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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ユグドラシル・オークション

作者: 五月病

第一章 ユグドラシルからの招待



ポチポチッ、シュポッ!


──人生、売れたらいいのにな


電車の窓に映る、自分の顔が薄く歪んでいる。

派遣社員歴3年、彼女なし、貯金は2桁、夢も目標も曖昧。

遠野葵とおのあおい25歳。

その日も葵は、疲れ果てた身体を都心のラッシュに押し込んでいた。


SNSに投稿したその一言には、誰からのリアクションもない。

けれど、その“声”は確かに、誰かに届いていたのだ。





ワンルームの薄暗い部屋で、コンビニ弁当の容器をゴミ箱に放り込んだ後、葵はスマホを手に取った。

ディスプレイの通知欄に、見慣れないアイコンがあった。


《Yggdrasill Auction》


・・・なんだこれ?


アプリのダウンロード履歴にもない。しかも、勝手に通知を送りつけてくる。

怪しいと直感した葵は、指を止める──が、次の瞬間、画面が勝手に切り替わった。


【あなたは「価値の所有者」に選ばれました】

【ログインを許可しますか?】


「なんだこれ、スパムか・・・?」


だが、アプリを閉じようとしても、電源ボタンを押しても反応がない。

操作不能になったスマホに、ただひとつだけ表示されている。


【OK】──それしか、押すことができない。


・・・ふざけんな。

そう思いながら、仕方なくそのボタンをタップした瞬間、スマホの画面が“裏返る”ように変化した。


黒い背景に、白く輝く文字。

ノイズ混じりの音声が、耳鳴りのように聞こえる。


【ようこそ、ユグドラシル・オークションへ】

【あなたの持つ「価値」を確認中・・・】

【認証完了。初回ログイン特典として「一部の記憶」の査定を行います】


「・・・は?」


画面に次々と現れるメッセージ。冗談だと思いたかったが、次の瞬間、何かが“抜ける”ような感覚が葵の頭を襲った。

気づくと、数分前まで思い出せていたはずの中学時代の記憶がぽっかり抜け落ちていた。





【査定結果:中学時代の記憶(断片)=市場価値:小】

【落札候補:個人番号A-5127「詩的感受性向上目的」】

【取引成立。あなたには「運気上昇効果(中)」が付与されます】


「は・・・?」


ただのゲームかと思っていた。

でも確かに、何かが“なくなった”。記憶だけじゃない。胸の奥にあった、青臭い感情も一緒に。


そしてその翌日、葵の運気は本当に上がった。


電車では座席が空き、昼休みに立ち寄ったコンビニでは無料クーポンが当たり、職場では滅多に褒めない上司から「いい目つきしてきたな」と言われる始末。些細だが、明らかに昨日までとは違う“運”が流れ込んでいた。


「まさか、本当に・・・?」


夜、自室に戻った葵は、再びアプリを開く。


そこにはこう書かれていた。



---



【現在の所持価値】


・記憶:94%

・寿命:100%

・感情:98%

・運気:+3

・好感度:標準

・存在価値:???



