第5章 ナカモトサトシ VS 国際社会
ところで、世界の政府と中央銀行は〈ナカモトめざめる〉にどう対応したのか?
かれらはけっしてこの事態に無関心ではいられなかった。ナカモトとXとYがその後の動きを見せないなかでも、じつは世界各国の首脳らは防衛策を協議していた。
結果として次の3つの働きかけがおこなわれた。
1 世界の政府がナカモトにたいして
2 アメリカ合衆国政府が単独でYにたいして
3 世界の中央銀行がXのビットコイン資産にたいして
それぞれ以下のような経過をたどった。
1 世界の政府がナカモトにたいして
2月1日と2日にリモートで緊急開催されたG20サミットに、世界の政府首脳らが集結した。日本政府からは山下首相が前週の衆議院選挙に勝利して参加するはずだったが、逆に敗北してレームダックと化して参加したため、建設的な議論に参加できなかった。
いずれにせよ、G20の主役は米中の二大国である。両国はこれまで安全保障や貿易摩擦などの問題で対立してきたが、こと〈ナカモトめざめる〉にかんしてはビットコインを共通敵としてみなし、たがいに協調することを確認しあった。
アメリカでは昨今、ビットコインで国民資産が形成されており、米国債の需要が落ちている。そのため格付け会社スタンダード・アンド・プアーズは昨年、アメリカの長期発行体格付けを2011年いらい19年ぶりに1段階引き下げて、世界に衝撃を与えていた。ただちにデフォルトの心配はないが、米ドルの信用はじわじわ棄損されていた。
中国では2020年にあらゆる暗号資産取引が禁止されたものの、いまだに闇では取引されていて、ビットコインの根絶は長年の悲願だった。ちなみにビットコインは中国語で比特幣と記される。
いっぽう旧東側諸国の盟主たるロシアはどう反応したのか?
旧東側諸国では伝統的にビットコインに好意的な国が多い。マイニング事業を国策として進めてきたからだ。マイニングはコンピューターに大量の熱を発生させるため、工場を建設するには寒冷地が適しており、高緯度地域が多い旧東側諸国には地の利がある。とくに電気料金が安い国では数多くのマイニング企業が興っている。
ブルガリア政府は2017年に国際的なサイバー犯罪組織から押収したビットコイン約20万BTCを、2031年のいまでも国家資産として保有しており、これがブルガリアの通貨レフに信用を与えているほどだ――というか保有するビットコインの時価総額が、レフの時価総額をはるかに上まわっている状態である。
このため、旧東側諸国では〈ナカモトめざめる〉への干渉はあまり歓迎されなかった。へたに動かれてビットコイン価格が下がるのは困るからだ。
しかしロシアは今回ばかりは米中の枠組みに参加した。ロシアも公式には2014年に暗号通貨を非合法化していたからだ。
米中露が一致してビットコインと戦うことを表明したことで、G20の政府首脳らはいちように安心したが、それ以上に安心したのは米中露じしんだった。少なくとも米中露は〈ナカモトめざめる〉に関与していなさそうだと分かったからだ。約100万BTCが他国の軍事費にあてられれば、自国にたいする重大な脅威となる。
こうしてG20の結束が強まり、共同声明の実効性が高まった。G20はナカモトにたいしてビットコイン取引の自粛を要請する文書をしたためることで合意した。ただし、あくまで法的拘束力のない要請である。
しかしどうやってナカモトに文書を送るのか?
それはふつうに電子メールによってである。
じつはナカモトが開設したbitcoin.orgには、現在でもビットコイン白書『ビットコイン:P2P電子通貨システム』が無料で公開されていて、その表紙のタイトルと署名の下にナカモトのメールアドレスが堂々と記されている。
satoshin@gmx.com
これがナカモトのものとして知られる唯一の連絡先である。ユーザー名をとってサトシンと呼ぶ。ちなみにナカモトがメーリングリスト『クリプトグラフィー』および『ビットコイン』で使用していたメールアドレスは、現在では使用できなくなっている。
サトシンにはビットコインが栄華をきわめてこのかた、世界じゅうの信者たちからたくさんのファンレターが届けられている。
〈尊敬するナカモトサトシ大先生、わたしを弟子にしてください!〉
〈ナカモトサトシさま、このたびは寄付のおねがいでご連絡しました……〉
など、その真の内容はナカモトと投稿者のみぞ知るが、きっと大きくはちがわない内容のメールが数えきれないほどサトシンに届けられ、〈ナカモトめざめる〉以降はさらにその数を増やしている。もちろんサトシンからの返信はいっこうに届いていない。
G20はこのサトシンに文書を送り、ついでに世界の市民にもマスコミをつうじて文書の内容を公開した。
メール文の原本は英語で作成され、それからG20を構成する国々の言語に加えて、オランダ語、デンマーク語、アラビア語、ペルシャ語、ギリシア語、さらには市民の有志でラテン語にも翻訳されて送信された。
そのうち、日本語に翻訳されたメール文の一部を以下に転載する。
【件名:ビットコインの送金についてのおたずね
ナカモトサトシさま
貴公は、去る2031年1月20日02時54分と同03時03分(世界標準時間)に、ビットコイン約100万BTCをどなたかに、2回に分けて送信されたと思われますが、その件につきましておたずねしたいことがございます。
質問
1 貴公がこの送信をおこなったことは事実でありましょうか?
