレビで拝見しております!」
「おいおい、そんなにかしこまるなよ。どうか城山と呼んでくれ。学生時代に呼んでいたように」
「そうかい? じゃあ……城山! 会えてうれしいよ」ふたりは固い握手と熱い抱擁を交わす。
あらためて津上が言う。「いやあ、20年ぶりくらいか?」
「うーん、そうだな、もうそれくらい経つか。20年なんてあっというまだな!」と城山が答える。
「ほんとうだなあ……たがいに歳をとったはずなのに、城山は変わらないね? ぼくはすっかり老けてしまったよ」
「ハハハ、それはわたしがいまだに独身でいるからかもしれないな」
「いやいや、きみが政界の第一線で活躍しているからだよ」すると津上はここで大事なことを思い出す。「そうだ、アリスを私設秘書にやとってくれてありがとう。いつかあいさつに行こうと思っていたら、行きそびれていた。すまない」
「いやむしろお礼を言いたいのはこちらのほうさ。アリスちゃんはとても優秀で、わたしはいつも助けられているよ」
「だったらいいけれど」
「きょうはね、アリスちゃんに無理を言って、きみに会わせてほしいとたのんだんだ」
「えっ、そうなのか?」
そのときちょうどアリスがトイレから戻ってくる。「あらっ、城山くん、ようやく来たのね」
「おいアリス、きみは城山が来るのを知っていたのか? どうして言ってくれなかったんだ?」と津上が不満を言う。
「あなたを驚かせようと思って、ないしょにしておいたの」
「まんまと驚いたよ。まさかじぶんの誕生日に城山と再会するとは思ってもみなかった」
「誕生日って、津上の?」と城山がたずねる。
「ああ、そうだよ」
「それはおめでとう!」
「ありがとう!」
「そうか、きょう6月9日はきみの誕生日だったな。仕事できみと話したいことがあったんだけど、誕生日なら申し訳ないなあ」
「仕事って、財務大臣にかんすることか?」
「もちろん」
「城山くん、どうそ主人をつれて行ってください」とアリスは申し出る。
「アリスちゃん、いいのかい?」
「ええ、わたしはもう帰りますから――あなた、今日はゆっくりして楽しんでいらっしゃい――城山くんも。つもる話は尽きないでしょうから」アリスはかばんを手に取る。「わたしはいまここに、あなたたちふたりが再会したことにとても感動しているわ」それから、ふたりを見あって、「では、お先にしつれいします。おやすみなさい」
こうして津上と城山は店を替えて飲みなおす。
ふたりはかれこれ3時間くらい飲み、終電はすでに逃してしまった。
にもかかわらず城山はいっこうに仕事の話を始めない。大学時代のおもいで話が延々と続いている。
「――ほら、大学院の修了式のあとの謝恩会で、プレゼント交換しあったのを覚えているかい?」城山はすっかり酔っぱらってじょうぜつになっている。
津上はもう疲れて眠くなり、ただ話を聞いているだけだ。「うん」
「それぞれが相手の持ち物のなかからほしいものを言って、相手がいらないと言ったら、プレゼントしてもらうと取り決めたね?」
うん。津上はあいづちだけ送る。
「そしたらきみがわたしにねだったのは――」城山はそのときの光景を思い出して、笑いがこぼれる。「懐中時計だったよね?」
懐中時計とは帝都大学の首席卒業生に贈られる褒賞である。
「なんでもほしいものを言ってくれときみが言ったから」津上はさすがに弁明する。「冗談のつもりで言った」
「ああもちろん、わかっているよ。それでわたしは喜んで懐中時計をきみにプレゼントした。はっきり言ってそれは、わたしにとってまったく不要なものだったから。津上、あれはまだ持っているかい?」
「ああ。懐中時計は職場のデスクの引き出しに入れて大切に保管してあるよ。そのせつはありがとう」
「ハハハ、そうか。べつにいつ処分してもらってもかまわないからね」城山はウィスキーをひとくち含んで、「そして、わたしがきみにねだったのは――」
「なあ城山」津上はかぶせるように言う。「昔のおもいで話はこのくらいにして、いいかげん仕事の話に進んでくれないか?」
「おいおい、久しぶりに会ったんだから、もう少しふけらせてくれよ」
「いや、それはこんど会ったときに改めて話そう。これいじょう酒が進むと頭が回らなくなるだろう? それにもうだいぶ遅い時間だ」
「そうか、わかったよ。実はな――」
城山の仕事の話とはこうだ。政府は夏の参議院選挙をまえに大型の国債発行計画を予定している。そこで政府はいま、国債の売上金の使途について議論しており、その一部は低所得者むけの生活支援金にあてる方向で調整している。まもなく補正予算案を提出し、可決されれば給付はできるだけ迅速におこないたい。その方法を模索するなかで、
「――聞けば、デジタル円のスマホアプリを開発したのは津上だって?」と城山はたずねる。
「ああ、ぼくが開発責任者を務めている」
「そうだったのか! じゃあデジタル円にくわしいな?」