---



【出品可能な価値一覧】


恋愛感情の記憶(軽度):推定価値 中


孤独感(強度):推定価値 高


5年以内の後悔:推定価値 中〜高


3年分の寿命:推定価値 特大



---



葵は、心のどこかが興奮しているのを自覚した。

まるでゲームのステータス画面を覗くような高揚感。

失ってもいいものを差し出せば、欲しいものが手に入る──そんな世界が、今この手の中にある。


「・・・ちょっとだけ、試してみるか」


葵は、リストから「孤独感(強度)」を選び、出品ボタンを押した。



---



数分後


【落札者:企業番号C-312「AI共感学習用データ」】

【代替価値:「異性からの印象操作補正(軽度)」】


身体に何かが流れ込む感覚。

そしてその日、職場でいつも無関心だった女性社員が、唐突に「最近、雰囲気変わりましたね」と声をかけてきた。


──たしかに、自分は変わり始めている。

それは、小さな犠牲と引き換えに得た、確かな変化だった。





数日後。


葵はついに「3年分の寿命」を出品する。


一瞬の躊躇が喉元まで上がるが、「どうせこんな人生なら」と、すぐに飲み込んだ。

通知が鳴る。


【落札者:医療研究機関N-047】

【報酬:「社会的好感度+中」「人脈生成効率+大」】


翌週、葵は会社の重役に目をかけられ、別部署への昇進の話が舞い込む。


──これだ。

これが、俺の生き方だ。


その時の葵はまだ知らなかった。

この“オークション”で取引されていたものが、本当に“取り返しのつかない何か”であることを──。



第二章 取引と喪失



「お前最近ほんと変わったよな。雰囲気とか、なんか全部」


昼休みの喫煙所で、同期の岸田が言った。


「前はもっとこう・・・地味というか。悪い意味じゃなくてさ。けど・・・最近話しやすいし、ちょっと羨ましいくらいだよ」


「マジで? ありがと」


煙草を咥えたまま、葵は曖昧に笑った。

だがその笑顔は、自分のものというより、“用意された表情”のように感じていた。


──変わったのは自分か、それとも周囲か。

どちらにせよ、理由はひとつ。

《ユグドラシル・オークション》の存在だ。



---



あの夜を境に、葵の人生は急速に上向き始めた。


社内評価の上昇、周囲との関係改善、気になっていた後輩・橘からのライン。

なぜか人が寄ってくる。会話がスムーズに進み、チャンスが勝手に舞い込んでくる。


まるで、自分が“好まれる存在”にチューニングされていくかのようだった。


そして、それは事実だった。

ユグドラシル・オークションでは、感情の重さや記憶の価値に応じて、得られる“補正効果”が変化する。

その補正は一時的ではない。骨の髄に浸透し、自分そのものを書き換えていく。


葵はその過程に、恐れよりも快感を感じていた。



---



ある夜、出品履歴を眺めながら、葵はふと思った。


(まだ、手放せるものがある)


画面には、彼の“価値リスト”がずらりと並ぶ。



---



【出品可能リスト(抜粋)】

・「初恋の記憶」:価値 中

・「母親との最後の会話」:価値 高

・「後悔(軽度)」:価値 低

・「罪悪感(人間関係由来)」:価値 中

・「夢を見る能力」:価値 中〜高

・「自己評価」:価値 高

・「感動しやすさ」:価値 中

・「幼少期の正義感」:価値 小



---



葵の指は、「罪悪感」に触れた。


ほんの少しだけ迷った。でもその後、何も感じなかった。


【出品完了】──


結果は即時だった。

落札者は匿名団体による「倫理思考AI研究」。

代わりに得られたのは「社会的信用+中」と「自己肯定力の安定化」。


そして翌週、葵は新設されたプロジェクトチームのリーダーに抜擢される。


罪悪感の欠如が、行動の迷いを消し、強さと判断力を与えた。

誰かを責めても、叱責しても、心はまったく揺れなかった。



---



「最近、葵さんって冷たいですよね」


ある日、橘に言われた。

その声はどこか怯えていて、葵の胸にかすかな違和感を残した。


けれど、その違和感が何に由来するか分からなかった。


罪悪感を売ったのは自分だ。

そして今の自分にとって、その言葉は“ただの空気の振動”でしかない。


帰宅後、アプリを開く。


葵は次に「感動しやすさ」と「夢を見る能力」を出品した。


報酬は、「交渉成功率の向上」と「睡眠効率の最大化」

ますます仕事は順調になり、収入も人間関係も洗練されていく。


だが、それと引き換えに──


・映画を観ても泣けない

・音楽を聴いても胸が動かない

・夜、夢を見なくなった


もはや、何を失ったのかさえ気づけなくなっていた。



---



ある夜、1つの通知が届く。


【特別出品枠:自己評価】

【現在の市場価値:高】

【提示報酬:「絶対的自信」「社会的影響力」「美的フィルター(高性能)」】


──美的フィルター?


説明にはこうある。


「現実世界に対する“主観的好意バイアス”を強制的に強化する補正。景色、人間、日常すべてが“美しく”見えるように脳内処理が改変されます」


要するに、何もかもが“美しく見える幻覚”になる、ということだった。


(・・・まるで、麻薬(ドラッグ)じゃないか)


葵は一瞬だけ躊躇した。

だが、すぐにボタンを押していた。


結果は見事だった。


同僚も街並みも、過去も未来も、すべてが眩しく光っていた。

その光が“真実”でないことを知っていても、もうどうでもよかった。


現実より、“幸福の錯覚”のほうがずっと美しかった。



---



数日後、ふと橘からのLINEが途切れていることに気づいた。


──彼女の存在を、少しだけ思い出せなかった。


その時、自分が何を売ったのかを確認しようとアプリを開いた。


履歴にはこうあった。


【出品済】

・初恋の記憶

・母親との最後の会話

・夢

・自己評価

・倫理観

・後悔

・感動しやすさ

・正義感

・友人に対する共感力

・対人関係における記憶(軽度)


