前編:書かれた世界と現実の世界
―――茜色の世界が、目の前に広がっていた。
世界が煌々とした夕日によって暁に染め上げられていく。小高い丘から眺めていると、それがじわりじわりと地平線まで紅色に染め上げていく様子を観察できる。
紅い太陽が沈んでいく。少しずつ、少しずつ。どうやら僕が向いているほうが西らしく、太陽とお見合いするような形になっている。ふと後ろを振り返れば、東から紺色の世界がゆっくりとやってきた。うっすらとした満月が浮かんでいる。
歩き疲れた体から力を抜き、どさりと腰を落とす。後ろからザザザと風に乗って草原の歌が耳に運ばれてくる。冷たいそれは、すぐに寒くなると教えてくれた。
ずっと続けていた旅。誰かに会って、誰かと別れて、何かを探して、何かをなくして。
旅を続ける意味なんてあるのだろうか。こうも静かな場所で一人でいると、どうしてもそんなことを考えてしまう。その答えさえ知っていれば、僕は今のように空っぽな気持ちを抱えて、こうもうじうじと悩んでいたりなどしないのだろう。
前から来るあったかな光と、後ろから来る穏やかな闇。どちらにでも慣れる空が、どうしようもなく羨ましく感じた。僕ら人間は、空のように気分で自分の色を変えることなんてできないのだから。何を目指して、何を探して、何を笑い、何を悲しみ、何をしたのか。今までの過去や、これからの未来が、どうあがいても自分は自分だと固定させてしまう。お前の色は何色だと、突きつけられてしまう。しかもそれが十割合ってるなんてわけでもなく、失敗につながることだってある。なんとも面倒なものだと、小さく息を吐いた。どうしたら正解なのか、どれがいい選択なのか。未来の見える神様でもなければ、そんなものは分からない。誰か教えてくれよ、百点の解答を。そんな言葉が誰に届くというのだ。皮肉は自分に向けるものではない、どうしても寂しくなってしまうから。
紺から黒へと変わり、ポツリポツリと顔を出し始めた小さな星々たち。
いつの間にか夕焼けが向こう側へと過ぎ去り、変わりにはっきりとした月が満天の星空の中にいる。
食料も何も準備しないまま、腕を頭の後ろで組み、柔らかな芝生のベッドに倒れこむ。静かな草の歌とともに、鈴虫の鳴き声。
届かないとわかりながらも、つい星へと手を伸ばす。ああ、こういうときに空を飛べたらなどとないものをねだってしまう。無いもの強請りは人間の悪い癖だと、苦笑した。
でも、こうやって届かないものを、きれいなものを眺めるというのも、決して悪いことではないなと、私は苦笑を納め、目を閉じた。
まるで慰めてくれるように顔を撫でていく夜風が気持ちよかった。
@
「んぁ」
―――と、そこでボールペンは止まり、無意識に止めていた空気を吐き出し、空名志紀は顔を上げた。
「……あぁ、現実だなこりゃ」
ゆっくり右、左と見て、次いで自分が書き連ねていたノートに視線を落とし、気だるそうに呟く。ここは自分が描いていた自然に満ちた広い世界などではなく、二十人強の少年少女が押し込められ窮屈な思いをする教室で、窓から見える景色は夕焼けでもなんでもなく、今にも雨が降りそうな曇天で、夜になったとしてもネオンや街頭のせいで星空なんて見えやしない。果てには自分は旅人でさえもなくただの高校二年生の普通の少年。どこまでも厳しい現実だと再びため息をついた。開いた窓から入り込んでくる隙間風が哀愁さを加速させる。
ホームルームなんてものはとうに終わり下校時刻になっている。残っているのは休み時間や昼休み、授業時間さえ使っても話し足りない同級生たちだ。
適当な机に腰掛けて話してたり、本来持ち込み禁止のケータイを堂々といじっていたり、黒板に謎の生命体を描いていたり。窓際の一番後ろの席にいる志紀はぼんやりとその様を眺める。。
どこまでいっても、都合のいいことなんて起こらない現実であった。頭の中の空想と肌で受け取る現実感のギャップは体を重く感じさせた。長く伸ばした前髪の隙間から見えるノンフィクションを憂鬱に感じてみる。
「なあ志紀、面白い話持ってきたぜ!」
