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風の娘と帝王の鳥籠(大根と王妃の過去番外編)  作者: 大雪
第三章 風の娘は帝宮で保護される
21/23

離宮に住まう少女は質問し、将軍夫神は大根畑を獲得する

 目を布が覆うのが意味するように、目が見えなかった。

 喉を包帯が覆うのが意味するように、声が出なかった。


 そして、彼女は耳もあまり聞こえなかった。


 しかし、目と耳、口が使えなくなった分、彼女は神の気配に敏感であり、焼け爛れて酷い火傷を負ったものの、その掌の感触で物事を確かめるという手段をとっていた。


 遙華ーー。


 そう呼ばれる少女は、自分の手の甲に口づける相手を振り払う事なく、けれど何の感情の機微も見せず、ただされるがままとなっていた。


「遙華……」


 彼女に自分の声が聞こえているかは分からない。

 彼女の耳は、微かに音を捉えられるーーという程度なのだ。


 右宰相は知っている。

 彼女の目に、醜い傷跡がある事を。

 彼女の喉元に、醜い傷跡がある事を。

 彼女の耳に、醜い傷跡がーー。


 それらは、彼女の目と喉と耳を潰した。


 それだけではない。

 彼女の掌に刻まれた醜い傷跡。


 そればかりか、彼女は歩く事すら最初はままならなかった。

 彼女は両足の腱すら切られていたのだ。


 それが、こうしてびっこを引きながらでも歩けるようになったのは、彼女を匿った『あの方』がその傷を癒やすのに必死になってくれたからだ。

 おかげで、彼女の足は少しずつ、少しずつ癒えた。


 足は何とか治ると言われている。

 手の火傷もだ。

 時間はかかるが、それでも時間をかければ治る。


 だから右宰相はたとえ何年かかろうと全力を尽くすつもりだった。


 けれど、目と喉と耳は駄目だ。


 呪いがかけられた武器で傷つけられたそれらは呪われた傷となり、あらゆる治癒の術を阻む。その武器を破壊するしか、その傷跡を治す方法はないのだ。



 外務長の義姉も同じだ。


 義姉の胸にある傷。

 それは、刀で刺し貫かれた傷だ。


 義姉は、その刀に魂を奪われた。


 魔剣と呼ばれる類いのそれは、攻撃した相手の魂を食らう代物だった。


 義姉は魂を奪われ、魂を失った体は仮死状態となって眠り続けている。


 死なずに居たのは、やはり『あの方』のおかげだ。

 帝国の宝の一つを、義姉に埋め込み、魂の代わりとして体を生かした。それは魂と体が完全に断ち切れていないから出来た事だ。


 それでも、その様な処置がとられた事で、一筋の希望が与えられた。奪われた魂さえ取り戻せば、彼女は目覚めるかもしれない。


 しかしその魔剣が行方知れずだった。

 魔剣は、当時の、前外務の最高責任者の手にあり、そして彼によって罪無き少女に振るわれたという。それを楽しそうに日記に記してあったと知ったのは、ずっとずっと後の事だ。

 自分の故郷を滅ぼし、義姉にまで手をかけた鬼畜。

 その男に囲われ、妻としてお披露目されて地獄を見せられてきた外務長は静かに切れた。


 義姉は狂った男の放った手の者達に追いかけ回され、まるで狩りをするようにいたぶられ、嬲られ、そして魂を魔剣に奪われた。

 その魔剣は、あの騒動時に行方不明になったと思われていたが、それよりも前に盗み出されてしまったという。

 調査では、他国に渡ったという情報もある。


 だから、外務長は外務の仕事を引き継いだ。

 自分が一番憎んでやまない男の全てを奪い、汚らわしいと唾棄した男の仕事を担った。



 遙華が身じろぎする。

 手に持っている花に見えない目を向ける様に、右宰相は微笑んだ。



「ああ、せっかく摘んできたのだから早く生けないとね」


 遙華は、外務長の義姉の好きな花を知らない。それでも、彼女は今時期一番美しく咲き誇る花を選んで持ってくる。

 鼻という感覚器官でかぎ分けた、甘い香りのする花を義姉に贈るために。

 少しでも、その眠りが安らかなものになるように。


「遙華様、花瓶にーーこれは右宰相様」


 遙華付きの侍女が室内に足を踏み入れたかと思うと、こちらを見て礼をとる。前身は貴族の姫君であるが、それこそ誰が見ても相応しいと思わざるを得ない完璧な作法は気品すら漂わせていた。


