あなたの世界は何色ですか?Ⅰ
「こんな所で、ぼーっとしてちゃいけないよ」
胸に衝撃を受け、ユーキはハッとする。どうやら道に突っ立っていたらしい。自分より背の低い老婆に、ユーキは謝って歩き出す。しかし、すぐに足を止めてしまった。
(俺はどこに行こうとしていたんだ?)
辺りを見てみると、目の前の道は線路沿いにあり、アスファルトに覆われている。日差しのせいか、ゆらゆらと地面と空気の境界付近で空気が揺れていた。左を見てみるとレンタカーの店や駐車場がある。数秒考え込んで、どこにいるのかを把握した。
どうやら、駅から家に歩いて帰る途中だったらしい。
肩掛けカバンを背負い直し、歩き始める。目の前に見えていた交差点に着いたと同時に、運よく信号が青に変わった。そのまま直進して歩道を渡る。
いつものように左に曲がってショートカットしようとしたところ、工事中で通行止めになっていた。ヘルメットを被った男性が、曲がる前の道を進むように、赤色に光る棒を手に振り続ける。
「仕方ない。遠回りになるけど、橋の方から行くか」
もう少し先に進むと階段を下りて川沿いに進むことができる場所がある。
そう思いだしながら、さらに歩き続けると何件かのアパートや住宅を通り過ぎて、橋に出た。やけに下から大きな音が響いている。
橋の欄干近くまで寄ってみると、川が洪水一歩手前まで増水していた。それを認識した瞬間、どこかから放送が入る。
『ただいま、川の水位が危険域に迫っています。川の氾濫の可能性が非常に高くなっています。速やかに避難して下さい。繰り返します。ただいま――』
ここにいると危険そうだ。家に帰るのも得策ではないだろう。まずは安全確保のためにもユーキは川から放れるように移動し始めた。そうしながら、どこか避難できる場所を考える。
何度か、唸りながら歩いていると、小さな山の上に学校があることを思い出した。順路としては橋を渡って進み、一度下がった後のなだらかな上り坂を登ると辿り着ける。
目的地も明確になったのでユーキは歩みを早めた。途中で、何度か土砂が崩れた場所があり、止む無く迂回することになってしまって時間を無駄に浪費したが、川が氾濫してもユーキのいる所までは届かないだろう。
「こっちの道は工事しているから、次の道を行ってくれ」
何度目かになる工事現場を迂回し、一直線の坂道に出た。車も通らず、とても静かだ。元々、閑静な住宅街ではあったが、小鳥すら鳴いていないことにユーキは、どこか不気味さを感じ取る。
住宅街の中にある坂道を歩いていく内に、急に左側が開ける――そう思っていたが、工事現場でよく見る鼠色の板が張られていて、空しか見えないようになっていた。
「まったく、ここから見える景色が綺麗なのに……」
独り言をつぶやいて、ユーキはまた足を進める。しかし、ここまで歩きっぱなしだったことを思い出し、少しだけ休憩しようと考えた。
ふと、何の気なしに今まで登ってきた道を振り返る。
――一瞬で全身に鳥肌が立った。
今まで歩いてきた道などなかったかのように、漆黒と赤黒い染みが世界を侵食していた。建物も地面も削れ、呑み込まれ、形を失っていた。木漏れ日の光の跡が風に揺られて動くように、赤黒い染みもサワサワと左右に揺れている。
気付けば、その漆黒の闇が足元まで迫っていた。
(俺はこいつを知っている!? 確か――)
頭に鈍痛が走る。心臓の鼓動に合わせて一定周期に襲ってくる波に顔をしかめて、右手で抑えた。よろめきそうになる体を支えるために、左手を傍のガードレールに置こうとして――
「えっ!?」
――その左手がガードレールをすり抜けた。否、ガードレールが無くなっていた。
バランスを崩した体を支えきれなくなり、ユーキはアスファルトの地面にそのまま倒れ伏す。
「うぐっ!?」
手をついてすぐに立ち上がると、先ほどまで立っていた場所が闇に飲み込まれていた。
『――走りなさい!』
どこからかしゃがれた老婆の声が聞こえた。それに背を押されるように走り出す。ユーキが走りながら肩越しに背後を見ると、闇が逃がさないとでもいうかのように侵食のスピードを上げて追ってきた。
「あぁ、くっそ、いったい何なんだよ! 意味が分からない!」
鈍った体に喝を入れ、足の回転を速める。しかし、それでも侵食の方が速いらしく、前を向いているのに視界の端に黒いものがちらつき始めた。
(そうだ。俺はコイツを見たことがある。俺がコイツを見たのは――)
目の前に空き始めた黒い穴を飛び越える。次第に目の前がアスレチックのような虫食いの地面になっていく。
(――あの落ちていく世界!)
