風の娘は危機に陥り、軍と帝国は会談する
そんな襲撃よりも二時間程前、萩波は明睡と明燐、他数名の側近達を連れて苑舞帝国の帝宮を訪れていた。あれから中断していた会談を再開する為だ。
しかし、約束は取り付けて来客用の宮殿を訪れたものの、なかなか皇帝は訪れなかった。出されたお茶も三杯目。普通なら軽く見られたと激怒して立ち去る所だが、萩波はその三杯目も優雅に口を付け、出されたお菓子を摘んでいた。
そして類は友を呼ぶ、部下は主に似る。明睡達もそれぞれ思い思いにくつろいでおり、ある側近に至っては、すやすやと眠ってさえ居た。
「ああ、早く終わらせて果竪に会いたいですわ」
「俺のお姫様はそればかりだな」
「当り前ですわお兄様! もちろん、涼雪にも会いたいですわよ」
明燐は頬に手を当て、もう片方の手で机にのの字をかきながら未来の義姉候補の名を口にする。
「涼雪、にもか?」
「もちろん! だって、涼雪はお兄様の」
「うわぁぁぁあああああっ!」
顔を真っ赤にして叫ぶ明睡は男達の欲情を激しくかき立てる程に可愛らしく色っぽかったが、側に居た他の側近に「煩い!」と頭を叩かれた。
一応、明睡の方が地位は上だが、恋する男としての地位はかなり下である。涼雪の事で錯乱した明睡には実力行使が許可されていた。
「いてぇ……何するんだお前っ」
「煩い、一々騒ぐくらいならとっとと告白でも手込めでもしろっ」
手込めは駄目だろう--というツッコミをする者はここには居ない。自分達もされてきたと言うのに。しかし、それが日常的だった為か、それも手段の一つとして--というか、そういう風にするもんだという間違った常識がまだまだ横行しているのだ。嘆かわしい限りである。
「そうですわお兄様! 『この俺に全てを任せておけ、天国に連れて行ってやる』ぐらい言えませんとっ」
「いえ、それは明睡が言うと実際的な『冥府行き』になってしまいますから」
萩波が思わずツッコミを入れた。明睡なら、武力的にも、そういう方面でも相手を潰せるだろう。というか、後者--涼雪の腹上死は見たくない--いや、涼雪なら腹下死になるか。
「お兄様?! 涼雪を死なせるつもりですかっ?!」
「何でだよ! そもそも俺はそんな事は言ってないしやろうとも思わない!」
「何ですって?! お兄様、涼雪には襲いかかるだけの魅力もないと言いますの?! なんて酷いっ」
「ちがっ! ってか、襲いかかったら駄目だろ?! しかも涼雪は十代前半で」
「萩波に比べれば断固マシですわ! 涼雪は十三歳ですもの」
十二に比べればマシかもしれないが、手を出した時点で鬼畜最低ロリコン野郎の称号は免れまい。
「それとも、女の魅力ムンムンな三十まで待ちますか?」
「三十まで涼雪が無事なわけないだろ!!」
良い女はさっさと手を付けられるという法則からすれば、絶対に三十まで涼雪が無事だとは言えない。むしろ、下手すれば成神前に誰かと結婚してしまうかもしれない。
「……俺、俺が成神」
「また先の長い気の遠くなるような話ですわね」
ただ、明睡が成神したならば涼雪もそれなりに年齢を重ねている。むしろ、明睡は男としても神としてもかなり紳士だと言えるだろう。
そんな事を話しているうちに、先触れがやってきた。
「皇帝陛下がお越しになります」
やってきたのは、淡いラベンダー色の瞳と髪を持つ青年だった。いや、見た目は美しい女性そのもので、大輪の蘭の花を思わせる様な妖艶系の美女だった。
「それは良かったですよ、右宰相閣下--」
萩波の言葉に、右宰相と呼ばれた彼は、艶やかに微笑んだ。
苑舞帝国には、皇帝の下に二神の宰相が居る。
一神は右宰相と呼ばれ、政治関係--内政を司る長たる存在で、もう一神は左宰相と呼ばれ、軍関係--軍事を司る長たる存在だった。
この他に、外政を一気に引き受ける長が居るが、こちらは宰相とは呼ばれず『外務長』と呼ばれている。
この三名が、主に国政の三大トップであり、皇帝陛下の三大懐刀でもあった。
因みに、一番愛想が良いのがこの右宰相閣下で、無愛想なのが左宰相閣下だ。外務長はその中間。普通は外務長が一番愛想が良いと思われがちだが、実際問題として外政はただ愛想が良いだけでは勤まらない。内政、軍部も同様ではあるが、外務は相手に合わせてその表情と対応を変えなければならない。