「顔を上げて下さい。すいませんが、まだ花は生け終えていないんですよ」

「まあーーでは、私が行いますね」


 名家出身という事で気位の高い姫君は多く、彼女もまたそうだった。しかし、彼女は遙華には誠心誠意仕え、親身にその世話をしていた。

 それは、彼女を世話する事で右宰相に気に入られようとするものではない。彼女は遙華の為なら、右宰相にさえ意見してくるし、噛み付かんばかりに戦いを挑んでくる。

 遙華も彼女に懐いてーーと言うよりは、むしろ彼女を心配していた。それは、右宰相にたてつくからではなく、彼女の過去を思っての事だろう。


 婚約者に捨てられ、捨て鉢になりかけ死を選ぼうとした彼女は、遙華に出会わなければまず間違いなく死んでいただろう。


 その後も、散々その気の強さで止めようとする遙華とやりあったが、遙華は決して彼女を離さず、今ではこうして遙華の世話を彼女は逆に焼いている。


 とはいえ、彼女は元貴族の姫君である。

 彼女の家は既に無い。

 前皇帝に組し、なおかつ現皇帝に反逆を企んだ家は、それが表沙汰になる前に潰されてしまったからだ。


 しかし、彼女にとって家が潰されようとどうでも良いらしく、むしろせいせいしたとばかりに、自由の身を満喫している。

 そんな過去を乗り越え、逞しく生き生きと仕事をする彼女に。



「その、彼女には好きな神は居るのでしょうか?」



 と、お前絶対そういうキャラじゃないからーーと、性別を超越した美女顔の普段は冷静沈着で血が凍っているんじゃないか?と言われる程の部下は、指をいじいじしながら恋する乙女のように頬を赤らめて彼女の事を聞いてきた。


 涼やかで清楚な美貌をほんのりと赤らめる姿は、それはそれは異性同性問わずバタバタと墜ちていく程に魅力的だが、たぶんそういう問題ではないのだろう。


 あと、自分にそういう風に出来るのなら、どうして相手に対してもしないのか。



「右宰相様、申し訳ありませんが仕事ーーああ、貴方も居たのですか」


 側近として許可を与え、この部屋まで来る事を許しているその男は、遙華の侍女である彼女を見てフッと鼻で笑った。いつも浮かべている物憂げな笑みを浮かべている。しかも、少しだけ相手を見下す様に口元を引き上げる様は、普通の者であれば彼の機嫌を損ねた事に恥じ入り何としても許しを請いたいと願う程の魅力を放っていた。


 がーー


「あ~ら、この陰険男! 貴方こそ、何用かしら?」

「誰が陰険男だと言うのですか?」

「勿論、貴方に決まっているでしょう? いちいち神の顔を見る度に嫌味を言ってくれるとは良い度胸じゃない」


 バキバキと腕を鳴らす侍女は、戦闘モードだ。

 そうーーこの侍女は、側近の冷たく見下す様な視線をものともせず、むしろ売られた喧嘩は買うと言わんばかりに立ち向かう。


 元貴族の姫君ってなんだろう?