フラッシュバックのように、あの水晶体の世界を思い出す。この世界に来る際、気を失う直前にユーキが見たのは、この漆黒の闇と赤黒い染みだった。
なぜ、それを見て気を失ったのかは、今でもユーキには理解ができない。しかし、本能が叫んでいた。アレに捕まったら最後、もう戻れなくなる、と。
そんなことを考えていると、目指していた学校が見えてきた。そのまま正門を潜り抜け、駐車場を通り、グラウンドに向かって走り続ける。
「おいおい、冗談だろ!?」
あと少しでグラウンドまで辿り着けるという所で、目の前には五メートル以上もの幅の穴が開いていた。正直、飛び越えられる気がしない。もはや、万事休す。
そう思い、足を止めたところ、後ろから声がかかる。
「大丈夫、勇輝は絶対助かるよ」
振り返ると白髪のやせ細った老婆が立っていた。思えば先ほどの声、そして、ぶつかった時の老婆もこの人物ではなかっただろうか。
そう思った瞬間、何度か出会った工事現場の男性の姿や放送の警報の声もどこかで見たり、聞いたりした覚えがあることに気付く。
「ひいばあちゃん? それに――」
どうして、思い出せなかったのだろう。先ほどまで関わった人物は親戚のおじさん、おばさんたちだった。
「なんで、確か何年も前に死ん――」
「そこまでだよ。――勇輝が立派に育って、かけてあげたい言葉はたくさんあるけど、ここでお別れ。さぁ、行きなさい」
軽く胸を押されたはずが、一気に十メートル以上も吹き飛ばされる。だが、地面を転がりながらもユーキは痛みを感じることはなかった。
「頑張りんさい。そして『どんなことがあっても、自分から生きることを諦めちゃいけないよ』」
「――あぁ、ありがとう。ばあちゃん」
最後の言葉、それは物心ついた時からユーキに呼びかけていた曾祖母の言葉だった。
ユーキは、それが曾祖母なりの励ましなのだと気付いた。しかし、感動の再会と別れに水を差すように闇が浸食を開始する。それを避けるため、ユーキはグラウンドの中央に走った。根拠はなかったが、確信があった。
あそこに辿り着けば、きっと助かる、と。そこには空から一条の光が降り注ぎ、地面を照らしていた。そこに近付くにつれて、胸が熱くなるのを感じる。
足元の穴を飛び越えて、その光の中に飛び込む。すると、胸から全身にどこかで感じたことのある温かさが広がり、全身をすっぽりと包まれてしまう。
安心感に包まれ、そのまま体が持ち上げられる感覚に襲われると同時に、ユーキは意識が飛びかけていることに気が付く。そんな最中、ユーキは耳元でサクラの囁く声が聞こえた気がした。
――ユーキさん、安心して、絶対に助けるから。
あの光に飛び込んでからどれくらい経っただろう。ユーキは動かない体に疑問を持ちつつ、瞼を開けた。
どうやら、知らない寝室に寝かされているようだ。布団の温もりの心地良さに、再び夢の世界に誘われそうになる。布団の位置を調節しようとして、首の周りに何かが巻き付いているのを感じる。まだ、目が開き切らない状態で下を見ようとすると、何か固いものに頬がぶつかった。
腕が動かないので何とかして体を動かすと、布団にしては柔らかいものを感じる。そして、呼吸と同時に感じた香りを思い出した瞬間、意識が覚醒した。
(な、ななな、なんだ? この状況は! どうして、サクラが俺の上で寝てるんだ!?)
間近というよりも直に感じる異性に、ユーキは心臓が爆発しそうな錯覚を覚えた。そして、その早鐘がサクラを起こしてしまわないかと焦り、さらに鼓動は早まる。
逃げようにも首には両手を回され、がっちりホールドされている。おまけに片足にはサクラの足が絡められていた。ここから変に動いて体からサクラを落としてしまえば、確実にアウトだ。
これが、どのような状況下で起こったことなのか把握できていないユーキには、動くという選択肢はなかった。ユーキはサクラの髪から漂う香りと、体全体から感じる感触に悶えることしかできない。
「……んっ」
何度か零れるサクラの吐息が耳をくすぐり、脳髄までを蕩けさせた。思わず身を捩じらせると、さらに状況は悪化する。
「……んぁ」
腕に力を入れてサクラがさらにユーキを抱き寄せる。さらに密着する肌にユーキの理性が全力で稼働を始めた。しかし、その理性も強く押し付けられる二つの膨らみの柔らかさには勝てなかったようで、罅が入るのを自覚する。
(良かった。もし、腕が動いたら全力でサクラを抱き締めかねなかった……!)