また、本来であれば萩波の軍との会談は外務長が関わり、采配を振るう。それは萩波の軍が他国という扱いに等しいからだ。
そして実際、前回は外務長が来ていた。
「外務長はお忙しいようですね」
「ええ。色々と」
そう言うと、右宰相は自分が入ってきた扉に手をかけ、スッとその扉を押し開いた。と同時に、控えの間の向こう--外に繋がる奥の扉が開かれた。
サラサラと衣擦れの音を立てて、それは美しい集団が入ってきた。
魔物は忠望達とにらみ合いを続けた後、リーダー格の魔物の咆哮と共に襲いかかってきた。しかし、忠望達とぶつかったのは数体で、他は果竪達へと向かおうとした。
「行かせないよ」
修羅は数本のメスを取り出すと、自分達に向かってきた魔物を忠望に任せて、自分は果竪達へと襲いかかろうとした魔物へと投げつけた。
空を切り裂き、深々と体へと突き刺さったそれに、魔物達は悲鳴を上げる。
しかし、修羅のメスは全てに突き刺さったわけでは無かった。一本、一本だけ弾かれた。
その魔物の本来刺さる筈だったその体は、修羅の目から見ても変化していた。
「硬質化?」
それはメスが刺さるはずだった一部分だけだったが--その魔物には有り得ない現状だった。だが、悠長に考えている暇は無かった。
その魔物は一直線に果竪達に向かうと、その牙を剥いた。
「ちっ! やるしないわねっ」
茨戯が葵花を朱詩に任せ、それと相対した瞬間だった。
「きゃあ!」
「楓お姉ちゃんっ」
茨戯の背後を凄まじい突風が吹き抜け、その風圧に思わず前に倒れ込みそうになるのを必死に踏ん張って堪えた。そして振り向くまではそれ程時間は経っていなかった。
だからこそ、見てしまった。
その魔物の前足で踏みつけられた楓、そして口にくわえられ振り回されている果竪の姿を。
ぶらぶらと揺れる手足。
そこを伝う赤い血。
ガクガクと揺れる頭。
茨戯は声にならない悲鳴を上げた。
「果竪っ」
朱詩はすぐに動きたかった。しかし、自分には任された葵花と、小梅、涼雪が居る。それに、菖蒲達も居た。
瞬時に張った結界に、別の魔物の個体がぶつかっては結界を揺らしていた。朱詩が動けば結界が崩れる。そうすれば、ここに居る者達は確実に殺られてしまう。
「朱詩、良いから結界を解いて!」
「馬鹿を言わないで! そんな事をしたら危険になるのは小梅だけじゃないんだよ?! それに、苑舞帝国の侍女達に怪我でもさせたら外交問題に発展するんだよ!!」
少なくとも、うちの軍は一つの国として見られている。たとえ、一軍に過ぎなくとも、軍の中では大軍と言われていようとも、所詮は国土というものを持たない流浪の軍に過ぎないが、苑舞帝国は『国』として見なしている。だから、確実に外交問題に発展してしまう。
「だからって、このままじゃ果竪と楓がっ」
「それに結界を解いたからって二神を取り返せる可能性は低いんだよっ!」
「なんで!」
「果竪は魔物の口にくわえられてるし、楓は前足で押さえつけられてる! 今の状態で結界を解いてお前らを安全な場所に移してから動けば時間がかかりすぎるし、その前に嚙み殺されて踏み殺されるっ!」
朱詩の言う事は最もだった。
果竪を見れば、むしろ噛み殺されていない方が不思議だった。だが、それは向こうが敢てそうしないようにしているというのが分かる。
つまり、殺ろうと思えばいつでも殺れるのだ。
「朱詩君! 私達の事は構いません! 少なくとも、私と葵花ちゃん、小梅ちゃんは--私が守りますっ」
「無理!!」
朱詩は涼雪の申し出をバッサリと切り捨てた。
「それに、苑舞帝国の侍女達はどうするんだよっ」
こちらこそ、傷一つつけられない。
しかし、まるでこちらの動きを封じるように体当たりをかましてくる魔物の突進は凄まじく、朱詩は苦々しく舌打ちをした。
「こいつら……別の個体か?」
修羅と忠望達である程度は足止めしたし、茨戯も足止めの為に動いた。そこで群れの大多数--いや、ほぼ全個体が足止めされた筈なのに。
群れはざっと見ても十体居た。
いや、もしかしたらこちらが見誤ったか?