 右宰相の中で未だに解決出来ない疑問の一つだった。


 と、遙華が侍女に抱きついた。止めるように後ろから抱きついてくる彼女に、侍女は思いとどまったらしい。


「遙華様、大丈夫ですわ。私は負けませんから」


 決意を新たにされただけだった。


「ふん……女性とは思えない乱暴者ですね」

「この時代、女だって殴り合いよ」


 そんな決意はしないで欲しい。


「おいおい、ここで血を見る乱闘はやめてくれよ? もし、こいつが目覚めたらどうしてくれるんだ?」


 目覚めない事は分かりきっているが、もし万が一、外務長の義姉が目覚めて最初に目にしたのが殴り合う男女だなんて余りにも可愛そうだろう。


「私は遙華様の侍女ですから、遙華の行く所に居て当然ですが」

「私も右宰相様の側近ですし、ここへの立ち入りは許されております」

「殴り合ったら強制的に外に叩き出すからな?」


 そういう風に許可を変更しろーーと外務長に視線で訴えられ、右宰相は考え込む。出来るが、それはそれで悲しい気がしてならないのはどうしてだろうか?


 侍女がこれ以上喧嘩しないと分かったのか、遙華が侍女から体を離す。そして、持ってきた花を花瓶に生けていく。

 まるで見えているかの様に花瓶に花を生ける様は相変わらず見事だった。


「本当に凄いな」


 外務長も感嘆する。そもそも、自分の義姉の為にこうして花を持ってきてくれるという行為だけで、彼は遙華に対して好感を抱いていた。


 『あの方』が居なくなった後、遙華がずっと外務長の義姉と左宰相の妻子、そしてーー。


 右宰相は、ここから離れた場所に暮らす者達を思い出す。

 彼ら彼女達は、今もあの場所で静かに暮らしている。


 いつか『あの方』が帰ってくる日を信じて。


 『あの方』が、探し集め、生きる場を提供してくれた。

 そして『あの方』が居なくなった後は、遙華が守ってくれた。


「遙華」

「……」


 彼女の名を呼び、その耳元で口を開こうとした。


「遙、華?」


 その時、手を捕まれる。

 掌を上に向けられ、その手に指で何かを書いてきた。


 ひめさま いるの?


「……え?」


 遙華の顔を見れば、相変わらず表情は無かった。けれど、布で覆われている筈の、傷跡で開かぬ瞼の奥にある目がしっかりと右宰相を見つめているようだった。





 果竪が再び、皇宮に登城した時、彼女は手土産を持っていた。


「……大根」

「の種」

「暇つぶしにどうかと」


 果竪は、楓の無聊を慰める物として、園芸セットならぬ大根栽培セットを持参した。とりあえず、楓の傍にいた侍女達は、果竪がたいそう大根好きである事に気づいた。


「大根一つで色々と楽しめますし」

「色々とは?」


 菖蒲がそう聞けば


「会話に写真撮影に着せ替えに同好会」

「大根に対しての発言ではありませんね」

「どこからどう聞いても艶めかしく素敵な白い大根に対する言葉です! 大根の写真を撮らないで何の写真を撮るんですか! 大根と話をしないで何と話をするんですかっ! 大根に着せ替えしないで何を着せ替えるんですかっ! 大根の同好会に入らないで何の同好会に入るんですか!」


 何かとんでもないスイッチを入れてしまった事に菖蒲は気づいた。


「……果竪ちゃん、大根好きだから」

「好きを超えて愛してます!」


 もはやlikeでは収まらぬものだったらしい。


「まあ確かに美味しいですけど」


 何とか譲歩してそう言った侍女に。


「見ても美しい食べても美味しい! 外見中身共に素晴らしいまさしく世界一の大スターですよね! 世界の美男美女ですよね!」


 すいません、その感性は理解出来ません。


「あのほっそりとした艶めかしい体つき。けれど、どこか肉感的でムチムチとしたボディーのすばらしさは」

「ほっそりと肉感的は同時に存在しませんが」

「大丈夫です、神に様々なタイプの美男美女がいるように、大根にも様々な美男美女が居るんです!」


 何が大丈夫なのかは分からない。ただ、何かが大丈夫なだろう。全く安心出来ないけれど。むしろ不安しか覚えない。


「きっと楓お姉ちゃんも大根が恋しいかと思って」

「え、えっと」

「恋しくなると寂しくて寂しくて心細くなるでしょう?! ほら、恋神に会えないと何を見ても恋神に見えちゃうって話あるし、きっと何を見ても大根にしか見えなくなるかも!」


 それは最早受診レベルの話だ。もちろん、脳の検査は必須だ。いや、心の方か?