2 もし事実であれば、その目的は何でしょうか?
もし貴公が、核兵器をはじめとする大量破壊兵器や麻薬などを密輸する目的でビットコインを送信したのであれば、それは世界の平和と秩序を乱す背徳行為であるとG20は糾弾します。そのばあいG20は断固として貴公を非難し、その計画を即刻中止することを求めます。
なお、本メールへの回答は任意ではございますが、世界の人々を襲った不安を少しでもやわらげるため、なにとぞご回答いただきますよう、くれぐれもよろしくおねがいいたします。
2031年2月10日 G20共同】
しかし、現時点でナカモトからの応答はない。
そこで世界の政府は3月から、次なる手段を模索している。
それはフリーメールサービスgmx.comへの情報開示請求である。GMX社はドイツに本拠を構えており、同国のテレコミュニケーション法を利用して、同社にナカモトの個人情報を開示させる命令を出せないかと検討しているのだ。
ところがナカモトは法律に違反する行為をいっさい犯していない。ナカモトも人間であれば人権があり、プライバシーが存在する。ドイツの裁判所が開示を認めるはずがない。
たとえ開示されたとしても、そもそもGMX社にナカモトを特定できる情報が登録されているとはかぎらない。ナカモトがアカウントを開設したであろう時期は、情報の登録がさほどうるさくなかった時代だ。
しかも仮に登録されていたとしても、たとえば電話番号が分かったとしても、次はどこかの国の通信キャリアへまた情報開示を請求しなければならない。先は長い。
あまりにも手続きが煩雑なので、超法規的な措置でのナカモトの特定は難しいとあきらめられている。
2 アメリカ合衆国政府が単独でYにたいして
サトシンからの返信が2月28日まで待っても届かず、これからも届かないだろうと判断されると、アメリカ政府は世界の警察を自任する超大国として、単独で〈ナカモトめざめる〉を解決することにいどんだ。とりわけ、国家安全保障局(NSA)が準備していた作戦を3月3日に実行にうつした。
NSAはYにたいして「ナカモトとXを告発すれば、最大で1億ドルもの報奨金をきみに授与し、さらに告発にともなう身の危険から、生涯にわたってきみやきみの家族を守る」と警備保障を申し出たのである。
それだけでなく、「たとえきみが指名手配中の犯人であっても、アメリカ国内での犯罪であれば司法取引によってその罪を減免するし、アメリカ国外の犯罪であっても超法規的な措置によってきみを当該国に引き渡さない」と大胆な施策を打ち出した。
さすがは証人保護プログラムと司法取引が発達している国である。
しかしいざ作戦を実行してみると、予期していた結果ではあるが、報奨金ほしさで偽者のYがたくさん名のり出てきた。NSAはかれら全員にウォレットの提示を求めたが、だれもYであることを証明できなかった。
また、Yのアドレスと10件の送受信でつながっている1件のアドレスについても、NSAは情報提供を呼びかけたが、Yにつながる有益な情報は得られなかった。そこでNSAは、このアドレスもYのものであると公式に推定した。もしYのほかに別人がいるならば、その別人がYを密告してもよさそうなのに、してこないからだ。
けっきょくY本人が名のり出ることは最後までなく、この作戦は3か月をもってあっさりと終了が告げられた。
3 世界の中央銀行がXのビットコイン資産にたいして
G20の財務大臣と中央銀行総裁らが出席するG20金融サミットが、6月6日から8日にかけてワシントンDCにあるIMF(国際通貨基金)本部で開催され、〈ナカモトめざめる〉の対応策が協議された。
会議の冒頭にIMF総裁から次のような発言があった。
「もし〈ナカモトめざめる〉のビットコイン約100万BTCが、ある法定通貨に集中して換金されれば、外国為替市場の均衡が崩れて、世界経済に深刻な影響をおよぼす可能性があります」
IMF総裁が懸念したその法定通貨とは、やはり米ドルである。
仮に約100万BTCが取引所を介さず闇で換金されるとすれば、米ドル建てのステーブルコインをつうじて米ドルと交換されるか、じかに米ドル紙幣にマネーロンダリングされるかの二択である。いずれにせよ行きつく先は米ドルである。これらの資金循環は過程をはぶけば、ビットコインを売って米ドルを買う取引にほかならない。
