冥界への旅路Ⅵ
陽が沈み、星が夜空に瞬いて、半月よりも大きくなり始めた月が空で朧気に輝く。
ユーキたちは図書棟の前にまで来ていた。図書棟は教授も利用するため、夜でも開館している。司書のケイベルは流石にいないが、二匹の番犬たちがカウンター横に寝そべっていた。
「おい、ほんとにやんのか?」
「ユーキさん。失敗したらケガじゃ済まないですよ」
「……犬相手じゃ骨も拾えない」
「俺の信用度、低いなー」
苦笑いしながら、扉を開くと寝そべっていた犬が夜だというのに、すぐに飛び起きてユーキの目の前まで走ってきた。ベロに至っては尻尾をはちきれんばかりに振り回している。どちらかというと落ち着きのあるトロですら、その場で八の字を描くようにウロウロし始めていた。
「……どう? この反応?」
「すげぇ、マジかよ」
マリーが口をあんぐりと開けて呆ける中、ユーキは構わず進む。その後ろを二匹の犬がついていくが、その行先に気付いたのか、動きに戸惑いが見られた。
トロの口からは低い唸り声すら聞こえてくる。口の端から除く鋭い犬歯に噛まれたら、ただでは済まない。
やがて禁書庫の前に辿り着くと後ろからはトロが、前からはベロが挟み撃ちをするかのようにユーキを見つめる。
「さて、俺たちはここに入りたんだけど、通してくれないかな?」
二匹の犬は意味を完全に理解しているようで、唸り声で返事をして見せた。人の声ではなくともその意味は理解できる。
怯える二人と興味津々な一人が見つめる中で、ユーキは手に持っていた二つの籠を地面におき、覆っていた布をとって問いかける。
「これを君たちにあげるから許してくれないかな?」
そこには焼き菓子と堅パンが敷き詰められていた。
作ってからここに来るまでに時間を要したので冷めてしまってはいるが、つまみ食いした者たちからの感想は高評価だ。作ったシェフも喜んでいたが、まさか犬の賄賂にされるとは思っていまい。
甘い香りが漂い始めると二匹の口から唸り声ではなく、よだれが出始めていた。ベロに至っては待ちきれないとばかりに尻尾を振り始めている。
非難するかのようなトロの視線がベロに突き刺さるが、そんなことはお構いなしに籠へと近づくトロ。もしこれが人ならば――――
「いいの? 食べていいの!? これ! いいよね、トロ!」
――――と言っていてもおかしくない様子だ。
しばらく、ベロを睨んでいたトロも人間のようにため息をつくと籠の持ち手を咥えて踵を返す。それを見たベロも急いで籠まで走りよると、すさまじい勢いで階下のカウンターまで走っていった。
「よし、今のうちにカギを開けよう。マリー頼めるか?」
「オッケー。ここは任せとけ」
禁書庫への侵入ということでテンションの上がったマリーは、素早く杖を抜いて錠前へと近づく。
サクラは犬が戻ってこないか心配でカウンターの方を左右に体を動かして覗こうとしていた。
「『クピドとプシュケー』。御伽噺が通じるなんて誰も思わない」
近づいてきたアイリスが半分呆れ気味に呟く。対してユーキも同じような気分なので反論はできなかった。
「まさか、あの本の内容がそのまま使えるとは思わなかったよ。クレアがヒントをくれなかったら全然わからなかったからね」
ギリシア神話の物語の一つ。『クピドとプシュケー』。
姉たちの嫉妬から出た嘘を信じてクピドを裏切ってしまったプシュケーは、もう一度会うために三つの試練をクピドの母から言いつけられる。
第一の試練は膨大な量の食料の仕分け。第二の試練は凶暴な羊の毛の回収。そして、第三の試練が冥界の女神から化粧品を譲り受けること。それは即ち――――
「――――冥界の番犬、ケルベロスをどうやって突破するか。まったく、ここの司書さんも面白い仕組みを作るな」
蜂蜜を混ぜた焼き菓子や堅パンに蜂蜜酒を浸したものを食べたケルベロスは、それを食べるのに夢中になり、生者が冥界に入ったり死者が冥界から逃げ出したりすることを許してしまう。古代ギリシアやローマでは死者にパンを握らせて埋葬していたのも、間違ってケルベロスに食べられないための命綱でもあった。
「『ケルベロスにパン切れを与える』なんて言葉があるけど、本当に通用するとは誰も思わない、よ」
「俺もそれには同感だ」
二匹が戻ってこないことを確認して、ユーキはマリーの方へと向き直る。
興奮こそしているが、技の冴えは抜群のようでものの数秒もしない内に金属音が響いた。
「よし、開いたぜ」
「グッジョブ。あとは目的の物を早く見つけ出そう」
鉄格子の扉を押すと金属が擦れる音すらせず、すんなりと開いた。隙間から身を滑らせるように通ると風景が一変する。
鉄格子の向こうから見ていた時は古い本棚が並んでいるだけに見えたのだが、中に入った瞬間に外から見た空間以上の広さの部屋が広がっていたのだ。
幻想で隠されていた禁書庫の姿は、すべてが白銀に近い城壁と違い、黒曜石のような真っ黒な床や壁で作られている。覗き込んでみれば床は自分が映るほどに平面に整えられていた。
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