月夜に佇む影法師Ⅱ
暗闇には誰もいるはずがない。月明かりに照らされた床と奥の薄暗がりがあるだけだ。
それなのにも拘わらず、何かが体全体を圧迫する。間違いなく、何もいないのに、だ。しかし、その空間から突風が吹き抜ける。それと同時に床が、壁が、天井が――――否。
周りのすべてが黒い花びらとなって散っていく。床が崩れると同時に花びらが体を包み込み、視界すらも埋め尽くしていく。
意識が途切れる瞬間、一人の不敵に笑う男を見た。
「……さん。……ランさん。…………フランさん」
「――――はい!?」
「よかった。ぼーっとしてたから驚いちゃった」
「あ、あの……ごめんなさい。大切なお話の最中に」
目を見開くフランだったが、そんな彼女をアイリスは手を振って宥める。
「気にしない、気にしない、だよ?」
サクラとアイリスに声をかけられ、記憶の奥底から引っ張り上げられたフランは慌てて数歩下がる。
吸血鬼として目覚めた今、人との距離があまりにも近いことに飢餓症状の恐怖と安心感の歓喜で胸が激しく音を鳴らす。
「私、サクラ・コトノハ。よろしくね」
「アイリスー」
サクラとアイリスがフランと話しているのを見て、伯爵と騒いでいた二人と止めようとしていたユーキ、フェイが寄ってくる。
「……ローレンス騎士団所属のフェイだ。文字通り牙をむかないでいただけるなら、よろしく」
「ユーキ・ウチモリ。冒険者をやっている。どうぞよろしく」
自己紹介が最後になったと気付いたマリーが伯爵の手から逃れて、周囲の調度品を吹き飛ばす勢いでやって来た。
「あ、あたしは……マリー・ド・ローレンス。そこのでっかい人の娘だ」
――――多分、自分をこの人たちは受け入れてくれそうな気がする。
フランは、そんな安心感を胸に笑顔で頷いた。
「はい、よろしくお願いします」
「なぁ、いきなりなんだけどさ。フランって、トマトジュース好き?」
「え?」
マリーの問いかけに一瞬、周りが静かになる。が、その意図を理解した瞬間、フラン以外の全員が笑いだした。
フェイですらも、顔を背けて笑いをこらえている。
「おい、何だよ。急にみんなで笑いだしてさぁ」
「いや、流石に、安直すぎるかと……」
フェイは腕で口元を抑えながらも、肩を小刻みに揺らしている。
「マリー。流石に、それは、ない」
「だって、トマトジュースと血って似てんじゃん!」
数瞬遅れて、フランも言っている意味を理解して笑ってしまった。
「おいおい、フラン。お前までなんだよー」
「いえ、その……フフッ、ごめん、なさい。……クスッ」
上品に手を口に当てて笑うフラン。その首には黒い薔薇の花の紋様が首輪のように浮かんでいた。
――――王城内、某所。
「ふん、忌々しい筋肉男め。せっかくの研究対象を逃してしまったではないか」
「本当によろしかったのですか? 何の妨害もせずに……」
「アホかね。君の頭は随分とおめでたいと見える。たかが小娘一人とはいえ、吸血鬼だ。問題が起こらぬ方がおかしいのだ。いつまでも隠しておくことなどできぬ。近いうちにボロを出してしまうさ。そうすれば……」
喉の奥で笑いを噛み殺し、低い背の男は部下へと一歩近づいた。思わず顔をしかめたくなるような硫黄の臭いが鼻をつく。
金髪の髪の毛は伸び放題になり、顔すらどこなのかわからない男が音もなく近付く。
「伯爵の名は落ち、吸血鬼は勝手にこちらに回されてくる。我々としては余計に手を出さない方がいいのさ。ハイリスク・ハイリターンの時代は終わった。ノーリスク・ハイリターンでいくのが、長生きする秘訣だよ。覚えておきたまえ。ムシケラくん」
「し、承知いたしました」
「よろしい。では、次の案件に移るのだ。私にはまだ仕事が山ほど残っているからね。君たちと違って、この素晴らしい頭脳は代えが利かないのだよ。ヒヒヒッ……」
甲高い男の声が口の端から漏れるように零れ落ちる。部下の目にその姿は移っていないが、蛇に睨まれた蛙のように体が硬直していた。
「な、か、からだ……が……ぁ……」
「あぁ、失礼。言い忘れていた」
再び、男が姿を現すと長い金属の針を部下にわかるように見せた。
「次は、こいつを突き刺す実験だ」
「ひぃ……」
「――――おや、これは失礼。説明してなかったかな? ヒヒッ……」
部下の顔が絶望に歪み、かすれた悲鳴が響き渡った。
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