そんなアンニュイな気分に浸っていた志紀は、後ろからいきなり肩を叩いてきた人物に視線だけ向ける。パーマをかけた動きのある髪型の同級生。一年の頃は同じクラスで、二年では違うクラスとなりながらも交流が続いている友人、唐草雅だ。いつもニコニコ、というよりニヤニヤしている表情が目立つ男だ。
「どうした唐草」
「ノンノン、唐草じゃなくて雅って呼べといつも言ってるだろ!」
「どうした雅」
ニヤニヤ度合いを深め、メトロノームのように人差し指を左右に振る彼に対し、即座に呼び名を変える志紀。このやり取りは別に初めてというわけではなく、一年の頃から続けられている恒例行事みたいなものだ。
こうして本日三度吐いたため息も、いつものことである。
「実はな、実はな!」
小声で興奮を抑えるように、叩いた肩に手を乗せて耳元に口を寄せる。男同士で少々気持ち悪いが、これも慣れてしまったものだ。
「陰無さんが、また告白されたんだ!」
「はいおつかれさん」
何一つ躊躇うことなく、志紀はぎゅっと握ったボールペンを肩に置かれた左手の甲にブスリと突き刺す。アッー!と誤解されてしまいそうな悲鳴を上げ手を押さえて飛び上がる雅へ、ゆっくりと体の向きを整え前髪越しに冷たい視線を向ける。
「何してんだか」
「お前が何してんだよ! いきなり突き刺しやがって、そんな面白くなかったか!?」
「ああ」
「即答!」
頭を抱え、Oh shock!! などと無駄なオーバーリアクションを入れる雅に、四度目のため息。
自称「情報屋」なんてものをやっている雅は、その名のとおり学校や、この町の多くの情報を握っている。憧れのあの子が誰を好きで誰が嫌いだとか、迷子になった犬猫の事件だとか、不良のたまり場とか、この学校の全校生徒のちょっとした個人情報だとか、極めつけにはいわゆる裏関係についてのことだったりとかが、こいつのスマートフォンの中に多く眠っている。ちょくちょくその情報を売買することで小遣い稼ぎなんてやっている。時たま警察にまでそういうことをやっているのだから、大したものである、という皮肉。
ちょくちょくそういった『仕事』に巻き込まれ、いろいろと巻き込まれたりするのだが、まあ、それはいい。
「過程も概要もわからないのにどうしろと」
「せめてお前はクラスメイトの名前を覚えなさいな」
「お前みたいにメモでもしてりゃ覚えるさ。しないけど」
「いろんな名前があって面白いぜ? 俗に言うDQNネームってやつとかな」
と言って、ポケットから取り出したスマートフォンをアピールする雅に五度目のため息。
「っと説明だな、任せろぃ」
無造作に隣の席に腰掛けスマートフォンをいじり、表示されたまとめ情報を読み上げる。
陰無ひなた。
同級生で志紀のクラスメイト。挨拶とかそういった程度しか話したことのない志紀は、フルネームを聞くまで顔を思い浮かべることができなかった。
肩のラインまで伸ばし、いまどき珍しく染めていない艶のある黒髪の少女。写真を見る限り小顔の童顔で可愛いという表現がぴったり。アクセサリー代わりなのか、左手首に様々な色の髪ゴムを多めに巻いている。身長百五十五センチと志紀より十五センチ低い。体重まで調べようとしたが妙にガードが固くて把握できなかったとのこと。
いろいろと事情あっての母子家庭。成績優秀の優等生、運動は平均レベル。部活にも委員会にも所属しておらず、アルバイトもしているわけでもない。友人付き合いはそれなり。よくいろいろな相談をしているとか。その可愛らしい容姿から人気もあり、一度彼氏がいたことがあるらしいが一ヶ月で別れ、以来誰からの告白も受領してないという。
「な、な! 気になるだろ! なんで誰とも付き合わないのかって!」
「そこまで気にすることか? 自分の気に入るタイプがいなかったってだけだろ」
告白されたから試しに付き合う。それは恋に恋する思春期ゆえの行動か、恋愛がどういうものか分からないからか。挨拶程度しかしたこともなく印象は小さいものの、志紀から見た陰無ひなたは少なくとも前者には思えなかった。後者かどうかと考えるには、それこそ会話が少ないを通り越してなかった。
「それにしちゃーおかしいんだわさ。勇者の種類は、どこにでもいるような一般人に、中々なお金持ち、更にはサッカー部のイケメンエース等々多種多様。高ステータス持ちも多いんだぜ。これで『誰も好みじゃない』なんて、ありえねーぜ」
