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第3章 〈ナカモトめざめる〉の三体問題

 葉子の言うとおり、政治家は政策より人柄だと考える人が多ければ、城山はぶっちぎりの圧勝で当選するだろう。


 津上はその夜、城山との遠い記憶を呼びさましながら、帰りの電車に揺られている。


 さっき葉子には真実をふせたが、ほんとうは城山と面識がある――いや、ありすぎるほどの仲である――いや、仲だった。


 津上と城山は帝都大学射撃部で出会った、とても仲の良い友人どうしだった。


 ふたりは勉学でも同じ経済学部の経済学科に進学して、同じ貨幣論の研究室に所属し、ケインズの『雇用・利子および貨幣の一般理論』を原著で読みあったものだ。


 城山は学部3年生の夏学期に、アメリカのサブプライムローンのデフォルトリスクをするどく指摘する研究を発表した。当時はまだリーマンショックの前年である。研究で取り上げられた外資系金融会社は就活生から人気の企業だったし、サブプライムローンのおかげでアメリカでは低所得者でも住宅建設が可能になったと評価されていたので、これらを否定する城山の研究は学生たちからも教授からも不評だった。


 しかし翌年9月にリーマンショックが起きた。住宅ローンが複雑に証券化されて焦げつきのリスクが見えなくなっている、と城山が去年の時点で指摘していたことに、学生たちも教授もいまさらながら気づき、その先見の明にただただ驚嘆するばかりだった。


 城山はこれらの研究を卒業論文にまとめ、首席で帝大経済学部を卒業した。


 いっぽう津上も、城山にはおよばずとも優秀な成績で卒業した。


 ふたりはともに帝大大学院に進学した。


 城山は大学院でもじぶんの能力をいかんなく発揮して、すぐれた学術論文を量産した。


 いっぽう津上は大学院で初めて落ちこぼれた。かれには研究者としての才能がなく、かれはどうしても修士論文が書けなかった。無難にケインズの『一般定理』について書こうとしたが、指導教官から、それだと読書感想文で終わると言われて、そこで当時まだ誕生したばかりだったビットコインをテーマにした論文を書くよう勧められ、津上はそのとおり書いてなんとか審査を合格した。


 津上と城山がともに師事していたその指導教官には娘がいて、城山はたまたまその娘アリスと交際していた。交際の事実は父親からも公認され、祝福されていた。


 アリスはもともと射撃部の女子部員でもあり、津上もよく知っていて、じつはかなわぬ恋心をいだいていた。そして胸のうちで、アリスと交際する城山に嫉妬していた。


 城山は容姿端麗でだれからも愛され、なおかつ頭脳明晰だった。天は人に二物を与えずという名言が、津上にはうそらしく感じられたものだ。


――以上が、葉子の質問に対する答えになるだろう。人柄で選ぶなら城山に投票するがいい。


 津上と城山は大学院を修了すると、津上は奇跡的に日本銀行に、城山は難なく財務省に就職したが、同じ都内で働きながらふたりが再会することはなかった。なんどか連絡は取りあったものの、ともに仕事が忙しくて会う機会をつくれず時は過ぎていった。


 だからこそ、城山が財務省を辞めて衆議院議員選挙に立候補する、と人づてに聞いたときは、津上はほんとうに驚いた。


 民自党から公認さえもらえれば当選できるかもしれないと津上が思っていたら、城山はまさかの新党を結成するというのでさらに驚いた。しかもあろうことかMMT党とは!


 あのリーマンショックを日本でただひとり予見した男が、どうしてMMTのトンデモ理論にひっかかったのか? 津上には不思議でならなかった。


「ただいま」


「おかえりなさい」自宅に着いた津上をアリスが出迎える。


 そう、城山と交際していたアリスは、いまや津上の妻になっていた――20代後半で再会し、愛がめばえ、結婚したのだ! 夫婦には高校生の男の子がひとり、中学生の女の子がひとり生まれている。貨幣論の研究室と射撃部の合同で開いた結婚式には、もちろん城山も招待したが、かれは欠席の返事すらよこさなかった。