隠れているのに気付かなかったのか?
だが、そんな事をノロノロと考えている暇は無かった。
「楓様!!」
菖蒲の叫び声が響く。
目の前で魔物に襲いかかられようとした楓は、その牙に捉えられる事は無かった。代わりに、将軍夫神が魔物に咥えられ、それを追いかけようとした楓は魔物の前足によって地面に叩き付けられ、上から押さえつけられてしまった。
慌てて駆け寄ろうとした菖蒲だったが、彼女達を守るべく発動された結界がそれを阻んだ。結界を解除して欲しいと頼もうにも、新たに現れた魔物の襲撃がそれを許さない。
結界の障壁一枚の向こうで、楓が苦しんでいる。必死に自分を押さえつける魔物から逃れ、将軍夫神を助けようと手を伸ばしていた。
無理なのに--
「か、果竪……」
血にぬれた手を伸ばし、楓は振り回され続けている果竪へと手を伸ばした。届くはずが無いと分かり切っていた。
それでも、自分の身代わりに魔物の牙を受けた彼女を何とかして助けたかった。
しかし、そんな楓の気持ちを嘲笑う様に、魔物は楓を踏みつける足に力を込める。ギシギシと体が圧迫を受け、骨が軋む。
このままでは、もう持たないだろう。
内蔵を潰され、大量の血をまき散らしながら楓は潰される。
だが、それがどうした?
楓は体の圧迫感をものともせず、果竪へと手を伸ばし続けた。
「……果竪」
助けたい、助けたい、助けたい。
果竪を取り戻したい。
伸ばした手が届かなくても。
助けたい相手が遙か遠くに居ようとも。
助けたい。
この魔物を潰したい。
今までにも、命の危険がある様な事態には何度も遭遇した。魔物だけではない。天帝軍や盗賊達、奴隷商神達の奴隷狩りにも遭遇した。
周りは守ってくれたけれど、それでも毎回とは行かなくて。
何度も死にそうになった。
だけど、その中で今は一番まずいという事は楓にも分かった。先の帝都での襲撃、拠点の急襲、それよりもこのままでは取り返しが付かない事になるだろう。
「果竪……」
忠望と修羅は動けない。
茨戯と朱詩も動けない。
誰にも頼れない。
ワタシガヤルシカナイ
いつもの事ではないか。
「……あ、ぐっ」
体に力を入れると、それが気に入らないと言わんばかりに魔物の足に力が入る。
「く、ぅっ……」
一度ある事は二度ある。
二度ある事は三度ある。
しかし、三度目の奇跡はどうやら起こらなさそうだ。
「お断り致します」
「……」
長い黒髪に薄い青色の瞳。
白髪紅瞳の萩波とは正反対の様な色合いを持つ相手こそ、この苑舞帝国の皇帝だった。身に纏っている衣装は女物とも男物とも取れるものだが、その清楚ながらも艶治な美貌は老若男女問わずに手に入れたいという気持ちにさせられるだろう。
なるほど、これでは前皇帝陛下殿がどんな手段を用いても手に入れようとする筈だと、萩波は相手を一目見た瞬間からしっかりと悟った。
腰まで伸びた艶やかな黒髪は、元々は腰下まで伸びていたという。それは、綺麗に結い上げられ、花の簪が挿されていた。
白く滑らかな肌は思わず相手の目を釘付けにし、紅く濡れた唇が動く度に周囲の意識を惑わせていく。
極上の美女という言葉が相応しい。
萩波とそう年齢は--いや、皇帝の方が年上だが、子供と大神の間の年頃だけが持つ危うい美しさは、なるほど。確かに苑舞帝国一の美女であり、また歴代皇妃の中で最も麗しいと言われるだけの存在である。
というか、女帝と言うよりは、むしろ強く美しく逞しい皇帝陛下の隣に立ち、多くの家臣達に守られていた方がどう見てもお似合いな容姿だった。
深窓--いや、聖域の奥深くに住まう巫女姫にも似た様な穢れ無い美しさと麗しさは、一種の儚い美を感じさせた。
数多の男達が前皇妃を巡って、相手を手に入れられる皇帝の地位を狙ったのも激しく理解出来た。例え、危険と重責がつきものの厄介な皇位とはいえ、前皇妃を手に入られるなら、得られる物の方が大きいだろう。
それに、前皇帝の『後宮』は美しい花々揃い。それも丸ごと手に入れられるとなれば、どんなリスクがあろうとも男達は争うはずだ。
いや、女達も争いに加わっていたと言うから、その争いは凄まじい物だった。
そうして他者を惑わす美しさを持つ皇帝と相対し、萩波はにこりと微笑んだ。
