風の娘は帝国を訪れる
「楓お姉ちゃんっ」
名を呼ばれた楓は、川辺に立ち見つめていた水面から顔を上げた。向こうから、見覚えのある少女が駆けてくる。
「果竪--」
果竪がうきゃっと声を上げながら、楓の身体に抱きついた。身長170㎝の楓と比べて身長の低い果竪がじゃれつく姿は、まるで年の離れた姉妹のようだ。
ただし、顔は余りに似てない。
少し釣り目でどことなく勝ち気そうな楓。
ただ、平凡な顔立ちという所だけはよく似ていた。
目つきから生意気に見える事が多い楓とは違い、果竪は笑顔の可愛らしい子だった。例え平凡な顔立ちだと言っても、見ているだけで思わず笑顔を浮かべてしまう。
果竪は、楓の薄いアイスブルーの瞳を見つめ、腰下まで伸ばされ一本に首筋で纏められた同色の髪を一房掴んだ。
「楓お姉ちゃんの瞳と髪の色ってやっぱり綺麗ね」
「そ、そうかな?」
果竪と出会って以来、この少女はそうやって楓の髪と瞳の色を褒めてくれた。
「うん! まるで、風の色--」
風の色?
見ようによっては冷たささえ感じさせる色だと言うのに。
「凄く綺麗っ!」
果竪はそう言って、自分の髪の毛と見比べている。果竪の髪は青みがかった黒色だ。どちらかと言うと、暗い色に入る。だが、楓は嫌いでは無い。
「楓お姉ちゃん、何してたの?」
「ん? ……ちょっと散歩」
「また川を見てたの?」
また--という言葉に、楓は苦笑する。
「そうだね……だって私は川を流れてきたんだもの」
今から十五年前。
川の岸辺にずぶ濡れで倒れていた楓は、そう言って悪戯っぽく笑った。
「果竪に助けられなかったら、間違いなく死んでいたと思うけど」
身体中に傷を負い、ずぶ濡れで倒れていた楓円。切り傷と打身、その他に刀傷や火傷があったというから、きっと何かよからぬ事があったのだと思う。
何せ、楓の顔の右半分は、今も引き攣れた火傷の痕が色濃く残る。ただ、その傷自体は他の傷よりも古かったらしいが……傷跡は惨く、今は、楓は顔半分を髪で覆うようにしていた。けれど、何かで髪が揺れてその部分が垣間見える度に、それを見た者達は眉を顰め、心ない者達には【化け物】と蔑まされる。クスクスと笑われるのは日常的だった。
軍の者達も古参メンバーやそれに準ずる者達はそうではないが、下に位置する者達の中には楓を【化け物】と陰口を叩く者達も居た。
ただ、それも仕方ないと楓は思う。
それにしても、何故こんな怪我を負ったのか。
何かに襲われたか、何か悪い事をして追われていたか。
ただどちらだろうと、楓は覚えていない。
もしかしたら岸辺に打ち上げられた時には覚えていたかもしれないけれど、その後一週間に渡る高熱と意識不明から何とか生還した時には、楓は何もかも忘れていた。名前も覚えていなかった。
ただ、楓の葉っぱを握っていたから、そう名付けられた。
もう一つ、首からチェーンのついた指輪が下げられていたが、何の変哲も無い物で素性が分かるような物では無かった。今はその指輪は楓の薬指に填まっている--左手の。周囲にはせめて右手と言われたが、何でだろう。
年も良く覚えていないけれど、たぶん成神少し前ぐらいだろうと見当がつけられた。けれど、年齢なんてあってないようなものだから、たいして困ったりはしなかった。
楓を助けた果竪は、ある軍に所属していた。
今では一万神を超えた大軍。
この争乱の世の中、いくつもの覇者が軍を率いて戦う中、果竪の所属する軍もそうだった。
萩波という、果竪の幼馴染み--いや、今は夫である少年が率いる軍に楓も所属していた。というか、正確には拾われた。
元々、何も覚えて居らず、生活に先立つものもない。どこかの村か街に最初は運ぶかと言う話もあったけれど、当時は天帝軍の猛攻撃、猛追撃が迫っており、気付けばその機会を逸脱していた。また、楓も軍での生活に慣れてしまい、結局残る事を希望して今に至る。