「果竪ちゃんも、何を見ても大根に」

「私は大丈夫。常に大根と共に居るから」


 何をもってして大丈夫という言葉があるのか。


「ご飯を食べる時もお風呂に入る時も寝る時も一緒だから!」

「よく、果竪ちゃんの寝ているテントの周囲に大根が散らばっている事が」


 特に夜明けにはよくばらまかれている。


「え?! まさか迷子の大根達がっ?!」


 驚愕する果竪だが、楓およびその場に居た者達は思った。


 絶対に、夫に大根を捨てられているのだーーと。


 何が悲しくて、妻の隣に大根が寝ているのを享受しなければならないのか。


「その、大根も良いですが、花などは」

「大根しか私、育てられません」


 大根以外は育てられないという果竪。


「枯れるんです、大根以外。むしろ大根だけが私を受け入れてくれたんです! 大根が私を助けてくれたんです! 私の救世主なんです! いえ、世界の大スターなんですっ! きっと演舞帝国も」


 それ以上言わせてはいけない。

 侍女達の心は一つになった。


「あ、お菓子の用意が出来ました」

「熱いうちにお召し上がり下さい、すぐに、いますぐに!」


 そのお菓子は、どれも美味しそうなものだった。しかし、果竪の心を動かすには少し足りなかった。


「お菓子食べたら、大根植えに行こうね」


 植えに行く事は決定された模様だった。

 菖蒲達は遠い目をした。


「それで、沢山実らせて収穫するの!」

「それって、収穫するまで此処にお邪魔するって事? それはちょっと図々しいか」

「いえ、それで行きましょう」


 果竪を止めようとした筈なのに、楓は菖蒲に両手を掴まれて真剣な眼差しで訴えられた。


「いや、その、大根収穫出来るまで結構かかりますし」

「それが良いのではありませんか」

「え?」


 いいの?


 楓は疑問に思ったが、菖蒲達からすると良かったらしい。



 そして、畑として使用可能な場所に案内された。



「とりあえず、こちらをご使用下さい」



 そこは、楓の滞在する場所から少し離れた、皇宮の片隅にある土地だった。雑草が生い茂るだけで、近くには少し朽ちた四阿がある。


「ここを畑にするのは大変ね」

「最初から畑になっている土地なんてないよ」


 そう言い切った果竪はかっこよかった。

 菖蒲達でさえ、思わずキュンとした。


「すいません、他に使える土地が無くて……それに、皇宮内には畑もありませんので」

「畑が無い?!」

「普通は無いと思うわ、果竪ちゃん」

「そんな……皇宮に畑が無くて一体何があるって言うんですか?!」


 政治機能に関する建物。


 楓や菖蒲達はそう言いたかったが、果竪の迫力の前に口を開けなかった。


「確かに最初から畑になっている土地はないです! でも耕せばどこでも畑になりますっ」


 どこでもは無理だろう。

 畑に向かない土地だってあるのだら。


 しかし、果竪ならどこでも畑にしそうで怖い。


 ただし、作物は大根に限定されるだろうが。


「すいません、うちの国にはその様な歴史が無く」

「歴史は作るものです! 慣例は壊すものです!」


 どうしよう、ちょっとかっこいいーー。


 菖蒲達の胸はときめき、楓は苦笑した。


「果竪ちゃん、落ち着いて。それぞれの国にはそれぞれのやり方があるんだし、演舞帝国はそれが普通なんだよ。むしろ、そういう国の方が多いと思うし」


 最後は小さな声で楓は呟いた。


「それに、そういう風に皇宮に畑を作る習慣が無い所で作らせて貰える方がむしろありがたいというか」

「演舞帝国って心が広いね!」


 そこは果竪も素直に頷いた。


「ありがとうございます。それで、その、そういう習慣がないので、あまり神目につく所ではという思いもありまして」


 別に果竪の事が嫌いでこういう場所にしたのではないーーと菖蒲はしっかりとした口調で告げた。というのは、そう思われてしまうかもしれない程ーー実は皇宮の外れにこの畑は位置していたのだ。神気もなく、立ち寄る者も少ない、そんな場所。