この米ドル買いが世界的なドル高を引き起こして、とりわけアメリカの輸出産業に深刻な影響を与えるのではないか、とIMF総裁は訴えたかったのだ。
すると、共和党きってのネオコンとして知られるアメリカの財務長官が、FRB議長との連名で、ビットコインを世界初の敵性通貨として指定することを求める動議を提出し、対アメリカで貿易黒字を享受するG20各国に圧力をかけて賛成多数で可決させた。
このときビットコインのコミュニティは反対のしようがなかった。なぜならば管理者としての政府が存在せず、当然ながらIMFにも加盟していないからだ。
しかしエルサルバドルなど、ビットコインを第2の法定通貨として定める中南米諸国がもしG20金融サミットに参加していれば、猛反発していただろう。アメリカの首脳らはこれらの国々の非加盟をよそに、採決を強行したのである。
このあと、いかにしてこのビットコインという敵性通貨を打ち負かすかについて、激しい議論が交わされた。
IMFは歴史的に、加盟国の通貨危機や発展途上国の通貨安定にむけて、通貨価値の維持または向上をはかってきた組織なので、通貨への攻撃を議論することは異例だったが、IMF総裁もこの議論に積極的に参加した。IMFへの出資比率がもっとも高いアメリカの意向には逆らえなかったのだ。
かれらの目標はXのビットコイン資産の価値を棄損させ、あわよくばビットコインという通貨もろとも破壊することだった。さまざまな作戦が練られたが、けっきょくはひとつに収れんした。
ビットコイン価格を押し下げるという正面突破の作戦である。これならXに打撃を与えられるし、ビットコイン全体の市場規模も縮小できる。
しかしどうやって?
アダム・スミスの理論を逆手にとれば、価格を下げるには供給量を増やせばいい。すなわち、ビットコインの売り注文を増やせばいい。ただし、同時に買い注文を増やしてしまっては元も子もない。
そこで世界の財金首脳らは禁じ手を選択する。
談合である。
これまでGAFAをはじめとする多国籍企業にたいして、国際的なカルテルを禁止しておきながら、じぶんたちがそれにのぞむなど万死に値すると思われたが、どうしてもこの手法しかなかった。
談合は、もしその秘密が漏れれば電撃的ではなくなり効果が削がれる。また、価格が意図的に操作されたことが知られれば、ビットコインで資産を築いている世界の市民は激怒するだろう。
よって、談合の秘密はぜったいに漏れてはならないし、かつ、同時に大量の売り注文を出すことを偶然に装わなければならない。
そこでIMF総裁はG20の統一した行動は不可と判断し、G7の財金首脳のみをサミット閉会後の深夜に非公式に集めた。
「国内のビットコイン保有量の2割の売り注文をかき集めよ。それができなければ空売りをしかけるのだ」というIMF総裁の号令に、G7各国は動揺した。
とくに日本は、老後の資産をビットコインでたくわえる国民が増えていて、苦渋の決断だったが、最終的には容認せざるをえなかった。
するとIMF総裁は、世界の暗号資産取引所から提出させていたデータをもとに、現時点での国別ビットコイン保有量を概算し、G7各国に売り注文の割りあて量を伝達した。そしていまから1か月後に、世界同時多発的に売り注文を出すことを約束させた。
売却を命じられた保有者は、早く応じたほうが落ちるまえの高い価格で売り抜けられるので、なかには抜けがけして期日前に売りに走る保有者も出てくるだろう。よって世界で一致した行動が求められた。
おもに機関投資家がビットコインの売却を命じられた。銀行、信用金庫、保険会社、年金基金、農協など、すでに2020年代後半からかれらのビットコイン保有は進んでいた。国によっては、すんなり売却に応じた機関投資家にたいして損失補填金を支給する案も検討された。事実上の公的資金の投入である。
G20金融サミットから帰国する政府専用機のなかで、4か月前に発足した非民自党連立政権で念願の財務大臣に就任していた城山と、日本銀行総裁の平井が、となりあって座っている。