ただ、そんな日々に満足している楓だが、ふとした時にこうして近くの川の岸辺に来てしまうのだ。
ここは楓が流されて来た川では無い。
その川はずっと昔--もう今は無くなってしまっている。戦乱にて川は干上がり、大地は破壊されてしまったから。
というか、あれだけの大怪我を負って流れ着いたのだから、下手に過去をほじくり返さない方がよいかもしれない。
けれど、気付けばこうして岸辺に立っている。
まるで、何かを思いだそうとするかのように。
「そういえば、聞いた?」
「何が?」
果竪の言葉に、楓はキョトンと首を傾げる。
「ほら、この次の目的地。なんか、ある帝国に向かうらしいよ?」
「……帝国?」
「確か、苑舞帝国とかいう名前の」
苑舞帝国。
元は小さな小国だったが、戦に天才的な王が数代続いた事によって、周辺の小国や中規模国家を幾つも併合を可能とし、最終的には帝国と呼ばれるようになった大国だ。
ただ、先代と先々代は正しく愚帝。美しい者は手当たり次第という好色ぶりと、無能なのに戦好きの内政外政下手でだいぶ国力が下がり国全体が疲弊したという。しかも、かなりの浪費家だったからもはや救いようが無い。
特に、二代に渡る戦争費用と『後宮』費用で、財政は逼迫していたとか。
「なんか、今の皇帝陛下が即位してからはだいぶ良くなったんだって。あ、女帝陛下か」
先代はとにかく女好き--いや、美しいもの好きだった。男だろと女だろうと関係なかった。正妻だって何神も変えた。そうして最後の皇妃--皇帝よりも何周りも年下だったうら若き--それこそ成神前の皇妃が現在の皇帝--すなわち女帝として即位したらしい。
また、先代亡き後、上層部も少しずつ入れ代わり、先代皇帝の時の上層部は影も形も無いとか。
女帝が即位して、十五年。
十五年かけて、その女帝と新たな上層部は国を立て直した。もちろん、弱体化した国では好機と見た他国から戦をふっかけられた事もあったし、内乱だって幾つもあった。それらを全て抑え、国を守り、更には国力を回復させた帝国は。
「先代皇帝の時とは比べものにならないぐらい、強くなってるんだって」
衰退の一途を辿っていた帝国。
疲れ果てた国民達。
何度か膿を出す様な事件を見事に乗り越えた事で、女帝達の仕事を邪魔する者はだいぶ減ったらしい。その隙を突いて、国を平定し、回復させた国力は衰退や下降から一転して、ゆっくりと上昇傾向に転じているという。
むしろ、十五年であれだけ疲弊した帝国をここまで回復させた手腕が凄いとか。
しかも、財政もかなり持ち直し、最近では黒字決算になっているらしい。それには、帝国内で珍しい鉱石などの新しい豊富な資源と、それを加工する技術が発見されたからといっても良い。
「凄い国なのね」
「らしいよ。賢帝って呼ばれてるんだって。上層部も優秀な方達揃いだって話だし」
まあ確かに、愚帝と呼ばれていた無能な皇帝の代わりに国を立て直し、隣国の侵略から国を守り、反乱を治め、更には低下した国力を上げ、衰退を上昇へと転じさせたのだ。国民の生活も、十五年前に比べればかなり楽になったという。
そして、無実の罪や諫言したが為に逮捕されたり、幽閉されたり、追放されていた者達を解放し、地位や身分や財産を戻し、生活が成り立っていくように援助までしたのだ。また、生活苦から一家離散したり、奴隷商神に売り飛ばされ花街に売られていたり、奴隷として囲われていた者達も家族の元に戻されたり、新たな神生を歩む手伝いをしたそうだ。
ただ、ここまでになると女帝達の力では及ばない所が多く、女帝はある所に助けを求めたらしい。その結果、女帝は自分達に力を貸してくれたその派閥に忠誠を誓った。
その派閥は後に『天界十二王家』の一つ、『風家』と名乗るが、今はまだ誰も知らない事である。
