第3章 その4
お待たせしてしまい申し訳ありません。しばらくゆっくり投稿が続きますが、ラストへ向けてはピッチを上げて行こうと思いますのでよろしくお願いします。
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その夜、弓張り月が静かに揺れていた。
まだ、望月の夜までは遠いけれど、凛と張りつめた美しさのある月夜だった。
静かで清らかな月の光が、蔀戸の隙間からわずかにそっと流れてくる。
ーーーー私を呼ぶ声?
確かに魔力のように呼びかけ惹き付けられる美しさだった。これは、もしかしたら魔の力なのかもしれない。
しかし、負の気配は全く感じさせられる事はなく、潔い心地よさと懐かしさしか感ずるものは一切なかった。美しく清らかな月の香りはやさしくやわらかに皇女を包み込み、彼女は誘われるように寝所から立ち上がった。隙間から差し込む銀の霧に恍惚としながら、そっと妻戸を押し開けた。
やさしげに香る草の匂いと今は夏なのにひんやりとしたような心地よい風が皇女を迎えた。
皇女が屋敷を抜け出しても、誰に咎められる事もなかった。行者の姿もない。
そう、警護のものたちは皆、深い寝息を立てている。
「なんだ。結界など、意味をなしていないではないか。」
皇女は少し飽きれたように軽く笑い、歩みを進めた。
月読の力が強くなる月の夜。行者の結界は結局効かず、家人はおろか犬猫すらも息を潜めたように眠り込んでいる。
結局今まで通り、皇女は外へ出る事が出来た。
ーーーー皆、寝静まってしまっている。きっと明日は、自分たちが眠ってしまっていたという、その事実すらも気付かずにいつものように過ごしているのだろう。薄っぺらい行者の結界などよりも、月の力が勝ったのだ。
ほんの少し気分が良かった。いつもよりも楽しげで足取りが軽く感じられる。幼子がちょっとした悪戯を施した後のような面白い気分だった。
いつもの山裾の野原に着いた。しかし、そこには先客が居たのだった。
鬼だった。
「おろかな女だのう。わしが寝ている姿に安心して気がつかなかったのかえ?鬼を使い、先回りしてこちらで待っておったのだわい。どのような手を使い、皆を眠らせ、わが術を破ったのかは解せぬが、鬼神の力によって吾は術を回避した。さすがにこの姿には眠りの法は効かなかったようじゃぞ。先日のわが式神の仇をとってくれようぞ。」
鬼がしゃがれ声で笑った。その声音は、あの行者のものだった。
行者は月の魔力に叶わず肉体は眠ったままだったはず。この鬼を霊体の媒体として使役し、ここへやって来たのか?
ならば、法力を奪ってしまえば良い。しかし、私にはそのような力はない。あの式神だって、私は倒した覚えなんて、そもそもない。ある夜、突然気配が途絶えたのだから。
しずかに月が揺らめき、空気が香る。彼方から、光の粒がゆらゆらと現れ近づいて来た。
「物の怪めが、現れたか。調伏し我が下僕として使役してやろう。ほれ、お前が餌となり、奴がやってくるぞ。」
鬼は愉快そうにクックッと笑い、印を結び、高らかと呪禁を唱え始めた。皇女は何する事もできずに、彼の人を見つめた。
だんだんと近づく距離。皇女は彼の人の方へと静かに歩み寄った。月が満ちていく分、二人の距離は縮まってはいるけれど、
やはりある一定の距離までは近づいてもそれ以上は望めない。そして、また、遠のいて行ってしまう。
「ああ・・・」
何もかもがいつもの通り。
しかし、その距離を行者は我が術が効いていると錯覚しているのだろう。行者の呪禁を唱える声はいよいよ張りつめ高鳴り、鬼の額からは脂汗が吹き出している。皇女は冷たい瞳でそれを眺めた。
暫くして、行者は薄目を開け、彼の人を睨みつけた。だが、彼の人は皇女の姿を見ぬどころか鬼の気配すら気がつかぬ風だった。
・・・つまり、無視をした。
「あの者からはこちらが見えぬと言うわけか。あやつの力もたいした事はないのう。」
行者は薄く笑って呟く。
ーーーー面白い。
「さて、今夜はお主の前で、あの者を退治してくれようぞ。」
得意げにそう言葉を放つと、行者は再び固く両手で印を結び、陰鬱な声で呪禁を唱え始めた。
いっそう強く禍々しい黒い気迫が立ちこめた。
しかし、この禍々しい気もそう長くは続かなかった。黒い気迫が膨張し皇女の心を抑圧するかのように重く伸し掛かり、行者の妖気が最高潮に達したかと思われた瞬間、パッと目の前で光の玉が弾け、黒い気は一瞬にして四散してしまったのだった。
この時、皇女には彼の人が鬼の方をほんの一瞬だが鋭く一瞥したような気がした。
しかし、それだけだった。
何も起こらず、振り返りもせず、何事もなかったように彼の人は月光を背に深い闇の中へと消えてしまった。
なんと言う肩透かしかーーーー。
鬼はがっくりと頭を垂れた。
精魂果てた行者の霊体はいつの間にか消えて、抜け殻のようになった鬼も姿が消滅してしまった。
皇女は屋敷へ戻って、寝台に上がり、ゆっくりと深い眠りについた。