城山はこのときすでに、目標としていた2031年度予算の再編成と財政法第5条の改正に成功していた。
さらに、日銀法の第30条と第31条の改正にも着手していた。
上記の改正まえは――日銀総裁の人事は5年おきに国会の同意をもとに内閣が任命する、と定められていた。過去にいちどだけねじれ国会で拒否されたことはあるが、そのほかは円満に承認され、日銀側の意向が尊重されてきた。
しかし城山はこれを改めて――日銀総裁の人事は財務大臣がその任期を定めずに任命し、罷免権も有する、と定めた。財金分離から財金融合へというスローガンのもとに。
こうして日銀総裁はほとんど財務大臣の部下と化していた。
平井総裁は上司の城山に、ビットコインの売り注文を集めるための施策を進言する。
「これから1か月のあいだに、日銀が機関投資家からビットコインを買い取っておくのはいかがでしょうか。極秘裏に機関投資家らと接触して、日銀が保有する他の金融資産との交換でビットコインを提供させるのです。そして1か月後に日銀がまとめて売却しましょう。アドレスを注意ぶかく変えてかん口令をしけば、談合の秘密が漏れるのは防げます」
城山はあっさりと却下する。「きみは、IMF総裁の考えたあんな愚策が本気で成功すると信じているのかい?」
「信じるも信じないも、もうG7各国で取り決めたことですよ」
「どうせ無駄な悪あがきさ。近いうちに談合は発覚して、作戦は不発に終わるだろう。いまやるべきはこの作戦の責任が飛び火しないよう、談合はIMF総裁の独断であって、G7各国はいっさい関知していない、と口裏合わせしておくことだ」
「し、しかし……」
「いいから、帰国したらわたしの言うとおり、G7各国と緊密に連絡を取りあえ!」
「わ、わかりました……」
城山はじぶんの選挙演説を思い出す。
『わたくし城山は全身全霊で、みなさんの生命と財産をお守りすることをここに誓います!』
自国民のビットコイン資産を棄損させるなど、ありえない!
きっとわたしと同じように思う正義感の強い人間が世界のどこかにいて、かならずやこの不正を告発するだろう。わたしが告発するまでもなく!
政府専用機が羽田空港に到着する。
空港にはアリスが迎えに来ている。アリスはいまや城山の私設秘書になっている。
「やあアリスちゃん、ただいま」
「城山大臣、初めての外遊、おつかれさまでした」
「城山大臣だなんて、かたくるしい。いつもどおり呼んでくれよ」
「しかし……」
「いいんだ」
「では……城山くん、おかえりなさい」
「ただいま、アリスちゃん」
車に乗り込むと城山がたずねる。「アリスちゃん、今日このあとの予定は?」
「このあとは13時に、平井総裁とともに首相官邸を訪れて金融サミットの報告会、そのあと14時に、霞が関の本省に戻って――」
「そうじゃない。きみの予定を聞いているんだよ」
「えっ、わたしの?」
「ああ、きみの予定だ」
「今夜は……主人とレストランで夕食をともにすることになっています……」
「主人って、津上のことかい?」
「ええ、もちろん」
「そうかあ、津上かあ……久しぶりに会いたいなあ……」
「昔は仲がよかったですものね。津上に伝えておきますわ」
城山はアリスの手に触れる。「ねえ、夫婦水いらずのところ悪いけど、わたしも今夜、そのレストランに連れて行ってくれないかい?」
「えっ」
「もちろん、ふたりきりの時間を邪魔するつもりはない。だから、ふたりの食事が終わったころにひょっこり顔を出すよ」
「でも……」
「どうしてもいま津上と話したいんだ。だからアリスちゃん、わたしたちの仲をとりもってくれないか?」
城山はアリスの手をぎゅっと握る。
その後、城山の予想どおり、G20金融サミットから1週間もたたないうちに談合はリークされる。IMF総裁は談合を企図した責任を問われ、辞任を余儀なくされる。G7各国の財金首脳らへの責任追及は、城山が準備させた口裏合わせがうまくいき、かろうじて回避される。
いっぽうビットコイン価格は、押し下げられるどころか同情買いが入ってますます上昇し、115万ドル/BTCまで到達する。その起死回生の模様は2021年のゲームストップ株騒動をほうふつさせた。