 しかし、菖蒲はこの場所が嫌いでは無かった。


 この場所は、『あの方』に近い。


 『あの方』が住んでいた場所からは少し歩くが、それでも時折『あの方』はこの場所を訪れていた事があった。

 何かするわけでもない。

 それでも、この場所で静かに佇んでいた『あの方』の姿が思い出される。


 そこに今、楓が居る。


 着ている衣装は『あの方』が着ていた物とは比べものにならない程、上質の物だ。謁見の時とは違い、装飾品の類いもないし、地味な部類に入るが、それでも生地は極上だし、仕立ても最高の物だ。

 出来るなら、『あの方』に着せたかった。


 そんな『あの方』とよく似た……いや、うり二つ。

 けれど、『あの方』とは違い気配を持つ。


 神気が違う。


 その一点で、『あの方』だとは言えない。


 顔立ちも声も背丈も同じだと言うのに。


 菖蒲は果竪の隣で雑草生い茂る土地を見る楓を見つめた。


 同じ顔。

 ただ、その顔半分は前髪で覆われており、その下には醜い火傷の痕があった。最初にそれを見た時は息をのむ程驚いたが、楓はあっさりと言った。


「ごめんなさいね、驚かせて」


 楓は諦めていた。

 その、火傷の痕を。


 そんな事ない、そんな事言わないで。


 自分よりも周囲をおもんばかって、その火傷の痕を前髪で隠す楓に、菖蒲や他の侍女達は皇帝に謁見する為の準備を整えた。

 その火傷を髪で上手に隠すようにした。

 本当はヴェールを使用したかったが、それでは皇帝は彼女の顔を見られない。


 皇帝には火傷の痕の事は伝えていた。

 涙ながらに伝える菖蒲に、皇帝は一言「そうか」とだけ答えた。


 菖蒲だって女だ。

 顔にそんな傷を受けて、同じ女である楓が傷つかない筈が無い事は十分理解している。しかも、楓は『あの方』にそっくりだ。そんな『あの方』の顔に酷い火傷を負っている。


 『あの方』が果竪に拾われた時には、既に火傷を負っていた。

 だから、きっと『あの方』が身を投げたも同然のあの時には、既に『あの方』の顔には大きな火傷が刻まれていたのだろう。


 いつ?


 いつ、それが?


 けれど、誰も教えてくれない。


 敬愛する皇帝陛下は何も言わず、右宰相も左宰相も外務長も言わない。

 他の上層部もだ。


 いや、上層部でも火傷を知らなかった者達は多い。


 知っていると思える者達はごく一部だ。


 何があったのだろう?


 菖蒲は知らない。

 何も知らない。


 彼女は『あの方』に泣きつき、そしてその後二度と『あの方』には会えなかった。


 泣きついた時の『あの方』には傷なんて無かった。

 いや、『いらない皇女』として虐待を受けた傷跡はあったけれど、それらを『あの方』は自分で治療していた。治療しきれない傷が残っていただけだった。


 いや、治療出来たから良いというものでもない。


 どうして?


 どうして、『あの方』ばかりが苦しまなければならなかったのだろう?