――であるからゆえに、津上はなおさら城山と疎遠になっていたのだ。


 津上はスーツのジャケットを脱ぎながら、「ふう、デジタル円の仕事がひと段落したよ」


「おつかれさま。このところ残業つづきで疲れていたみたいだけど、おちついたようでよかったわ」


「ありがとう――なあアリス」


「なあに?」


「こんどの土日はゆっくり休めそうなんだ。とつぜんだけど月曜日に休暇をとって、2泊3日で家族旅行に出かけないか? 草津でも箱根でも、とにかく温泉につかりたいんだ」


「いいけど、こんどの日曜日は衆議院選挙でしょ? いっしょに行こうと言ってなかった?」


「ああ、そうだった、うっかり忘れていた! じゃあ旅行はやめとくか……」


「いいえ、べつに選挙は期日前投票ですませればいいんじゃない? わたしも旅行に行きたいし、子どもたちもきっと喜んでくれると思うわ。久しぶりだから」


「よしっ、じゃあやっぱりこんどの土日は旅行に行こう! あしたにでも仕事帰りに区役所に寄って期日前投票をすませてくるよ。きみも適当なときに行ってきてくれ」


「ええ、わかったわ」


 このあと津上は先に風呂を浴び、あがるとすぐに食卓につく。


 津上はビールを片手にタブレット端末を操作する。ここしばらく忙しくて読めていなかった新聞をまとめて読むのだ。


 気になる記事だけを流し読みしていると、きょう1月21日の朝刊でパッと目を引く顔写真に出会う。「おっ、劉慈欣じゃないか」


 言わずと知れた中国人SF作家の劉慈欣である。おなじみの短く刈り上げられた髪はすっかり白くなっているが、四角い眼鏡のうちに見える聡明なまなこは、いまなお健在である。


 その劉慈欣が緊急寄稿『〈ナカモトめざめる〉――識者はどう見るか?』に登場しているのだ。


 しかしなぜ劉慈欣が? 金融の専門家ではなかろうに。


 その疑問は記事の冒頭を読んで氷解する。



 劉慈欣:いまツイッターをつうじて、世界じゅうのSFファンのみなさんから、たくさんのDMが届いております。そのなかでみなさんが口々におっしゃるのは、〈ナカモトめざめる〉で浮かび上がったブロックチェーンのダークウェブ空間が、わたしが過去に出版した小説『三体』の第2巻『黒暗森林』の世界観によく似ているということです――



 ああ……! 津上は思わずのけぞって天をあおぐ。


 そうだ、たしかに似ている……! ブロックチェーンを宇宙の黒暗森林に、ウォレットを惑星に、秘密鍵を座標に置き換えれば、そっくりじゃないか……!


 さらに劉慈欣は、津上がたどり着いたナカモトとXとYの三角関係に同じようにたどり着き、それをこうたとえている。



 劉慈欣:三体と呼びましょう――



 ああ……!


 そうか、〈ナカモトめざめる〉は2031年の三体問題だったのか……!


 より詳しい解説は動画にて、と視聴サイトへのリンクが貼ってあるので、津上はタップすると、ピンマイクを取り付けた劉慈欣が画面のなかに現れる。背後にはホワイトボードが立てかけてあって、そこには津上が描いたものとほとんど同じ〈ナカモトめざめる〉の送金の相関図が描かれてある。そして同じようにナカモト、X、Yと付されている。


挿絵(By みてみん)


 劉慈欣はまず注意事項を述べる。



 劉慈欣:ここでは、現実世界のナカモトが個人なのか集団なのかについては考えません。ナカモトの代理人が送金したという可能性もなくはないですが、それはすなわち、ナカモトは本人と代理人を含む集団であると解釈できますので、これも考えません。XやYについても同様です。



 そして本題が始まる。



 劉慈欣:わたしは本家の三体問題にならって、プレイヤーの数で場合分けして〈ナカモトめざめる〉の解を導くことにしました。

 

 まずは、


 1 プレイヤーが1人のばあい


 を考えます。これはXとYとナカモトがともに同一人物である、つまり、XとYが実在せず、ナカモトひとりが実在していると仮定した状況です。(このとき劉慈欣はホワイトボードにペンを走らせて、XとYとナカモトのウォレットを一つの大きな円でくくり、XとYの所有者の表記をイレーサーで消す)


挿絵(By みてみん)


 すると今回の送金はナカモトがたんに、じぶんが保有するビットコインを、じぶんの別のアドレスに移し替えただけだという解釈が導かれます。


 では、目的はなんでしょうか?


