夢現Ⅰ
――――逃げなければ。
後ろを振りかえることなく、足を止めることなく、瞬きすることなく、呼吸することなく駆けた。
――――逃げなければ。
目に映った血飛沫を、落ちながらも怒りに満ちた顔と瞳を、自分を見つけて目を見開いた仇たちの顔を見た瞬間。復讐よりも恐怖が心を満たしていた。
――――逃げなければ。
扉を突き破り、梁に昇り、破風を吹き飛ばし、塀を跳んだ。
――――逃げなければ。
川を越え、山を越え、森を越え、野を越えた。
――――逃げなければ。
飲まず、食わず、脇目も降らずに一心不乱に黒髪を振り乱し、腕を振って走り抜けた。
――――逃げなければ。
気付けば見知らぬ木々の中で立ち尽くしていた。そこはもう自分の知る都の外れでも、どこでもなかった。虫すらも鳴かぬ、しんと静まり返った暗闇の中、肩で息をしながら地面へと倒れ込む。
体の芯は熱く燃え滾っているのに、心は奥深くまで氷のように冷え切っている。今、この瞬間にもあの恐ろしい男たちが、自分を殺しに追ってくるのではないかと、両手で自身の体を掻き抱いて震えた。
衣服は木の枝などに引っ掛けてところどころ破けてはいるが、何も履いていない足には傷一つついていない。
――――体は無事でも心が追い付いていない。今も、自分の心はあの屋敷に囚われている。
浅い呼吸が繰り返される度に、こめかみを鋭い痛みが襲ってきていた。目に映る景色も銀の砂が舞い、見えているのに認識ができない。
心に引きずられて、体までもが動かなくなっていく。手足の先からじんじんと感覚が麻痺し始め、だんだんと這い上って来る。
自分はここで死ぬのだろうか。そんな疑問を抱く一方で、まだ死にたくないと自分をここまで運んできた唯一の心が叫んでいた。
「まだ、死んでたまるか……けほっごほっ!」
乾いた口の奥から、自分でも驚くくらい掠れた声が漏れ出た。喉を通る空気があまりにも染みて、思わず咽る。それが余計に体力を奪い、意識を朦朧とさせた。
「おかしい。我は……ここまで弱い体のはずでは……」
言葉とは裏腹に体の動きは鈍く、思考は遅くなっていく。気付けば口は半開きになり、涎が口の端を伝って地面へと零れ落ちていた。
「結局、あの男には、敵わぬままだったか……。我がもっと強ければ、こんなことには、ならなかったのか?」
その呟きに応える者はいない。ただ、風が虚しく吹き荒んで、通り過ぎていくだけだ。
「少し、眠ろう。今は力を蓄えねば――――」
その言葉を最後に人影は動かなくなった。周囲に魔物はおらず、人もまた寄り付かない山奥。一夜をやり過ごすことはできても、そう何日も過ごせるほど安全な場所ではない。
不幸中の幸いと言うべきか。それとも不幸の始まりか。その体が横たわった場所は、奇しくも大地を流れる魔力の奔流、その真上に位置していた。
地脈、龍脈などと様々な呼ばれ方をするその流れは、利用すれば莫大な力を得ることができる。結界に組み込めば半永久的に発動し続け、強固な状態を保ち続ける。そこで修業をすれば体が丈夫になる。時には運が良くなるなどという効果もあるとかないとか。
しかし、人影はまったく動かない。呼吸すらも止まっていた。
服も肌も何もかもが灰色に変わり、まるで最初からそこにあった岩のようであった。いや、岩そのものになっていた。
母親の体の中で蹲った赤子のような姿勢で横たわったそれは、舞い落ちた紅葉も相まって、血を流して倒れ伏しているようにも見えた。ひらひらと更に落ちて来る紅葉はやがて、岩の周りだけでなく、岩そのものにも積もっていく。
朝にもなれば、ここに人の形をした岩があることなど誰も気付かないくらいになるだろう。時折、吹く風が葉を巻き上げるが、むしろより多くの紅葉を岩へと被せる形となっていた。
――――強くならなければ。
固く閉じた瞼の隙間から一筋の雫が零れ落ちた。
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