「じゃ男が苦手ってことだろ。その一ヶ月彼氏のせいかどうかわからんが」
「だがしかし女子からの告白も断ってるぞ。ちなみにいうと男女比率はフィフティーフィフティー」
「一応あったのな。……人間が苦手ってことか?」
「だがしかし告白断った男女ともに普通にいい友達付き合いをしてる」
こういった推理と推測の潰し合いが、ひそかに志紀の楽しみでもあり、雅と友人でい続けることのできている要因だ。少しずつ真相に近づいていく感覚は、小説でもクライマックスまで書かないと中々味わえない。ジグソーパズルは苦手だが、それを完成させていく感覚と似たようなものではないだろうか。
右掌で口を隠すようにふさぎ目線を下げる。無意識にやっていることだが、どうやらこれが自分の癖というものらしい。
考え、手放す。
「人間嫌いってのもいろいろあるよ。親から受けた虐待とか、いじめとか、見たくないもの見たりとかで変わる」
「最初のやつはDVってやつだな」
「勘違いされやすいが、虐待=DVってわけではないんだ」
「ほ?」
なんだそりゃ、と顔に書かれた質問に対し解説を始める。
そもそもDVというは、一概に暴力を振るう等といった身体的なものだけではない。怒鳴り散らすなどの心理的DV、強制的な性行為を求める性的DV、生活費を渡さない金銭的DV、行動を制限する社会的DVと、大きく分けるとこうなる。そしてDVの定義が『親密な関係にある、あるいはあった者たちの間で振るわれる暴力』ということだ。主に男女間であるものであり、それがドメスティック・バイオレンスと称される。子供の場合は児童虐待とされる。
「その発端が何であれ、そういうものは誰も好き好んで受けたくもないし、見たくもない。結果、人間の心をいびつにする。理不尽な暴力は何も生まないってことだ。いじめもまた然り、善意より悪意の方がすぐに伝わりやすくて、蝕みやすい。結果、脆くなる」
「見たくもない? 見ただけで変わるもんなのか?」
「これも話の続きになるんだがな、『そういうのを止めたいのに止められない』『聞きたくないのに耳をふさいでも聞こえてくる』『自分も巻き込まれるかもしれない』って言った恐怖心、自己脅迫で自分を追い込んで、自分の殻に閉じこもってしまう。行き先は同じだ」
「ほほお……きょーみぶかいねー」
足を組み、感嘆とともに体を伸ばし雅は、親指でさっさとスマートフォンをスクロールさせる。
「しかし陰無さんはこの学校ではいじめも受けてないし、母親との関係は良好だぜ?」
「離婚の原因は?」
「離婚なんて誰も言ってないぜよ」
揚げ足取ってやったぜ、と言わんばかりに一度ニヤリ。しかしすぐにそれは収められる。
「父親は交通事故。飲酒運転してた不良にばーん、だそうだ」
トーンを落とした声に、しかし志紀は動揺せずに、また掌で口を隠す。
数秒で考えをまとめ、そうかと一言。
「で、だ。今回陰無さんにノックアウトされたのはどなた様なんだ?」
こういった心の琴線に触れてしまうような話題は早々に終わらせてしまうのが吉だ。雅もその流れを理解しているためかすぐに乗ってきた。にやけ顔も一緒に戻ってきた。
「おー、そうそう。今回は生徒会副会長の美男子だぜ。三年の優等生。眼鏡かけたやつ。名前は滝背恭平。いい物件なんだがなー」
「んー、特に理由らしい理由があるわけじゃないんだよ。そんな『誰でもいいから付き合いたい!』ってわけじゃないし、少ししかお話したことなかったし」
「つまり相手への印象が薄かったってこと、か。たしかにそれじゃ好きか嫌いかは分からないな」
「あ、でも好意がなかったってわけじゃないんだよ。『まだそういうのが分からないから、お友達からでもいいかな』って」
「ゆえにお友達の多いってことですか。……ああ、皮肉っぽくて申し訳ない、僕は友達が少ないもので」
「いいよいいよ事実だし。それに本気じゃなくて冗談でしょ?」
「それがバレてる辺り、対人スキルも高いってことかね」
「あ、これは試されたってことなのかな? なんかこういうのも面白い会話だね」