そんなこんなで、愚帝の後始末を行い、なおかつ国を正しい道に戻そうと奮闘する女帝達の心意気に打たれ、真に国を思う者達がそんな彼女達を支持しているという。
まあ元を正せば、女帝や現在の上層部も先代の被害者とも言えるのだが。
しかも、彼等を解放した際に、女帝と上層部がそれぞれ正式に頭を下げ許しを請うたらしい。普通ならまず有り得ない。
また、それまで虐げられていた国土の一部--主に立場が弱く強引に併合された幾つかの元小国の民達の立場改善にも勤しんだとか。
そんな事もあって、あの帝国は幾つかの国からなるが、一枚岩に近い形となっている。
ただ、それらを十五年で行った女帝と上層部は、それこそ普通の能力や才能の持ち主では無いだろう。正に天才的な才能を持っていたとしか言いようが無い。
実際、その政治的手腕、軍部や財政その他様々な分野方面で彼等はその恐るべき才能と能力を発揮しているという話だ。
それに、女帝と上層部は、強大な神力と天才的な戦闘センスと技術を持っているというし。
なんかそれだけ聞くと、萩波の軍の者達にも当てはまる気がするが。もしかして、萩波が本物の『王』になったら、こんな感じだろうか。
とまあ--とにかく、そんな帝国が、当面の目的地だと言う。
「何か用事があるの?」
「う~ん、なんでもその帝国にある『秘宝』が必要なんだって」
それは、この先を進む為に必要な道具だと言う。実はこの先--その帝国を抜けて更に進んだ場所から先は、特殊な結界が張られており、神知未踏とされている。
そんな場所を通るには、その結界を解かなければならない。
しかしその結界は、特殊な『秘宝』こと『神具』でなければ開かなかった。
その『神具』を手に入れる鍵を、その帝国が持って居るのだと言う。
「なんか凄いのね」
「うん。だから、その帝国に付いたら暫くはそこに留まるみたい」
交渉の為に--。
苑舞帝国は、一つの小国から始まった。
そして現在は、十の小国と三つの中規模の国を併合して成り立っている国である。大帝国--というに相応しいかもしれない。
また普通なら、これだけの国が併合して一つの大きな国となって機能していくのは難しい事だ。だが、初代から五代目にかけての王は戦だけでなく、内政外政にかけても天才的だったらしい。問題は、その後は平凡な王、比較的優秀な王が四代続いた後、父親を殺した皇帝とその子供である先代皇帝が続いてしまった事である。
ただ、それまでに培った土台が磐石となっていた事だ。だから、二代続けて馬鹿皇帝でも、その次が優秀だった事で何とかなったのだ。
しかも、最初に国を併合して行った時に、ゆっくりと併合した事も功を奏したと言える。すなわち、全ては過去の皇帝達の偉業と、現女帝の努力である。
とはいえ、そんな帝国にも戦火は迫っていた。大きな戦力を天帝軍が目を付けない筈が無いからだ。
とはいえ、天帝軍に組みすれば自国の首を絞めかねないと偉大なる女帝は知っているのだろう。彼等は天帝軍と敵対する軍を幾つか引き入れ、休息の場として、または国土を通る事を黙認していた。そうして今回は、萩波の軍が国土に足を踏み入れる事を許した。
萩波の軍は、そのお礼として帝都に向かうまでの道程、山賊や盗賊の類いを討伐していった。他の軍も、そうやって何かかにかのお礼をしている。
帝国は豊かな穀物地帯を持ち、自国での食料自給率が九割近い。しかも天然の要塞は攻め込みにくく、もし戦えば確実に苦戦を強いられるだろう。
まあ、密かに結ばれた停戦協定が効力を発揮している内は、そんな事にはならないだろうが。
そして今回、萩波の軍は順調に進軍を続け、ようやく帝都に辿り着いた。国境から、馬や馬車を率いて一週間かけての行軍の末の事だった。
流石に一万を数える軍全部を帝都に入れる事は出来ない。
だから、軍の上層部とその関係者達のそれぞれ一部が帝都入りする事となった。