まあ、他者を惑わす美しさは……自分の軍にも多数居るか--と。萩波を筆頭に、古参メンバーやそれに準ずる者達の多くが、他者によって全てを奪われてきた。
それを考えれば、今目の前に居る皇帝や、その側近達--上層部達と、萩波の軍はなんら代わり無い。
向こうもそう思っているのだろう。
帝国は歴史のある国だが、皇帝陛下は玉座に座ることなく、こうして同じテーブルについている。段の高い場所から見下ろすのではなく、同じ高さで。
すなわち、同等と見なしている。
歴史在る帝国が、たかが一軍を。
しかし、だからといって皇帝の要望を萩波は応えるわけにはいかない。
「そなた」
皇帝が口を開いた。
しっとりとした美声は、聞く者達を陶酔させる程に甘やかなものだった。
「ならば、どのように言えばそなたはあの娘を連れてくる?」
「どのようにも何も--私は、本神の意志を無視して勝手に楓をやりとりするつもりはありません。言ったでしょう? 本神の意志を無視してその身柄をやりとりする等、奴隷商神そのものだと」
「国では、国の為に身を捧げる者達は多い。政略結婚などはその最たるもの」
「政略結婚? 誰とさせるつもりですか?」
「……」
「ええ、貴方は世間には女帝として広く知れ渡っていますが、貴方の『後宮』には男女問わず美しい花々が咲き誇っている。だから、女帝が女性の妃を娶ってもなんら問題はありません。ええ、妃ならまだ良い方でしょう」
下手すれば、地位も身分も無い囲い物である。
「神質は仕方在りません。しかし、せめて客神扱いの神質としての扱いを確約して下さるならまだ話も違いますが」
そこに話を持っていけば平行線になる事は萩波も理解していた。この皇帝、客神扱いとなると口を閉ざすのだ。
客神扱いの何が悪いのか?奴隷扱いなら頷くのか。
いや、奴隷と言うよりはむしろ--。
「皇帝陛下」
「なんだ」
「貴方様の正妃候補はそれはそれは美しい姫君と聞きます。確か、前皇帝の末皇女だとか」
女帝の正妃候補が皇女。
同性愛を疑われる事態だが、この皇帝の場合は実質的な部分では違う。女帝は女帝でも--。
それに、新しい政権の、先代までと血の繋がらぬ皇帝が先代の遺児又は血筋の姫君を娶る事はよくある事である。
すなわち、それまで続いた王朝の姫君を妻にする事で、自分が正統なる皇位継承者である事を知らしめる。
まあ、皇帝が真に女帝であれば姫君ではなく王子又は皇子がその役目を与えられるが、目の前の皇帝は違う。世継ぎの面からしても、皇女を妻に迎えてもなんら問題は無いし、むしろそうでなければ世継ぎは産まれない。
そうして正式な正妃候補、しかも皇帝が今後国の舵取りをスムーズに行なう為には、何が何でも正妃にしなければならない前皇帝の末皇女が居る中、何故ここまで楓に執着するのか?
周囲は末皇女との婚姻を望んで居ると言うし、現在の皇帝陛下に敬愛し心酔する者達になればなる程、その思いは強い。
そこに、たとえ大軍とはいえ、たかが一軍から差し出される女性たる神質にそこまで執着する等--。
とはいえ、この場合は男であっても問題だろう。女帝の『後宮』には男達も居るし--美男美少年、男の娘と色とりどりだが。
「前皇帝の皇女--」
「ええ、貴方の王朝を維持するには必要な存在です。それに、前皇帝の子息はもう、彼女しか残っていない筈です」
前皇帝には皇子も皇女も沢山居た。
しかし、前皇帝は戦好きだった事からまず皇子達を戦に投入して戦死させ、それ以外は謀反の疑いやら逆らったやらで処刑した。皇女は貴族に降嫁させたり、他国に嫁がせたりしたが、その貴族が処刑される時に一緒に殺したり、他国を滅ぼす時の捨て駒にして死なせたり、他には--自分の欲望を発散させる道具として利用し、自害した者達も多かったという。
そうして最後に残ったのは、二神の皇女だった。
今生きている末皇女ともう一神。
末皇女は前皇帝が前皇妃を迎える前--最後の寵姫と呼ばれた側室の娘で、亡き側室にそっくりだったという。前皇帝は亡き側室の代わりとしてこよなく愛した。
そしてもう一神--その皇女は、寵愛を失った正妃の娘だった。すなわち、皇帝と亡き皇妃の、最も皇位継承権に近い存在だった。
