澱んだ世界で歪な愛を語る
『シンジャエ』
天使のように愛らしく笑った少女の唇が動いた。
その笑顔から生まれてはいけない言葉。
それを彼女はいとも容易く口にした。
お前は要らない、お前は邪魔だ、早く早く早く早く早く死ね。
死ね死ね死ね死ね死ね死ね。
美しい彼女から湧き出る感情は黒。
憎しみ、嫌悪、憎悪、死。
早く居なくなっちゃえばいいのに。
何故そんな感情を向けられるのか、身に覚えがないわけではなかった。
彼女の世界に触れようとしたからだ。
天使のような彼女の世界は、一人の幼馴染みで構成されているのだ。
彼女とその幼馴染みの二人きりの楽園。
それこそが彼女にとって唯一無二の掛け替えのない、絶対的な存在の彼女だけの世界。
その彼女の世界に自分は触れた。
彼女の大切に触れてしまった。
幼馴染みはキョトンとした顔で自分を見て、小さく首を傾げていたのを今でも覚えている。
彼女が愛らしい天使だとするのなら、幼馴染みは聡明な女神だろう。
読みかけの本を閉じて自分の微笑みかけた姿は正にそれだった。
それ以来彼女は自分を敵視する。
幼馴染みを見ていても彼女を見ていても、あの愛らしい笑顔を向けて自分が死ぬことを望む。
『シンジャエ』
その唇の動きが頭から離れずに、人目を避けて裏庭に出てきた。
上着のポケットから出した文庫本の表紙を指先で、確かめるように撫でてみる。
僅かに浮き上がったタイトルを指先で感じる。
「その本、僕も好きだよ」
くすりと小さな笑い声。
ハッとしてしゃがみ込んでいた体を起こし、声のした方へ顔を向ける。
斜め前の校舎の窓から小さく手を振る少女。
彼女の大切な幼馴染みだった。
女の子であるはずのその子は自分の事を僕と言う。
「ありきたりな話だけれど、それには沢山の自己解釈が生まれる」
窓に腕をかけて自分に微笑みかける彼女は美しい。
物語の美点や伏線について語る彼女の瞳は優しかった。
そして自分の視線に気付いてあっと声を上げる。
口元に手を当てて笑いながら「喋りすぎちゃった」と笑う彼女。
それはきっと彼女が求めているものなのだろう。
じっと見つめたままの自分を見て彼女は困ったように眉を下げる。
儚くて触れれば壊れてしまう繊細なガラス細工のよう。
「ごめんなさい。あの子が失礼な事ばかり」
あの子とは幼馴染みのことを指しているのだろう。
今度は自分が眉を下げる番だった。
「僕が言って聞かせるよ」
天使のような彼女はいつも本当に愛らしい。
間違っても人に敵意をぶつけるようには見えないんだ。
自分に敵意をぶつけるのは、自分が彼女の世界に足を踏み入れたからで触れたからで、全ては自分が悪いのだ。
そんな自分の考えを感じ取ったのか、目の前の彼女は首を横に振った。
彼女がいる教室は図書室で背後には大きな本棚が並べられている。
教室には彼女しかいないようで彼女は机の上に本を積み上げていた。
「あの子も悪気はないんだよ。と言うか原因は僕だろうしね」
くすくすと鼓膜をくすぐる笑い声。
彼女はいつも目の前の幼馴染みに悟られないように、自分を睨みつけていなかっただろうか。
いつも彼女が見ていない時に、小さな毒を吐いていなかっただろうか。
「幼馴染みの事さ、分かるに決まってる」
二人は本当に深い絆で結ばれていることがわかる。
だとしてもその憎悪や嫌悪の対象が、よく自分だと分かったと感心してしまう。
それもきっと分かるに決まってる。で帰ってくる答えなのだろう。
彼女の世界は幼馴染みではないんだろうか。
小さな疑問。
彼女は最後に耳元で囁くのだ。
「彼女の世界が僕ならば、僕は彼女を彼女の世界を守る騎士さ」
優美に美しく神々しくもあるその笑顔。
バイバイ、と振られた手。
夢心地のまま自分も手を振り返す。
校舎に戻る寸前、図書室を覗けば天使のような彼女は女神のような彼女の頬に口付けていた。
誰もいない図書室は二人だけの空間で、そこはこの世界から隔離されているように美しかった。
天使の皮をかぶった小悪魔は幼馴染みを閉じ込めようとする。
それを知っていながら幼馴染みと彼女は甘んじて受け容れる。
彼女と目が合うと覗いていた事がバレたのに、小さな笑みを漏らしていた。
女神もまた澱んだ世界に溶け込んでいるらしい。