当然ながら、軍を率いる萩波は帝都入りするし、その補佐として明睡、明燐が向かう。茨戯と朱詩は留守番組だ。
他にも数神の上層部が同行する事となる。
「向こうから許可が出ています。物資の補給その他は済ませておいて下さいね」
とはいえ、いくら豊かな食料庫を有していようとも、一万の大軍の物資補給ともなればそれはこの帝国にとって少なからず負担になるだろう。
それ故に、萩波はこの国では手に入らない物資を引き替えにする予定でいた。実際、その方向で既に話が進んでいるらしく、後は向こうから物資が補給されるのを待つだけとなっている。
「果竪を頼みますね」
幾つかの指示をした後、果竪の事を配下に頼む萩波は正に夫の鑑だが。
「ええ、しばらくは身体をゆっくりと休める事が出来ますね」
凍える冷気を全身から放出する百合亜に、側に居た修羅だけではなく、その場に居た萩波以外の全員が目をそらした。
「百合亜、果竪を頼みますわね」
「もちろんです」
暫く離ればなれになるとして、果竪は数日前から萩波に寝台に引きずり込まれていた。おかげで、現在は熱を出して寝込んでいる。
普段はあれほど自分の感情、欲望、その他様々なものを完璧に制御していると言うのに。
「果竪が余りに愛らしくて。涙目で見上げる姿はなんとも言えません」
それ、怯えて泣いているだけだ--と明睡達は思ったけれど、それ以上は言えなかった。
「あまり盛らないで下さい。果竪はか弱いんですから」
元々は元気いっぱいだった少女は、この若い夫の相手をさせられるようになってからは度々寝込む事が多くなった。それだけの負担が果竪にかかっているという事は分かり切っているというのに、この困った男は。
「はいはい。頑張って仕事に行ってきます。無事に終わったらご褒美を」
「萩波」
百合亜の絶対零度の声に、隣に居た修羅が怯えた。これは本気で怒っている。
「全く、貴方はいつもながらお堅いですね」
「そうさせているのは誰です」
「さて--」
萩波はクスクスと笑いながら、小首を傾げた。
そうして彼等は帝都へと向かった。
萩波の軍の大半は帝都の外で待機する。とはいえ、水場も近いし、すぐ近くに帝都の門があるので生活には困らなかった。
というのも、帝都に軍として駐在する事は無理だが、買い物などで出入りするぐらいは許可されていた。
それに、気分転換として帝都を楽しむ事も許されている。
今回、交渉には少なくとも十日はかかる。
だから残った上層部は交代で軍の者達を気分転換させる事とした。最初は年若い者達を--と、数神の保護者役の者達と共に帝都へと向かわせた。
その中には涼雪、小梅、葵花が含まれており、楓も保護者役として同行した。ただ、楓は顔の火傷のせいで今まで幾つもの滞在先の村や町、国では多くの悪意に晒されてきた。勿論、火傷に気付かれずに事なきを得た事もあったが……やはり、全体的に見れば火傷のせいで嫌な目にあった事の方が多い。
しかし楓は、ある意味顔の火傷に関して諦めている部分というか、諦観かつ達観している部分があり、「笑いたければ笑え、馬鹿にしたければしろ」と言う部分も持ち合わせていた。だから、逆に周囲の方が気を使って拠点に留まる様に提案する事も多い位だった。
普通なら、火傷にコンプレックスを感じて引きこもってもおかしくはないと言うのに。
ただ、いくら諦観していても、顔を隠す様にフード着きの外套を纏っている。
その代わり--ではないが、果竪は留守番だった。まだ熱が下がっていないからだ。既に萩波達が帝都入りして三日経つので、今回は少し長引いていると言える。
そんな果竪に栄養のあるものを--という買い出しも兼ねてのお出かけだが、久しぶりの自由行動に年若い少年少女達の気分は浮き立っていた。
「いい? 迷子にだけはなっちゃだめだからね」
朱詩の注意に、彼等は頷く。
そうして、彼等は意気揚々と帝都の門を潜り抜けたのだった。