苑舞帝国では男の皇位継承権が優先されるが、女でも継げないわけではない。むしろ、生きていればそちらを目の前の皇帝は妻にと望んだ筈だ。
しかし彼女は十五年前--前皇帝から現皇帝に政権が変わる境目に亡くなったとされている。それも、彼女は親殺し--前皇帝を殺害した大罪神とされていた。
いや、彼女が手にかけたのは前皇帝だけではなく、前宰相や主立った上層部を殺害している。
その罪から、彼女は追われ、そして自ら命を絶ったと--。
ただ、その話はある時から変化を見せた。
国民にまで知れ渡った大罪神は、実は国を憂う憂国の士であったと。
彼女は狂った前皇帝に食い物にされる帝国と民を憂い、自らの命をかけて前皇帝に諫言し続けた結果、処刑される事になった。しかし、それでも国の為に声を上げ続けた彼女は、遂に国を腐敗させる根源を手にかけ、そして全ての罪を背負い、また前皇妃に全てを任せて命を絶ったと--。
実際、彼女が前皇帝達を殺害し、新たな政権になった後は帝国は恐ろしい速さで復興を始めている。搾取の限りを尽くされ、疲弊した民達は最低限の衣食住を素速く保障され、また最悪だった治安も改善されていった。
前皇帝の横暴さは誰しもが知っていた。
『後宮』の妃達や、上層部の妻妾達の多くがどこからか連れ攫われてきた者達である事も知っていた。
民達に、前皇帝達の魔手が伸ばされる事も度々あったからだ。
貴族達だって奪い取られる者達が居たし、取り返したくてジタバタとしていた者達も居た。いつか……と機会を窺っていた者達も居た。
そして前皇妃が、言いがかりで滅ぼされた--いや、前皇妃を奪う為に国を滅ぼされ、連れて来られた被害者である事も知っていた。
知っていたけれど、誰もが何も出来なかった。何もしなかった。しようと考える事すら難しかった。
無気力--それがどれだけ恐ろしい事か、考える事すらも出来ないのが一番の恐ろしさだった。
そんな中で、彼女は唯一行動した。
前皇帝は自分の末娘すら殺そうと企み、その皇女は守ろうとした。帝宮に勤めていた者達は、皇女が自分の妹を守ろうとしていた事を知っていた。
そんな彼女は、全ての膿を取り切る事は出来なくても、大本の膿と共に果てた。
だから大罪神だった存在は一転して救国の士と呼ばれ、今ではその存在は尊敬と敬愛の象徴とされていた。
彼女が居たから、前王朝は倒れた。
彼女が居たから、現王朝は建った。
彼女が居たから、帝国は今も存在し、民達はようやく豊かではなくとも生活出来る様になった。
彼女が生きていれば、彼女こそが現王朝の皇帝の正妃となっただろう。
しかし彼女は死んだ。
もし彼女が命を自ら絶たなくても、あの時点ではすぐそこまで処刑が迫っていた。
だから結局は、その皇女は死ぬしかなかった。それが他者の手によるものか、自らの手によるものかの違いだけで。
当時、まだ政権を握っていなかった現皇帝にも、彼女の運命を変える力は無かっただろうから--。
萩波はこれまで苑舞帝国に入る前から今までに集めた情報を整理しながら、ふとそれを思った。
確かその皇女の名前は何と言っただろうか?
「楓円皇女--」
小さな呟きに、皇帝がピクリと反応した。
誰からも顧みられず、孤独な皇女だった。
前皇帝を恐れ、ただ帝宮の隅に追いやられ、誰からも妻として求められる事も無く--。
名前負けした皇女--。
その時、萩波の視界の隅で皇帝が口を開こうとするのが見えた。
しかし、結局それが音となる事は無く、荒々しい足音と共に室内に駆け込んで来た相手によってそれどころではない事態となってしまった。
「申し上げます! 帝都付近で魔物の襲撃がありました! 場所は、帝都側に滞在する『天界反乱軍』の拠点の側です!!」
また、か--。
だが、次の瞬間、萩波の顔から血の気が引いた。
「被害も出ているようで、二名が重症--どちらも女性で、片方は幼い少女、だそうです」
何故か果竪の事が脳裏に浮かんだ。と、その時--萩波は懐に異変を感じて、それを取り出した。
それは、果竪とお揃いで揃えた腕輪だった。
それに罅が入って--そう認識した次の瞬間、それはパキンと音を立てて割れた。
砕けた欠片が、地面に落ちていくのを萩波は言葉無く見つめたのだった。