「まあ普通の人よりは知っているだろう」
「では質問するが、デジタル円を使って国民に生活支援金を給付することは可能だろうか? ただし低所得者にしぼって」
「技術的には可能だ」津上はそっけなく答える。「アカウントにひもづいているマイナンバー情報でソートをかければ」
「可能か! よかった!」城山は歓喜する。「よおーし、これで参院選にむけて目玉の看板政策がひとつできあがったぞ!」
「でもぼくは――」
「ん?」
「MMT政策に反対している!」と津上は強く主張する。
これは津上個人の意見であるだけでなく、平井総裁の心中も代弁している。いや、日本銀行の全行員の総意である。
「なんだとぉ?」酒が回っていた城山が声を荒げる。「おいこら、MMTにかんするきみの意見は聞いていないぞ! きみは選挙によって選ばれた政治家かい?」
「……いや、ちがうが」
「そうだろう。きみは、デジタル円による生活支援金の給付が可能かどうか問われただけだ。余計なことはしゃべるんじゃない!」
「くっ……」津上はくやしがる。
「フッ、そんなに納得がいかないなら」ドン! 城山はウィスキーのグラスをたたきつける。「その不満をすべてわたしにぶつけてみろ! いまここではっきり白黒つけようじゃないか!」
「ああ、望むところだ!」津上は城山に半身を向ける。「では、質問する!」
「かかってこい!」
「MMT党は、インフレ率を適正な範囲にとどめることでハイパーインフレを防ぎます、とうたっていたな?」
「ああ、それがどうした?」
「しかし、これだけ日本円の市中流通量が増えている現状でさらに貨幣供給を増やしたら、いざ物価が上がりはじめたとき止められるはずがない!」
城山はこのたぐいの質問を耳にタコができるくらい聞かれて、もはや答えることに飽きているが、おくびにも出さず答える。「いいや、止められるさ。もしいちじるしいインフレの兆候が見られたら、政府はすぐに日銀に金融政策を命令するし、政府としても増税や規制の強化によって、過熱した経済の引き締めをはかる所存だ」
「日銀は政府から命令されるまでもなく金融政策を実施するだろう。しかし問題は政府の財政政策だ。きみは増税とひとくちに言うが、国民がかならずや反対して頓挫するに決まっている!」
「いいや、国民はきみが思っているいじょうに理性的だよ。日本経済のために必要な増税であれば、国民は素直に賛同してくれるさ」
「いいや、政争の具になることは目に見えている。もたもたしているうちに――」
ここで城山は手で制す。「それに現代では、増税によらない財政政策もある」
「なんだ、それは?」
「それこそきみが開発したデジタル円だよ! ほら、デジタル円で生活支援金の給付ができるのなら、逆に、税金の徴収もデジタル円でできるはずだろう?」
「……技術的には」
「また、技術的には、と! 要はできるんだろうが!」
「くっ……」
たしかに、デジタル円の送金手数料のしくみを使えば、民間銀行が所得税や消費税の収納を代行できるはずだ。通常の手数料に税金を上乗せする機能を新たに追加すればいい。
「政府は、きみたち日本銀行が開発したデジタル円の普及をさらに進め、紙幣との置き換えによって徴税能力の強化に努める所存だ。たとえ麻薬が取引されようとも、政府はそこから消費税を徴収する。こうして増税によらずとも税収を増やすことができ、市中貨幣量を制御する能力は格段に向上するのだ! 古代アッシリアの時代から、執政者がいちばん苦労したのは徴税だった。しかし現代ではデジタル技術によって手間いらずだ!」
なんて楽観的に見通しだろう! そんな法案は通るはずがない、と津上はあきれる。
世界のだれもがサブプライムローンのデフォルトリスクを楽観的に見ていたなかで、たったひとり悲観的に見て警鐘を鳴らしていた男がなぜ、こんなずさんな将来展望をとうとうと述べるのか!
津上はなえてしまって、もう反論をやめる。べつに負けでいいから、バーテンダーに会計をたのむ。
仕事の相談さえなければ、和気あいあいとした雰囲気で交歓できただろうが、MMTにかんして意見が相違しているために、ふたりはわだかまりを残して別れる。
その後、財務省は予定どおり、日銀政策委員会の反対を押しきって国債を大量に発行し発売する。日銀は政府から国債をじかに受け入れ、その引き換えとしてデジタル円を献上する。
政府はこうして得たデジタル円の一部を、低所得者むけの生活支援金として給付する。かかった時間はわずか数分だった。国民はいまだかつてないスピードで給付金を入手できたため、政府への評価が高まり内閣支持率が向上する。
2031年7月下旬に行われた参議院選挙で、MMT党は衆議院につづいて議席を獲得し党勢を拡大する。民自党はまたも敗れ、非民自党連立政権は信任を得て継続する。直後におこなわれた内閣改造で、MMT党は新たに経済産業大臣のポストを獲得する。