片方はニコニコと、もう片方はぼんやりと視線を合わせた。
「ということで、ごくごく自然と会話に入ってきた陰無さんから真相が聞き出せましたとさ。よかったな雅」
「よかったね」
「おー……?」
志紀の視線を頼りにゆっくりと振り向く。サイドの髪をくるくると指先でいじりながら、件の陰無ひなたがおかしそうに笑いながら後ろで立っていた。
「ちなみに『どなた様なんだ』ってところからこっちにきたな」
「急にわたしの名前が出たから気になったらそのことかーって。お昼休みのこともう把握してるなんて、唐草くんってけっこうすごい?」
自分のゴシップが取り上げられている話題だというのに、嫌な顔ひとつせずクスクスと笑う陰無。固まった表情の雅は気を取り直し、
「は、ははは! テストの予測範囲から、気になるあの子の人間模様まで、あの手この手と売ります買いますのこの唐草雅さまですからねー!」
「いまさら自分の数秒前の間抜け顔をフォローしようとしても無駄だぞ」
「ってか何で言わないんだよ!」
「逆切れするな。聞かれなかったからと、陰無さんがそうしてほしそうだったからな」
人差し指を口元に当てる、いわゆる『静かにお願いします』ポーズをされていたら、誰だってそうする。
「小説とかでよく、この人いつから聞いていたのー? ってシーンがあるからさ。やってみたくなっちゃって」
悪戯の成功した子供のように無邪気な表情に対し、実は内心ドキドキの志紀と雅。先ほどまでの不躾な家族問題について聞かれてやしないかと冷や汗をかいていた。この様子なら幸い聞かれてはいなさそうだが、万が一ということをいつも想定してしまう二人からしていれば中々のプレッシャーだ。
「そっ、そうだ。陰無さんの好みってどういう人なのかな?」
少々どもりながら、雅は話題の方向転換を試みる。こいつは本当に想定外の出来事に弱いなと、小さく五度目のため息。アドリブが苦手なこの癖はどうにかならないものか。
んー、と少し唸り、照れた表情の陰無。
「正直、恋愛って良く分かってないんだよね。付き合うってどういうことなんだろうなって。好き合うってどういうことなんだろうなって」
「でも前にいたって話も聞いたけど」
「若気の至りってやつです」
そういうことも知ってるんだねーと、志紀の言葉に困ったような苦笑いの陰無。悪い、と頷くことで先を促す。こほんとわざとらしく咳払いをして続ける。
「そう、恋愛ってどういうことなの! 訳が分からないよ! ってなわけで、男の子側の視点でよろしく!」
いきなりテンションを上げてきた陰無は雅の前の席に座り、志紀と雅に視線で促す。
「まさか質問に質問で返されるとは思わなかったんだぜ……。志紀先生よろしくお願いします! 俺こういう頭使った問題苦手です!」
「説明とか解説とかが僕の役割とか思ってないだろうな、お前とあの後輩探偵は」
「そこを何とか……!」
「空名くん……!」
両手を合わせて拝んでくる雅の真似をして、陰無も合掌してくる。それに対して六度目を吐く志紀は、それでも考えをまとめる。
「そもそも恋愛感情とかに限らず、人間の持つ感情ってのは脳内の電気信号云々によって―――とかそういうのを聞きたいわけじゃないよな」
頷く頭二つ。幸い七度目は出さずに済んだ。
「あー、僕もそんな経験があるわけじゃないから大層なことは言えないけど……人の価値観と合うか合わないかだろうな」
人によって考え方、価値観の形はそれぞれだ。喜怒哀楽、物の好き嫌いなどと、個性がある。それによって似たものもあれば、決して相容れないものもある。それによって生まれるものもあれば、潰えるものもある。水と氷を一緒に入れていればいずれ同じ液体になるものもあれば、水と油のように交じり合わないものもあるということだ。
だがしかし、人は意識的にしろ無意識的にしろ潜在的に孤独を恐れる部分を持っている。だから昨日あったことやこれからのことを話したりするし、クリアできないゲームの攻略をし合ったり、好きなデザートを食べに行こうなんて誘ったりする。そういった係わり合いが、友達になったり、恋人になったりする。
「……なんかそれじゃ、友達も恋人も同じみたいな言い方だな」