 もしナカモトがアドレスの数を増やしてビットコインを分散させていれば、盗難の被害をリスクヘッジしたと解釈できますが、ナカモトは逆にアドレスを2件に集約しています。管理のしやすさを優先させたのだとしたら、暗号資産の扱いとしては雑すぎます。増えすぎた銀行口座を集約するのとはわけがちがうので。


 秘密鍵を更新するためにビットコインを移転させたという可能性は低いです。アドレスと1対1で対応する秘密鍵は78桁の英数字の羅列で、無限大の組み合わせがあり、これをピタリと当てて複製するのは、地球上のすべての大地から特定の一粒の砂を見つけるより難しいと言われますので、わざわざ更新する必要がありません。


 暗号資産取引所にビットコインを送って換金を試みている、という可能性も低いです。なぜならばすでに2020年頃には、世界じゅうのどの取引所でもアカウントを新規で開設するさい、あるいは暗号資産を換金・出金するさいは、顔写真つき身分証明書による本人確認を必要とすると定められているからです。いまさらナカモトは本人確認には応じないでしょう。


 このようにプレイヤーが1人と仮定したばあい、送金の目的が不可解になります。


 むしろナカモトはビットコインを移転させたことで、かえって危険を招きました。じぶんが生きており時価10兆元もの資産を保有しているという情報が世界に伝わり、ナカモトは心の安全がおびやかされているはずです。


 次に、(劉慈欣はホワイトボードをふりかえって、さっきの大きな円をいったん消す)


 2 プレイヤーが2人のばあい


 を考えます。これはXとYとナカモトのうちふたりが同一人物として、ひとりが別人として実在していると仮定した状況です。3つの組み合わせがあります。それぞれ考えます。


 2の1 ナカモトとXが同一人物として、Yが別人として存在しているとき


 ナカモトとXが同一人物として実在しているので(劉慈欣はナカモトとXのウォレットだけ円でくくる。Yの所有者の表記だけ書きなおす)、プレイヤーが1人のばあいと同じように、ナカモトはじぶんのビットコインを移し替えただけになります。


挿絵(By みてみん)


 ところがYが現れて、取引記録をつうじてナカモトとじかにつながります。


 ナカモトは、わざわざYにつながる古いほうのアドレスに約50万BTCのまとまりを送らなくても、新しいほうのアドレスに2件とも送るか、別の新しいアドレスを作成してそちらに送ればよかったのに、しませんでした。Yが仲間であれば問題ないですが、もし仲間でなければ、じぶんの正体がYにバレてしまう危険があります。それでもあえて古いほうに送ったのだとしたら、ズバリこういうことです。


 ナカモトは、Yに挑戦状を送りつけたのです! Yよ、2011年3月の取引を思い出して、わたしを特定してみるがいいと挑発しているのです。


 次に、(また円をいったん消す)


 2の2 ナカモトとYが同一人物として、Xが別人として存在しているとき


 こうなると(こんどはナカモトとYのウォレットだけ円でくくる。円はXをよけていびつな形になる。Yの所有者の表記を消して、Xのを書きなおす)、取引記録の解釈が変わります。Xとナカモトは2011年3月からの旧知の仲である、という解釈になります。


挿絵(By みてみん)


 ナカモトは旧知のXのことを2031年になって思い出したのか、あるいは現実世界ではずっと交流しつづけてきたのか。


 では、ナカモトの送金の目的はなんでしょうか?


 生前贈与でしょうか? ナカモトも人間ならばいつかは死にます。死期が迫るナカモトが旧知の信頼できるXにじぶんの資産をたくした、とか?


 あるいは経済取引でしょうか? しかし10兆元もの商品を動かせば、輸送や消費の現場で確実にバレるでしょう。


 いずれにせよXは対価として受領したビットコインを、暗号資産取引所では本人確認があるので換金できません。取引所を通さず闇取引で1コイン=1ドルのステーブルコインと交換するか、マフィアをつうじて紙幣と交換するしかありません。しかし約100万BTCすべてをさばくのは一生涯かけても無理でしょう。


 次が最後の2人の組み合わせです。(また円をいったん消す)


 2の3 XとYが同一人物として、ナカモトが別人として存在しているとき


 このとき(XとYのウォレットだけ円でくくる。所有者の表記はまとめてXと記す)Xがわざわざ中古のアドレスを使ったことで、2010年6月から活動している人物であるという情報が世間に伝わるのは、ナカモトにとって不都合ではなかったのでしょうか?


