一.ヴィオレッタ
「――すまない、ヴィオレッタ。良い子で待っていてくれ」
「お土産を買って来ますからね。……ユーリ、ヴィオラをお願いね」
ベッドに横たわるヴィオレッタを、両親は愛おしげに覗き込んだ。二人それぞれに、微熱っぽい彼女の額に口付けをして、名残惜しそうに立ち去っていく。
それが、ヴィオレッタの見た、生きた両親の最後の姿だった。
「――ヴィオラお嬢様。フェリックス様がおみえですよ」
侍女のユーリが、ドアの外からそう声を掛けてくる。書き物机で課題に取り組んでいたヴィオレッタは、パッと顔を上げた。
「今行くわ!」
弾む声で答え、ヴィオレッタはいそいそと立ち上がった。ドレスにインク汚れなどがついていないか、念入りに確認する。繊細な色のプラチナブランドに結んだリボンを軽く整え、「よし」と小声で呟いたあと、ヴィオレッタは自室のドアを開けた。
階段を降り、急いで客間に向かうと、そこには同級生でもある同い年の婚約者、フェリックス・デュレット伯爵令息の姿があった。彼はにかみながら、ヴィオレッタに小さく手を上げてみせる。ヴィオレッタも溢れる笑顔を堪え切らないまま、彼に駆け寄った。
「……お待たせしてごめんなさい、フェリス様」
ソファの対面に腰掛けながら詫びると、彼は屈託のない笑顔で首を振った。
「いや、僕こそ、約束より早く来てしまったから」
苦笑気味に答えた彼は、ユーリが置いていった紅茶のカップに、礼を言って手を伸ばす。丁寧な所作にヴィオレッタが思わず見とれていると、フェリックスがくすぐったそうに笑った。ヴィオレッタは慌てて目線を逸らす。
ひとしきり他愛もない会話を楽しみながら、カップを空にしたあと、フェリックスはヴィオレッタの方へ手を差し伸べてきた。
「そろそろ、行く? 今日は、この間話していたチョコレートショップだったよね」
「はい。――あの、男性には退屈かも知れず……。すみません」
「君と行けるなら、どこでも楽しいよ」
ヴィオレッタの遠慮をサラリと流したフェリックスだが、その耳は真っ赤だ。こういったシチュエーションでの会話を、衒いなく交わせるほど、フェリックスもヴィオレッタも世慣れていない。彼の不器用さが、愛しかった。
ヴィオレッタは、差し出された手にそっと自分の指先を載せる。
繋いだその手は、暖かかった。
伯爵家の一人娘として生を受けたヴィオレッタは、三年前、十三歳の時に、両親と死別した。両親は隣領の伯爵家の子息の結婚披露のパーティーに呼ばれ、馬車で二人で出掛けた際、不慮の事故に遭ってしまったのだ。微熱のため、自宅で療養していたヴィオレッタは難を逃れたが、朝何事もなく別れた両親が、夕方には崖下に投げ出された悲惨な姿で見付かるなど、予想だにしていなかった。
突如降り始めた大雨の中、馬車二台が十分にすれ違えるほども道幅があった山道。そこへ通りがかった際、ヴィオレッタの両親が乗った馬車は運悪く地すべりに巻き込まれた。両親は崖下へ転落し、帰らぬ人となってしまった。
両親を一度に亡くしたヴィオレッタは、抜け殻のようになってしまった。
衝撃と絶望、将来への不安から、体調を崩し寝込んでしまった彼女を救ってくれたのは、父方の叔父夫婦とその息子だった。
事故後、急逝した父の跡を継いで、たった一人の弟であった叔父のルークが伯爵家当主となった。叔父は、諸々の片付けが済んだあとすぐに、ヴィオレッタを養女として引き取った。家族の思い出の残る伯爵領に戻れず、王都の屋敷で療養していた彼女を、叔母は献身的に看病してくれた。
そして、彼らの息子である六歳上の従兄も、当時勤め始めたばかりの職場を可能な限り休み、ヴィオレッタのそばに居てくれた。やがて彼女が気力を取り戻し、十五歳になって王都の貴族学園に通い始めたあとも、引き続き一緒に暮らしてくれている。
もともと一人っ子で、家族の縁の薄かったヴィオレッタを案じ、叔父は昨年、彼女に婚約話を持ちかけた。相手は同じ伯爵家、叔父のルークと既知の間柄だったデュレット夫妻の嫡男。ヴィオレッタの学園の同級生でもある、フェリックス・デュレットだった。
明るく生真面目で、正義感の強いフェリックスは、陰をまとうヴィオレッタに根気強く優しく接してくれた。
叔父夫婦と従兄、そして婚約者のおかげで、ヴィオレッタは両親を亡くした悲劇から立ち直れたのだ。
フェリックスとの外出を終え、彼の馬車に送られて、日が暮れる直前にヴィオレッタは王都のアッシュフォード邸に帰ってきた。
着替えを終え、居間に降りたタイミングで、玄関の扉が開く音がする。待っていると、顔を出したのは、従兄のセオドアだった。
「テオ従兄様、おかえりなさい」
「ただいま、ヴィオラ」
ジャケットを脱ぎながら微笑んだのは、従兄のセオドア・アッシュフォードだった。王都の教育・文化庁に勤める文官で、ヴィオラと共に、伯爵家の王都本邸で生活している。
男児がいなかったヴィオラの両親は、セオドアを後継とすることに決めていた。彼は文官として王都で人脈を広げつつ、ヴィオレッタの結婚と同時に――当時はまだ彼女の婚約者は未定だったが――、両親の養子となるはずだった。
そのことについて、ヴィオレッタなりに思うところはあった。それでも、父の「ヴィオラには煩わしいことに囚われずに、幸せに生きてほしい」という言葉に、彼女は両親の愛情を痛感していたのだ。
従兄は聡明で誠実で、父の右腕としてこれ以上なく頼りになる存在だった。ヴィオレッタの実家である伯爵領の屋敷にも幼い頃から頻繁に出入りし、ヴィオレッタも実の兄のように慕っていた。
今も、従兄はヴィオレッタに穏やかな声で問いかけてくれる。
「フェリスとお出かけでもしてた?」
「……どうして、そう思うの?」
意味深な従兄の笑顔に、ヴィオレッタは首を傾げる。
従兄のセオドアも、王都の貴族学園の卒業生だ。婚約者のフェリックス同様、生徒会役員をしていたとかで、フェリックスとはOB会で顔を合わせることが多い。ヴィオレッタの彼との婚約も、後押ししたのは従兄だった。
セオドアは不意にニヤリと笑うと、ヴィオレッタの耳元に唇を寄せて囁いた。
「――仲が良いのは結構だけど、結婚式までは、手を繋ぐ以上のことは許さないからな。万が一手を出されそうになったら、急所でも何でも蹴り飛ばして逃げるんだぞ」
ヴィオレッタの頬が、羞恥で瞬く間に真っ赤に染まる。従兄は今日の休みは、友人と出かけると言っていた。もしかしたら、お酒でも飲んでいるのかも知れない。
「……もうっ、テオ従兄様!」
「あははっ! ごめんごめん、着替えてくる」
殴り掛かるふりをしたヴィオレッタに、セオドアは軽やかに笑って身を翻す。使用人たちは、仲の良い従兄妹のじゃれあいを、微笑ましそうに見つめている。
ヴィオレッタは幸せだった。
――あの日、絶望をもたらすというパンドラの箱の蓋を、開けてしまうまでは。
タイトルはフランス語です。
読みづらいので、作者は「リュミエール」とだけ読んでおります。