「僕自身がそういう経験が無いからそういう表現になっただけだ。好き、嫌い、面白い、許せない、嬉しい、ありえない。自分っていう世界の中にあるものないものを見つけて、教えていく。付き合うってことも同じなんじゃないかな」
さまざまな感情を生み出し考えそして答えを出す。そうやって新しいことを―――と、繰り返していく。もしもそれで飽きてしまえばそれまでだし、もしもそれが己にいい刺激になるとすればそのまま続ければいい。
「心理学は専門外だから自己解釈が多くなって適当になったけど……こんなところ?」
「つまり……いい刺激の与え合いが人間関係ってことなのかな?」
「なんか誤解を生み出しそうな言い方はやめないか陰無さん」
「つまりエロいことも人間関係なんだな!」
「誤解のまま貫こうとするな雅。陰無さんがものすごい引いてる」
「おうふっ」
椅子ごと引く陰無に、精神的ダメージを受ける雅。五秒ほどで元に戻るのを見ている志紀。
「つまり、飽きない関係がそういうものになりやすいってことだね」
「あるいは落ち着くものだな。刺激が嫌な人もいる、自分の時間が何よりも大切な人もいる。自分に居場所をくれる人を求める人もいる」
「正反対だね」
「コインの裏表。一緒で違うものもあるさ」
はぐらかすように肩をすくめる。少しだけ傾げていた小首を戻し、そっか、そだねと納得する陰無。
「さすが先生、俺らにできないことを平然とやってのける!」
「痺れてたまるかよ」
「憧れはするね」
「えっ」
「え?」
「……インターネットって、いろんなものがあるんだよね」
雅の情報端末にまた
「おもしろいな、陰無さん」
「空名くんには負けるよ。お友達になる?」
「気が向いたらな」
「なんだそれー」
「こういうやつなんだよ、志紀は」
@
「っは、中二くせえ会話しやがって。陰無を困らせてんじゃねーよ」
一頻り団欒を終えた志紀たちに、唐突にかかるやたらと抑揚をつけた粗暴な声。
視線をそちらに向けると、両耳に小さなピアスをつけた、いまどき風に染めた茶髪のクラスメイトが立っていた。制服を着崩した男子だ。
「陰無はお前らに付き合ってやってんだよ、クラスの仲を取り持ってやろーってな。聞いてんのかそこの前髪男」
指を刺しながらズカズカとこっちに近づいてきて、何の了解も取らず先ほどまで書き綴っていたノートを取り上げる。
「こんなのばっか書いてやがって。誰かに『何書いてるのー?』なんて構われたかったのか? 知ってるか、そういうの中二病っていうんだぜ」
ペラペラと軽い口調と同じくらいに適当にノートを捲っていく。当然それは読んでいるわけではない。
「ちょっと、神田くん……」
「俺のことは貴努でいいって言ってるだろ陰無」
止めようとする陰無に対し、ニヤニヤ顔を向ける神田。同じニヤニヤでも雅のとは違うなと、場違いに志紀は思った。
そこでようやく手を止めた神田は、にやりとさらに口元を歪めた。
「えー、なになにー? あ、あ、あかつきいろのせかいがー、めのまえにー?」
どうやら先ほどまで書いていたところがお眼鏡に叶ったようだ。馬鹿にした口調で音読しだす。しかしすぐにおかしなところで止め、人のノートを無造作に机へ放ってきた。開いたままだったためページが折れてしまった。
「きっもちわりーなお前。こんなの書いてて何が楽しいんだよ。俺ならもっとまともな文が書けるね。大体意味ねーのに何で書いてんだよ馬鹿か。おもしろくねーうえにきもいよお前。陰無よ、こんなのほっといて俺と遊びいこうぜ。優しいのはいいけどよ、勘違いされちゃたまんねーだろーよ」
会話の流れがよく分からない、さっきから何がしたいのか分からない。先ほどまでころころと表情を変えていた陰無はきょとんとして、雅はガサガサを髪をかいている。気づけば他のクラスメイトはすでに教室にいない。巻き込まれたくないからと出たのか、懸命な判断だと素直に感心した。
あー、と呻いた雅が口を開く。
「中二病ってなんだ志紀」
あぁ、そんなのも知らねーのかよ! とまた文脈の無い暴言が口から出される前に、志紀は瞬時に思考をまとめる。