 いや、あの時菖蒲が『あの方』を頼らなければーー。




「ん? あれは」


 楓が何かに気づいた様に走り出したのが視界の隅に見えた。慌てて顔を上げると、楓とそれを追いかける果竪、その先に見えたのは大きな池だった。


 水場も近いという事で、この場所を畑として提供したのだ。


 しかし、今、その水場の向こうーー丁度池を挟んで向こう側に小さな神影が見える。


 それは、ぐらりと池の側でバランスを崩しーー。


「きゃあぁぁぁぁあっ!」



 その神影の正体をいち早く見抜いた配下の侍女が叫んだ。


美桜(みおう)!!」


 左宰相の愛娘の名だった。




 美桜は、ずっと怖い思いをして生きてきた。

 産まれて間もない頃が幸せだった分、父や兄達と離され、母と二神で生きてきた時間は酷く心細く恐ろしく、怖かった。


 美桜は誰よりも間近で母が狂っていくのを肌で感じていた。


 美桜がもっと強ければ、もっと大きかったら、母を守れたのに。


 美桜は二歳にまだ満たない頭で、いつもそう考えていた。


 お母さんーー


 そう呼ぶ事もなく、母は狂い、美桜の名前を呼ばなくなった。


 美桜が美桜と本当の名前で呼ばれるようになったのは、父達に再会してからだ。父と母が考えて名前をつけてくれたという。


 美桜は自分の名前が好きだった。

 難しい事は分からないけれど、その名前が大好きだった。


 美桜にとって父と兄は、余りにも幼い頃に別れたので覚えていなかった。それでも、ようやく出会えた父と兄達は優しかった。


 本当に、本当に優しかった。


 でも、美桜は怖かった。


 神が怖かった。


 母以外のみんなが怖かった。


 追いかけられ、罵声を浴びせられた。

 暴力を振るわれた。


 母が、大勢の男達に襲われ、のし掛かられる事もしょっちゅうだった。


 ボロボロになった母は、それでも自分が隠して無事だった娘に言うのだ。


「貴方が無事で良かった。それだけが救いよーー」


 母はいつから笑わなくなったのだろう?


 殴る、蹴る、切る、罵る



 美桜は沢山怖い目にあってきた。

 でも、母はそれ以上に怖い目にあってきた。


 母は壊れてしまった。


 もう、美桜の声も届かない。


 泣くだけだった美桜。


 怖い神達に、沢山酷い事をされて、ボロボロになった母は、それでも笑ってくれた。でも、もうそれすらも無い。


 ただ、母は『笑わなくなった』けれど『笑うようになった』。


 以前のように柔らかな笑みではなく、あははははははと狂ったように笑う。


 でも、笑ってくれるのだ。



 父達は優しい。

 とっても優しい。



 でも、父達が来ると母は泣くのだ。


 声を上げて嫌がり、そして泣きながら連れて行かれる。


 兄達は大丈夫だよと言って手をさしのべてくる。



 怖い神達に母が襲われた時もそうだった。

 母は声を上げて嫌がり、泣きわめき、でも酷い事をされ続けた。


 強引に引きずられ、母の呻き声と何かを叩く音が聞こえた。

 男達が笑っていた。

 身動きをとれないようにされて、嬲られる母を。



 美桜はそれがなんだか知らない。

 分かるには美桜はあまりにも幼すぎた。


 けれど、それがとても嫌で怖い事だけは本能的に分かっていた。


 女として、いや、神として最低最悪なこと。



 母の泣声を聞く度に、それが美桜の脳裏に蘇る。


 そうなると、美桜はパニックを起こした。

 自分を抱きかかえてくれる優しい神達の手を振り払い、泣きながら物陰に隠れる。兄達が慌てて追いかけてくれば、もっとパニックになって逃げ回った。


 今回もそうだ。

 美桜は怖かった。


 だから逃げた。


 小さな足で。

 必死になって歩いて逃げ、そして辿り着いた。

 そこは見た事のない場所だった。


 いや、もしかしたらずっと昔に来た事があるかもしれない。


 けれど、いつもより長い距離を歩いた美桜の小さな体は悲鳴を上げ、足から力が抜けた。


 喉が渇いたのもあった。

 目の前の水に口をつけたいという気持ちもあったかもしれない。


 美桜はしゃがみ込み、バランスを崩した。


 そもそも、子供というのは得てして頭が重い物だ。しかも、今の美桜は疲れ切っていた。



 美桜の小さな体は、あっという間に池に転がり落ちた。

 美桜にとって不幸だったのは、その池が通常のものよりも深い事だった。しかも、楓達の居た側は少しずつ深くなっていく形なのだが、美桜の居た側の水底はまるで切り立った崖の様になっていた。


 当然、幼く、水泳経験も無い美桜は、溺れた。

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