■輸送船、戦時ノ大海ヲ航行ス
太平洋戦争末期の夏、南条孝之を乗せた輸送艦ふげん丸は九州沖を南下中であった。
夜の10時を過ぎ、僅かばかりの月の光を頼りに薄い闇に包まれた大海原を忍ぶように航行している。
隆之は医学専門学校卒業後、短期の軍事訓練を終了し軍医予備員に志願し、この度、輸送船ふげん丸に乗船することとなった。
ふげん丸の行き先は聞かされていなかったが、戦局を勘案するに、沖縄方面への物資輸送であることは想像がついた。
隆之は日中の診察業務を終え、そろそろ就寝の準備をしようとしていたところに牧本勝次少佐が医務室に来た。
「おお、南条軍医。まだ起きておったか。腹が痛くなってかなわん」
「少佐殿、気丈夫にして人一倍の体躯の方が、こんな時間に腹痛ですか? 何か悪いものにでもあたられたのですか」
「ははは、冗談だ。南条、腹など痛くもかゆくもないわ。少々寝付けなくてな、酒に付き合ってくれるやつを探しておったところだ」
牧本少佐は一升瓶を片手に茶碗を二つ携えている。
坊主頭に顎髭を蓄え、丸顔にやや下がり気味な眼尻に人懐っこさが表れている。
「よろしいのですか? このような時に酒など飲んで」
「今回の任務は大したことではない。物資輸送といっても医薬品と気持ちばかりの食糧、そして僅かな弾薬だけだ。その砲弾にしろ、今となっては使うすべもなかろう。この戦いはもうすぐ終わる」
「少佐っ。誰かに聞かれたらどうするんですか」
「かまうもんか。上層部の連中にはもうとっくにわかっていることだ」
船内の乗組員は必要な担当者を除き寝静まっていた。低いエンジン音に交じって艦首の風を切る音が聞こえる。
「そんなことより、どうだ、南条。一杯やらんか? 私の実家で作った地酒だ」
牧本少佐の実家は秋田の造り酒屋である。少佐が茶碗を南条に渡すと、南条は少しあきれたように口元を緩めた。
「少佐殿の御実家は秋田でしたね。あそこのお酒は大変おいしいと聞いております。実は私はまだ秋田のお酒を飲んだことがございません」
「おおそうか。それではいい機会だ。まあ一杯やってくれ。俺の親父が造った酒だ」
二人は明かりを沈めた医務室で茶碗酒を呑みかわした。
「少佐殿。美味しいであります」
「戦争が終わったら、俺の実家にいつでも遊びに来い。死ぬほど呑ませてやる」
牧本少佐は懐かしむようなまなざしでほほ笑んだ。
牧本少佐と南条軍医は、狭い医務室で丸干しのイワシを肴に酒を酌み交わす。
「おい、南条。なぜ軍医などに志願した。地元で開業医でもなんでもやっとればよかろうに」
「はい。自分は此度の戦局を知るにつれ、いてもたってもおられぬようになって……」
「ははは。おぬしも軍人小僧じゃのう。わしは違うぞ、こんなくだらん戦争はさっさと終わらせて田舎に帰る。ほら、娘の写真だ。来月1歳になる。もう一刻も早く抱きしめたいものだ」
胸ポケットから出した小さい写真を見つめながら、少佐は目尻を下げて頬を緩ませる。
船内に静かな時間が流れ、小さな窓から見える夜の海も、遠くに見える雲の波間に移ろいながら、穏やかに通り過ぎていく。ふげん丸は僅かな月の光を頼りにゆっくりと航行していた。
二人はしばらく談笑していたが、牧本少佐がふと首を掲げた。
「うん? エンジンの音が大きくなったな」
「少佐殿、船の速度が少し速くなってきました」
そう聞くなり、少佐は茶碗を机に叩きつけるように置き素早く立ち上がった。
「ちょっと待て。調べてくる」
「あっ、少佐殿!」
少佐は医務室を飛び出していった。