挿絵(By みてみん)


 Xとナカモトの関係については、旧知の仲であるという解釈がはずれて、白紙の状態から考えなければなりません。


 まず、Xとナカモトが現実世界で赤の他人であり、ナカモトは見知らぬだれかに適当にビットコインを送りつけたのだとしたら? 否。もしXが秘密鍵を紛失していたら、もう二度とビットコインは動かせません。やはりナカモトはXを認知しているでしょう。


 次に、ナカモトは現実世界でXのことを認知しているが、Xがナカモトのことを認知していないとしたら? たとえばナカモトが慈善活動でXにビットコインを贈ったのだとしたら?  うーん、やはり否。ナカモトには冷徹な人のイメージがありますので、善意の寄付はどうも似あいません。


 やはりナカモトとXは現実世界で知りあいでしょう。ナカモトは他でもないXのために約100万BTCを送金したのです。よって送金の目的はひきつづき生前贈与か、経済取引かになります。


 これでプレイヤーが2人のばあいの説明を終わります。最後は3人のばあいです。(また円をいったん消す)


 3 プレイヤーが3人のばあい


 これはふつうに、XとYとナカモトがそれぞれ別人どうしとして実在していると仮定した状況です。(円は描かない。XとYの所有者の表記を書きなおす)


挿絵(By みてみん)


 ナカモトとYが、こんどはXをはさんで間接的につながります。


 YがナカモトやXの仲間でなければ、XとYの取引記録はナカモトとXの共同名義による、Yへの挑戦状に変わります。


 Yは、もしXの正体に気づけば、Xを問い詰めてナカモトの正体をつきとめられるかもしれません。


 なお、ナカモトの送金の目的はひきつづき生前贈与か、経済取引かになります。


 以上で、場合分けによる考察を終わります。


 最後にわたしの結論を述べておきます――本家の三体問題とは逆に〈ナカモトめざめる〉では、プレイヤーの数が増えるほど真実性が高くなります。しかし全容を解明するには、Yが、ナカモトやXから挑戦状を受け取ったという可能性を信じて、その告発を待つしかありません。



 津上は動画の視聴を終えて、タブレットを閉じる。


 まったく、劉慈欣がプレイヤーをたくみに動かすところは小説家らしい。かれはときにみずからプレイヤーを演じてみて、それぞれの行動の是非を主人公視点で検討したのではないか――津上はそんな感想をいだく。


 とはいえ、Yが告発してくれるのを待つしかないとは……! 鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギスは、なんとももどかしい。


 新聞を読んでいたあいだに、食卓には晩酌の準備が整っている。津上は酒の肴を一口つまんでビールで追っかける。


 テーブルのむこうに座るアリスが話しかける。「あなた、デジタル円のアプリはうまくいきそう?」


「うーん、どうだろう」と津上はビールグラスをあおりながら「〈悪貨は良貨を駆逐する〉と云うからねえ。べつにデジタル円が良貨で、紙幣が悪貨だと言いたいわけではないけど」


