無名探偵、神に笑われる
目が覚めるとそこは壁の無い真っ白な空間だった。
周囲を見渡しても白くどこまでも何も無い、本来自分の体があるはずの下を向いてもどこまでも真っ白なのだ。
「――俺の体がない……?」
そこには三十数年間付き合ってきた体は無かった。
俺はどうしてしまったのだろう、パニックを起こした思考はぐちゃぐちゃな電気コードのように絡み合いまとまらない。
未知の恐怖で体が震える感覚に襲われる。
「――ここに来る前は何をしていた?」
思い出せない。この空間と同じように真っ白である。
――それならどこまで思い出せる?
「名前は『御剣三言』探偵業をしていて歳は三十五で独身、安アパートを事務所にしていて家賃は――」
動揺しながらも、とにかく自身の状態を確認する。
延々と口に出すのは俺自身の人物像を始め幼少の思い出、大人になってからの経験談。
どうやら直近一ヶ月除いた全てを覚えているようだ。
「この空白の一ヶ月に何が――」
ひたすら喋るときは冷静さを取り戻そうとするときのクセである。
事務所の照明紐でシャドーボクシングをした先の記憶が無いのだ。
しかし一ヶ月経ったということは理解できている、これは不自然――――
「――相当混乱していますね」
錯乱した俺を諭すようなこの世のものとは思えない美しく優しい大人の女性の声が白い空間に響く
「おい誰だ! ここはいったいどこなんだ……!」
声の主を目で探しながら疑問を投げかける、しかし声の主は見当たらない。
「私は神であり、ここは神界における転生の間です」
神を名乗る声は淡々と告げた。
未だ混乱している俺だが「神様……! そうですか神様ですか!」とその突拍子もない発表を受け入れる。
謎の空間に放り込まれて体が無くなったことはそれを認めさせるのに十分だったし何より声が優しかったからだ。
「それで神様、ここにいるということは俺は何かしたんでしょうか……?」
しかし声が優しくても相手は神様、恐るおそる気に触れないよう慎重に質問する。
今はとにかくここに俺がいる理由が気になる、まさか神様ともあろう者が人間と遊ぼうなどと考えるはずもない。
「――ミツルギミコト、あなたは自殺したんですよ」
御剣三言、神様は俺を名指し自殺した事実を明かす。
確かにそうだ、俺は何かショックな出来事を体験して自殺した気がする……。
「そうか、俺は自殺を……」
しかしどうして自殺などを考えたのだろう――記憶が定かじゃない。
神妙な顔つきで俺は考え込む。もっとも今は顔があるのかさえ分からないが。
「残念でしたね――」
彼女の慈しむように優しく微笑むような声が空間に響く
――微笑む?
「なんで笑ってるんですか? 俺死んでるんですけど?」
思わず噛み付いてしまう。自分の死を笑われた俺はどんな表情をしていたのか初めての経験なので想像できない。
「いや、だってあなた天井照明の紐で首吊り自殺しようとしたんですよ」
ついにはクスクスと笑い出す神様。
なんだ?何がおかしい?
「しかも途中で紐であやとりして遊び始めて……ブフッ」
堪えきらなくなったのか神様はこの世のものとは思えない美しい声で下品に吹き出し盛大に笑い出す。
なぜだ……なぜ神様は笑っているんだ……。
困惑する俺をよそに神様は続ける。
「あやとりに夢中になり首吊りは失敗、浴槽で溺死しようとするも水遊びが楽しくなり失敗、飛び降り自殺も気持ちいい風にリフレッシュしてしまい失敗、練炭自殺も炭の匂いで秋刀魚を食べたくなり失敗、交通事故もカッコイイ車だと見惚れて失敗、さらに……」
神様はよほど面白いのか次々と俺の失敗した自殺を並びたてる。
俺は笑われている理由も理解できず呆然と聞き入るのだった。
「そうその反応! その何もわかってない反応が傑作なんです!!」
その失敗談と俺のことをずいぶん気に入っているのかケッサクだと大笑いされる、ケッサクってなんだ神界の言葉を使うな。
「あなたが初めてなんですよ! 人類の考えうる全ての自殺を台無しにしたお馬鹿さんは!!」
大喜びで「全てですよ全て!」と俺を馬鹿にしてはしゃぐ神様。いや、姿は見えないが声のトーン的にたぶんはしゃぎまわっている。
そうして一通り喜んだあと「あぁ笑った笑った」と一息つき、はじめと同じ淡々としたトーンで告げる
「――だからミツルギミコト、私はそんなあなたに興味が沸いたんです」
一転してまた荘厳な空気を出し始める。もう遅いと思うんだが。
「あの時のあなたすごく面白かったんですよ」
荘厳な空気を出しているがこれは笑いを堪えたニヤけた声。
自殺失敗エピソードが気に入ったのかなかなか話が進まない。
「そういえば転生の間ってことは俺は生き返ることが出来るんですか?」
脱線した話を戻す。
神様に散々馬鹿にされたおかげか混乱した思考回路も整列しはじめる。
俺は笑われて冷静さを取り戻すタイプだったらしい。そんなタイプあってたまるか。
「流石、察しが良いですね。 これよりあなたを科学ではなく魔法が発展した別世界に転生させるつもりです」
馬鹿にされたり褒められたり、俺は死んでからも神様の手の平の上のようだ。くやしい。
そんな気持ちを無視して神様は淡々とした事務的な説明を再開する。
「この世界へ転生させる者には魔法に匹敵する能力を渡す決まりになっていますが――あなたには必要ないでしょう」
魔法が蔓延る異世界に放り込むというのに変なところ買いかぶらないで欲しい、自殺は失敗したかもしれないが魔法で焼かれればひとたまりもない。
言いたいことが色々思いつくが言い出せない。なぜなら神様を怒らせて生き返れなくなると困るからな。
「代わりと言っては何ですがナビゲーションに天使を一人付けましょう、あなたにはきっとそれだけで十分ですから」
「はい」
完全に納得していないまでも生き返りたいので出来るだけハキハキと返事をする。
気が変わらないうちに生き返ればこっちのものだ。
「いい返事ですね、では転生を開始しますので後の説明は現場の天使にお聞きなさい」
神様からそう告げられふと思い出す。
転生するってことは俺は死んだんだよな?
自殺を全て失敗したというのに――
「神様教えてください、自殺が出来なかった俺はどうして死んだのでしょうか――」
質問が終わるのを待たずカァンッと硬い床を金属で叩くような音が響き、俺の下方から闇が広がる。
闇が一気に押し寄せ一瞬にして俺を包み込む。見上げれば残る白を今まさに飲み込まんとしている――おそらく俺は闇に飲まれているのではなく穴に落ちている。
見上げた白い空間が遥か彼方になる頃、女性の笑い声が聞こえた。
「それを言っては面白くなくなります、私は面白いものが好きなのです」
神様は明確な答えはくれず、最後までただただ俺を笑うだけだった。
俺は多少の憤りを感じたもののそれもすぐに引いた。
「まぁ生き返らせてくれるだけ優しいもんな……」
夫に暴力を振るわれても少しの優しさに縋って我慢してしまう妻のような気持ちになりながら、俺の意識は闇に溶けていった。