「ネットスラングのひとつだったかな。なんかのラジオが名称の由来だった気がするけど。簡単に言うと自意識過剰の目立っちゃいたいタイプ。中二、つまり中学二年生っていう思春期真っ盛りの時期になることで、おかしなことを言い出すようになることだな。ほら、昔なんとかレンジャーになりたいとか、なんとかライダーに変身したいとか、なになに少女になりたいとかあるじゃん。それをこじらせちゃったこと。右手に包帯巻いて「し、静まれ、俺の右手よ! まだ悪魔の力を解放するには早すぎる!」とかやったりとかが具体例だな。あるいは、相手の功績を見て、俺ならあんなの楽勝だぜ、とか言い出したりとか」
「ならなんで志紀が中二病になるんだ? 俺の知っている限りそういう言動行動をとったことはないはずだぞ」
「実はお前のいないところで魔王との戦いに挑んでいるんだ、なんて言えたら面白いんだがな。そういう衝動を絵や文に表現する人も多いんだよ。自分にできない、けれども何とか表したい。そういった衝動をそういう形にするということで吐き出して制御するんだよ。そういった意味では俺も中二病だね。いやもうまったく構わないんだけど」
「ほほお、調べてんなー」
「ちなみにその黒歴史を背負ってもだえ苦しんで中二病を忌み嫌うのを高二病なんて呼称したりするな」
「つまりこいつか」
「大体合ってる」
「おいお前ら勝手に話進めてんじゃねーよ!」
カカカと笑いながら神田を指差す雅に、特に表情を変えることなく頷く志紀。それに対し分かりやすく激昂してくる。
「テメェこそ勝手に入ってきてんじゃねーよ高二病」
先ほどまでの軽い口調やにやけ顔はどこへやら、鋭い視線を向ける雅。思わずたじろぐ神田。『仕事』を通じてそれなりに修羅場をくぐってきている雅の目は、その辺の口だけの輩よりは遥かに力がある。
おもむろにスマートフォンを操作して、それを読み上げる。
「神田貴努。中学二年から中学三年ごろまで他県の中学で平凡な日常を過ごす。しかしそんな平凡の中自分が平凡であり続けるなんて許せなくなったのか、怪我もしていないのに左手に包帯、右目に眼帯、頭に黒い鉢巻なんてルックで学校生活をしていた。ちなみに細く設定として左手には神の手、右目にはメデューサの石化の魔眼、頭には第三の目が眠っているとかなんとか。親の仕事の関係でこっちの高校に入学することに。ちなみにその設定は卒業するまで続き、どういうわけかそのルックを卒業し高校デビューを果たした、と。仮に志紀がお前の馬鹿にする中二病だったとしてだ。お前はその馬鹿にする中二病のお手本とも言える馬鹿だったじゃねえか」
スマートフォンから視線を戻した彼は、珍しい無表情だ。内心いいものを見れたと笑った。
「な、なんでそのことを……! だ、大体なんで、おまえ……!?」
大して神田は顔を真っ赤にして体を震えさせている。先ほどまでの余裕に満ちて馬鹿に仕切った顔をしていたとは思えないほどだ。証拠も何も無いのでしらばっくれれば流すこともできたのに、なんともまあ。
知り合いが多いっていいことだよね、といつもの表情に戻った雅は、志紀へと視線を移す。にやりと、トドメはお前だろなんて信頼した言葉を贈呈してくれた。
仕方ないという考えと、まあ自分もそこそこ腹立ってるからなと、七度目のため息とともに腰を上げる。びくんとさっきの勢いはどこへ行ったのか、しかし無駄に高いプライドのせいか、なんだよと引けてる癖に喧嘩腰の神田。
前髪を少し掻き分け、目を見せる。
「お前は中二病だったか高二病かは正直この際どうでもいい。だけどな、人間としてそういうのはどうか、ということになる」
目を合わせようとせず、しかし相手の表情を観察することで適した言葉を選び出す。小説を書いている上で必要な能力、辻褄合わせ。相手に合わせどういう言葉を言えばいいのか、それを書くためではなくリアルのために使うことをほんの少しだけ嘆きながら、文ではなく言葉を紡ぐ。
「別にお前がなんて思おうが構わないさ。現に俺は中二病だし、ぶっちゃけた話そんなのどうでもいい。だがしかしお前の話だと『この世界に現存する作家漫画化音楽家などのアーティストみんな中二病だ、ばっかじゃねーの』って言ってるのはどうなるんだ。お前はすべての漫画を馬鹿にしながら読むのか? すべての音楽をアホといいながら聴くのか? 自分の行動を棚に上げて、自分が恥ずかしいからかつ自分をアピールするためにご都合主義全開の言動で場を乱すのはやめろ」