「なにそれ? どういう意味?」


「ほら、いまから7年くらいまえに、渋沢栄一の新紙幣が導入されただろう?」


「ええ、そうだったわね」


「そしてぼくたちが大学生だったころには、そのまえの新紙幣が導入された」


「それって千円札が夏目漱石から野口英世に変わったときよね。大学生のころだったかしら? うろ覚えだわ」


「時期はべつにどうでもいいよ――それで、初めて新紙幣を手にしたときのきみの行動を思い出してみてくれる?」


「ええ、いいわよ」アリスはしばらく目を閉じてから開き、「思い出したわ」


「アリス、そのとききみは新紙幣を財布のなかで後生大事にとっておいて、できるだけ旧紙幣のほうを先に使っていなかったかい?」


「そんなことはしなかったと思うわ。古くても新しくても同じお金じゃない?」


「きみらしいね。でもぼくは新紙幣を残しておくタイプの人間だった。なかなか手に入らない最初のうちはだけど」


「あなたってほんとうにお金が好きな人ね」


「そのことばには少し語弊があるよ。お金が好きな人とはふつう強欲な人のことを言う」


「そうね、あなたは概念としてのお金が好きな人よね」


「〈悪貨は良貨を駆逐する〉は金属にかぎらず、紙幣でもまあまあ同じことが言えるんだ。日本ではとくにピン札が尊ばれるからね。希少性があるうちは最新技術の粋を集めた新紙幣が良貨、逆にありふれている旧紙幣が悪貨になりうる。そこで、ぼくみたいな物好きが新紙幣をだいじにとっておくと、日銀としては新紙幣を市場で出回らせたいのに、代わりに旧紙幣が流通してしまう。この皮肉な結果が〈悪貨は良貨を駆逐する〉さ」


「だからデジタル円が導入されるときも、同じことが起こるとあなたは言いたいわけね」


「そのとおり。デジタル円を手にした人は、みんなに行きわたるまではただ人に見せびらかすために使うんじゃないかと心配しているんだ。デジタル円の供給は紙幣のときよりもゆっくり進めていくから、なおさらね。とはいえ、半年もすればじゅうぶん普及するとは思うけど」


 津上のビールが空になる。


 アリスはビールを注いであげる。


 津上はひとくち含んでから、「ところで、アリスに聞きたいことがあるのだけど」


「なあに?」


「こんどの衆院選で、きみはだれに投票するんだい?」


 MMT党の城山は小選挙区で立候補しており、かれの選挙区は津上とアリスが住む東京2区だった。


 アリスはためらっている。「その質問に答える義務はあるの?」


「いや、もちろんない」


「じゃあ、だれに投票したっていいでしょ」


「ああ、そのとおりだ――ただ、気になっただけだ」


 するとアリスは「わたしは城山くんに投票するわ」と、あっけらかんと言う。


 津上は衝撃を受ける。「そ、そんな……MMT党はそんなに世間に浸透しているのか……ついこないだ結党したばかりなのに……」


「城山くんに投票したらダメなの?」


「ダメじゃないよ。城山に投票するのはきみの権利だから」


「そんなこと聞いてるんじゃない。わたしが聞いているのは、わたしが城山くんに投票するのをあなたがよく思うか悪く思うかだわ」


「ぼくは、かれが訴えているMMT政策には反対だ」


「そうじゃなくて!」アリスは津上の手を取る。「むかし付きあっていた男の人に投票してもいいか聞いているの」


「ぼくは気にしない」


「ほんとに?」


「ああ」


 アリスはなにかをためらっている。


「アリス、どうかしたのか?」と津上がたずねると、アリスはおもいきって告白する。


「じつは……あなたには黙っていたけど、わたしはいま城山くんの選挙事務所でボランティアしているの」


 津上は耐えがたいほどの衝撃を受ける。「そんな……まさか……」


「いままで黙っていてごめんなさい」


「な……なにもないだろうな?」


「もちろん、わたしと城山くんのあいだにはなんのいやらしい関係などないわ」


「でもどうして城山の事務所で働こうと思ったんだ?」


「城山くんが新しいことに挑戦しようというときに、わたしは少しでもなにか協力してあげたいと思った。それだけよ」


 津上はもう晩酌を楽しめない。席を立って、


「好きにするがいい!」食卓を離れる。


「あなた……」


 津上はふと思い出してふりかえる。「そうだ、やはり旅行はやめにしよう。城山をてつだっているなら、しょうがない。土日はそっちに行くがいい」


「あなた、ごめんなさい……こんどの土日はボランティアを休むから、家族みんなで旅行に行きましょうよ! いいえ、ぜひ連れて行って!」


「いいのか? 選挙戦の最終盤でいちばん忙しい時期だろう?」


「ううん、いいのよ。どうせ街頭でビラ配りをてつだうだけだから、一人が抜けてもたいして影響はないわ。それに選挙活動は土曜日までで、日曜日は投票日で休みだし」


「ほんとうにそれでいいなら、旅行は土曜日に出発するぞ?」


「ええ、おねがい。旅行に行きましょう」



 翌1月22日、夫婦は別々に期日前投票をすませる。


 アリスは城山に投票する。


 津上は与党・民自党で前職の対立候補に投票する。

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