五.宵闇の星明かり
フェリックスはヴィオレッタの手を引いて立ち上がろうとしたが、長時間歩き続けた彼女の脚は震え、歩くこともままならない。
彼は背後を振り返り、遠く離れて立つ青年を呼んだ。ヴィオレッタは気付いていなかったが、彼は従僕を一人伴っていたのだった。
先程、人目も憚らずフェリックスに抱き着いてしまったことを思い、ヴィオレッタは夜目にも鮮やかな程に頬を染める。フェリックスも耳を真っ赤にしながら、彼の従僕が呼んだ馬車に、ヴィオレッタを誘った。
しばらく走った後、馬車が止まったのはデュレット家の別邸だった。
フェリックスは戸惑うヴィオレッタの手を引き、慎重な足取りで邸に入っていく。母の日記帳は、現在は彼の手の中にあった。
出迎えたメイドに、フェリックスはテキパキと命じる。
「おかえりなさいませ、若君」
「ただいま。――アイリス、まずはヴィオレッタの手当てを頼む。着替えは……、申し訳ないが、メイドの誰かのものを借りられるだろうか」
「ヴィオレッタ様さえよろしければ」
アイリスと呼ばれたそのメイドは、ヴィオレッタに目線を向けて上品に微笑む。案じるような眼差しに、ヴィオレッタも恐縮して頭を下げた。
アイリスはヴィオレッタに、踵のない室内履きを勧めてくれた。彼女の肩を借りながら、ゆっくりと靴を履き替える。血の滲んでいた踵が外気に触れ、痛みに顔を歪めたヴィオレッタに、アイリスは痛ましげな目を向けた。
ゆっくりと歩を進めるアイリスに先導され、ヴィオレッタは客間のソファに腰を落ち着けた。
「……痛ければ、すぐにおっしゃってくださいね」
アイリスは丁寧な手つきで、ヴィオレッタの踵に薬を塗り始める。
快適な室温、目に優しい色の照明、包み込むような柔らかさのソファ。安心出来るそれらに、ヴィオレッタの瞼は次第に重くなっていった。
(ここは……)
目を覚ましたヴィオレッタは、見慣れない天井をぼんやりと見上げた。
(私……どうしたんだっけ。マシューに会って……家に帰って、……それから)
カーテンの引かれた窓の隙間から、宵闇の黒がのぞいている。
ハッと息を飲み、ヴィオレッタは身体を起こした。
(テオ従兄様……)
母の日記帳とマシューの証言を突き付けたヴィオレッタに、従兄のセオドアは「君の両親を始末した」と告げた。母の日記を読んだあの日から、疑惑と、否定したい気持ちの間で揺れ動いていたヴィオレッタを、絶望の底に叩き落とす答え。混乱の極みに陥り、ヴィオレッタは咄嗟に家を飛び出した。何時間も王都を彷徨い続け、――フェリックスに保護されたのだった。
(そうだ、ここは、デュレット伯爵家の別邸。――フェリックス様は……?)
コンコンとノックの音が響き、ヴィオレッタはドアに向き直る。ゆっくりと開いた扉の向こうに、メイドのアイリスを従えたフェリックスの姿が見えた。
「目が覚めたんだね。良かった」
にこりと微笑んで歩み寄ってくる彼に、ヴィオレッタは慌てて頭を下げた。
「フェリス様……。私、とんだご迷惑を……」
「気にしないで。――気分はどう? 君、丸一日眠ってたから。喉やお腹は平気?」
気遣うようにヴィオレッタの背に手を添えたフェリックスに、ヴィオレッタは申し訳なさそうに答えた。
「お水を、いただければ……」
「分かった。アイリス、頼む」
二十代半ばと思しき穏やかな顔立ちのメイドは、静かに頭を下げて立ち去った。
メイドのアイリスは、常温の水と、人肌に温めたハチミツ入りのミルクを運んで来てくれた。ヴィオレッタは、フェリックスの言葉に甘え、ベッドに半身を起こした状態のままそれらを口にする。
しばらく無言で見守ってくれていたフェリックスが、ヴィオレッタがすこし落ち着いたであろう頃を見計らい、そっと尋ねてきた。
「何があったか……、聞いても良い?」
頷き、ヴィオレッタはぽつりぽつりと言葉を零した。
家の醜聞を言いふらすことには気が引けたが、迷惑を掛けた彼には、答える義務があると思ったのだ。何より、ヴィオレッタ一人で抱え続けるのは、もう限界だった。
三年ぶりに会った母方の叔母に、母の日記帳を渡されたこと。
その鍵は、事故現場に残されたネックレスに下がっていたもののうちの、一つであったこと。
母の日記の、不穏な言葉の数々。現当主である叔父のルークが、両親の行動を探っていたこと。そして、事故の二日前に記された、「義弟に殺される」という、衝撃の一文。
かつての使用人を探し当て、証言を求めたこと。彼は叔父に両親の予定の情報を金で売っていたことを認め、従兄のセオドアも関与していたとヴィオレッタに告げた。
そして、そのセオドアとの対峙。彼が、父親と自らの罪を認めたこと。
「セオドアさんが……」
自身も、生徒会の後輩として深い交流を持つフェリックスは、目を見開いて呟いた。
ヴィオレッタもぎゅっと目を瞑り、両手を腿の上で握り合わせる。
そんな彼女をじっと見つめ、フェリックスは囁くように言った。
「ヴィオラは……今後、どうしたい?」
案じるようなその声に、ヴィオレッタは目を開いた。しばらく迷って、やがて小さな声で答えた。
「よく……分からない。でも、一つだけ言えるのは、三年前に何が起こったのか、知りたいの。
叔父は自分の方が当主に相応しいと思っていたから、犯行に及んだのだと、従兄は言った。でも、私の知るルーク叔父様は……思慮深くて、穏やかな人だった。
父とも仲が良かったかと言われれば、断言は出来ない。……それでも、叔父様は、伯爵家当主である父を、いつもサポートしてくれていたもの」
テオ従兄様だって、両親に礼儀を尽くしてくれたし、私にも優しくしてくれた。
そう呟き、じわりと涙を滲ませたヴィオレッタの拳に、フェリックスはそっと手を添える。
「……分かった。正直、危ないことはして欲しくないけど。君は意外と、言い出したら聞かないから。
ただし、誰かに話を聞く時は、僕も一緒に行くからね。どうしても無理な時は、誰か、信用出来る第三者を連れていくこと」
「フェリス様……」
力強い婚約者の言葉に、ヴィオレッタは声を震わせた。
そしてふと、目を瞬かせる。
「そう言えば……フェリス様。なぜ、昨晩は私を探してくださっていたんでしょうか」
不思議そうに首を傾げる彼女に、フェリックスは気まずそうに視線を逸らした。
「実は……」