そんなことを考えていると、サクラの足が布団からはみ出た。
「んあ……うーん」
足に感じた温度差にサクラが目を覚ます。潤んだ瞳にユーキの顔が映っていた。
「おはよー……ユーキさん……」
「お、おはよう。サクラ」
寝ぼけ眼を擦って挨拶するサクラに、緊張しきった顔で返事をするユーキ。一歩間違えば、社会的に存在を抹消されかねない状況なのだから、仕方がないだろう。
「ん……!? ユーキさん!?」
「は、はい!」
抱き着いたままユーキの顔が見ようとサクラが見上げて来た。抱き着いたまま、そのような行動を取ればどうなるか。それは柔らかな膨らみが強くユーキに押しつけられるという結果に行きつく。
見下ろせば首元が緩いワンピースだったせいで、胸の谷間や白い下着が覗いていた。体は起こせないというのに己の一部が起きようと反応したので、ユーキは必至で気を紛らわせようとする。
「目を覚ましたの? 体は痛くない?」
「あぁ、少しばかり腕が動かないけど、痛くはない」
手を握ろうとするが、肩から下が感覚がうまく認識できず、ゴムの塊のように感じた。全力を出して肘が曲がるかどうかくらいで、気持ち悪い感覚に襲われる。
「よかった。心配したんだから……!」
「心配したのはこっちだよ。もうちょっとでサクラは――」
そこまで言って、口を閉じる。そんな最悪のあったかもしれない話などしたくはなかった。
涙目のサクラと目が合う。そして、見つめあったままどちらも動きが止まった。しばらくして――
「――お目覚めですか?」
「「――!?」」
リリアンの声が上から降ってきた。二人同時に、リリアンの声がする方に顔を向ける。
「それだけ驚く余裕があるならば大丈夫ですね。そのままで結構です。右腕の診察をさせていただきます」
リリアンの言葉にサクラも動くわけにはいかず、二人で羞恥心に顔を赤く染める。リリアンは、そんな二人に構わず、布団の中の腕を引っ張り出し、触診を始めた。
「ふむ、血行良好。感覚神経の反応が鈍いようですね。まだ、様子見が必要でしょう。ギプスとまではいきませんが、包帯で軽く固定させてもらいます。予想よりも、かなり良好な状態であることに少し驚きました。特別、何か治療を促進するものを使った記憶はなかったのですが――」
その言葉にユーキは、思わず左手を胸ポケットに当てた。服越しに伝わる堅い感触。城壁外の薬草採取で見つけた、眩い光を放つ石のことを思い出す。
ユーキが石のことを話そうか悩んでいる内に、リリアンはテキパキと試験菅が置かれていた棚の下から、幅の違う包帯を何個か手に取り、ユーキに合う物を探し出していた。
いくつか腕の横に出して大きさを確かめた後、寝たままのユーキの腕にリリアンは包帯を巻いていく。
「さて、これで終わりです。また経過を見て治療をしていきましょう。今日のところは、安静にしていてください。ここも一日貸し切り状態にしておきます。後はそうですね――ご友人たち全員、一度、寮に戻り、身だしなみを整えてきてはいかがですか?」
そう告げて、リリアンは視線を横にずらす。そちらをユーキとサクラも目で追うと、ベッドの部分から顔半分覗いているアイリスとマリーがいた。
「いやー、お二人を邪魔しちゃ悪いかなって――」
「――ロマンチック」
アイリスはサムズアップで見続けるのに対し、マリーは目を右往左往させながら、顔を赤くしていた。
「とりあえず、サクラ。一度、寮に戻ろ。ほら、昨日から、ずっとだし」
「――っ! そ、そうだよね。ユーキさん、ちょっと寮に行ってくる。すぐに戻るからね!」
「また、後で」
アイリスの言葉にサクラは慌てて飛び起き、靴を履いて駆け出す。
マリーもそれに続き、アイリスも片手を上げて退室した。彼女らの背後からリリアンの走らないようにと注意する声が飛ぶが、もはや届いていないだろう。
「あぁ、ありがとう。三人とも」
おそらく自分を助けてくれたんだろう、と悟ったユーキ、は三人の背に向けて呟いた。リリアンは壁際の机に座り、書類などを書き始めている。静かな部屋の雰囲気に当てられて、ユーキはもう一度、目を閉じた。
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