述べられる言葉に反論しようにも、頭に上った血の熱によってまともに回らない頭では口もまともに動かず、言葉にならないうめき声しか出せない。
その隙を見逃すはずがない。正論とこちらの感情を込めて言葉を続ける。
「さらにさっき読んでた小説、読み方もおかしいし何度も噛んだ上に果てには漢字読み間違えてるぞ。アカツキではなく茜だよ。それ以外は面倒だし時間の無駄だからする気もないが……。俺の文を馬鹿にするのはいいよ、だけどその前に馬鹿にできるくらいの頭を身につけて来い。お前の言動から陰無さんが目的なのは分かった、だがしかしアピールの仕方が間違っている。なんでいい印象ではなく悪い印象を植え付けてるんだよ、好きな女の子に思わず悪戯したくなる子供かお前は。小学生で卒業しろそんなもん」
一度大きく息を吸い、告げる。
「自分を見るみたいで恥ずかしいなら見なけりゃいい、関わらなけりゃいい。勝手に関わって勝手に自爆したいなら止めないが、それが嫌なら相手にぶつけるんじゃなくて自分を変えろ」
まるでナイフのような言葉で、ざくりと胸を指す。そこでようやく頭が回復したのか、今度は怒りで顔を染めて体を震わせている。
来るか―――と体勢を整えて、
「貴努くん、それ以上すると、友達もいるのも嫌になるよ」
ぎゅっとスカートをつかみ、先ほどからうつむいていた陰無は、意を決したように顔を上げる。
「……ッ、チッ、陰無さんに感謝するんだな!」
分かりやすい捨て台詞を吐いて、どかどかと大股で教室を出て行く。途中で乱暴に掴んだ鞄を机にぶつけながら、肩を震わせたまま。姿の消えていった廊下の向こう側で壁を叩いたような打撃音が響いた。
静かになった教室で、涙をためた目で陰無は二人に目を向けた。
「ご、ごめんね……わたしがいたせいで……」
「関係ない、偶然いただけだ」
「そそ、志紀の言うとおり。それにいろいろ勉強になったしなー」
ポケットに手を突っ込んで数えるのも億劫になったため息を吐く志紀、中二ってそういうことだったんだなーとスマートフォンに情報を打ち込む雅。
喉元過ぎれば暑さも忘れるといったところか、飄々とした普段の姿に戻った二人にほっとする陰無。
「さーて、帰るか。いい時間だし、雨なんて降られちゃ勘弁だぜぃ」
「ああ。有意義な会話ってのはすぐに時間が過ぎちまうもんだな。陰無さんさえよかったらまた会話したいな」
さっきまでの会話とまったく変わらない二人に、胸にあまり感じたことのない感覚を覚える陰無。ああ、これが居場所みたいなものなのかな、と志紀の言葉を思い出す。
「わ、わたしは、空名くんと唐草くんさえよかったら! こういうお話って、全然したことなかったからすごく新鮮だし!」
さっきの涙はどこへ行ったのか、目をきらきらとさせた陰無。無邪気な目に思わずたじろぐ志紀。
「まあ、うん、いいさ。気が向いたらな」
「またそれー」
「口癖なんだよ。……陰無さんさえよければ、いつでも」
そっか、そうだよと、くすくすと笑って。
彼らは友達となった。
「あ、そだ、空名くんそれ今日貸して! 小説好きだから読みたい!」
「別にいいが……ちゃんと返してくれよ?」
「うん、ありがと! 辛口アドバイス待っててねー!」
「それは上等。楽しみにしておくよ」
「あれ、俺空気?」
「いたのか雅」「いたの唐草くん」
「お前らひっでー!」
秋になったばかりの、金曜日の放課後。
一人はノートを嬉しそうに胸に抱き。
一人はスマートフォンをいじりだし。
一人は雲の隙間から出た空を見ていた。
実は二年ぶりにまともに書くんですよね、これ(蹴
というわけではじめまして、流離と申します。タイトルは親友(あだ名:先生)に考えてもらいました。
一応この話は前中後編構成、の予定です。
前編は見てのとおり、中編は下書き中、後編は構成ができてるだけという(蹴
一週間でできるかどうか……なるべく書き上げたいところです。
感想、指摘等、いつでもお待ちしております。
ではでは。