──もはや、かつての“自分”はどこにもなかった。


それでも、悲しくなかった。

寂しくも、苦しくもなかった。

なぜなら、葵はすでに「それらの感情」も売り払ってしまっていたからだ。



---



その夜。

スマホに1つの通知が届いた。


【最終入札通知】


画面には、自分の顔写真が映っていた。

その下にある項目──


【商品名:「遠野葵」】

【価値項目:存在価値】

【落札者:非公開/決済完了】


葵は、眉ひとつ動かさず、画面を見つめる。


【再起動まで、あと10秒】


1・・・2・・・3・・・


何かが、確実に終わろうとしていた。


けれど、それすらも──どうでもよかった。



第三章 再起動された男と終わらない競売



【出品完了】──存在価値:遠野葵


それが最後の取引だった。

その瞬間、すべてが終わるはずだった。


けれど、実際には──すべての始まりだった。



---



再起動は静かに行われた。

大きな音も、苦痛も、記憶のフラッシュバックすらない。

気がつけば、葵はどこかの部屋で目を覚ましていた。


天井には白い照明。無機質な空気。冷えた床。

隅に置かれた端末が、彼の名を表示していた。


──「A9_遠野葵(所有者:非公開)」


人としての“遠野葵”ではなく、“所有物”としての遠野葵が、そこにいた。



---



起床と同時に、葵は「稼働」する。

身体は動く。食事は摂る。返答もする。

だが、感情は空っぽだった。


怒りもない。喜びもない。

時間は流れるが、意味を持たない。

まるで、人間のフリをして生きているだけだった。


かつての自分がどうだったか──もう、よく思い出せなかった。

そもそも「思い出す」という行為自体が、どこか他人事のように感じた。



---



再起動された者たちの収容施設「リグマ第3処理棟」では、同じような人間が日々、黙々と動いていた。


名前を呼び合うことはない。

目を合わせることもない。

何かを欲しがることもない。


全員が、何かを売り、何かを失い、それでも動き続けていた。



---



ある日、彼は一人の女に声をかけられる。


「──ねえ。あなたも“売った”の?」


振り返ると、灰色の目をした若い女が立っていた。

コードネーム「ミカ」。

再起動者にしては、やけに人間味が残っていた。


「何を?」と葵は訊ねる。


ミカは肩をすくめ、苦笑する。


「さあ?何か大事なもの。私たちみんな売ったでしょう? じゃなきゃここにいないし」


その言葉は、葵の中で何かをわずかに揺らした。


──“売った”という言葉。


それは確かに、どこかに引っかかる感覚だった。



---



その夜、葵は部屋の端末を操作し、記録データを閲覧した。


過去の出品履歴。落札記録。再起動日時。


──そこにあったのは、まぎれもない「自分という商品のカタログ」だった。


項目ごとに値段がつき、ラベルが貼られ、発送済みと記されている。


・「感動」:落札済

・「夢」:落札済

・「罪悪感」:落札済

・「初恋の記憶」:落札済

・「存在価値」:落札済


──もう、自分には何も残っていない。


そう思った瞬間、ふと画面が切り替わった。


【通知:落札者からのメッセージがあります】


葵は無意識に、その通知を開いた。



---



メッセージは一文だけだった。


君を買ったのは、君を解放するためだ


差出人不明。

信じる理由も、拒む理由もなかった。


ただ、頭の奥に鈍い痛みのような違和感が残った。


──なぜ、誰かが自分を「解放」したいと思うのか。

──そもそも、自分は“解放されたい”と思っていたのか?


自問は、浮かび上がると同時に霧のように消えていく。

答えを導き出すための感情や記憶が、既に存在しないのだ。



---



翌朝、葵の目に映る世界は少しだけ違って見えた。


無機質な壁。味のない食事。無感情な人々。

そのどれもが、ほんのわずかに“不自然”に感じられた。


気づくべきでない違和感。

感じるべきでない疑問。


それらが、葵の中でじわじわと膨らんでいく。


「・・・俺は、ここにいるべき人間なのか?」


それは、自分という存在に関する、最初の問いだった。



---



その夜、再び端末が起動した。


【特別入札枠のお知らせ】


表示された画面には、こう書かれていた。



---



【商品名】A9_遠野葵

【現在の状態】再起動済/自己データ消去率92%

【再出品オプション】開放中

【推定価値】未定義

【落札希望者】1名

【備考】「自我の芽生えが確認されたため、観察モードへ移行」



---



──誰かが見ている。

誰かが買い続けている。


そして、自分はまだ「競売の途中」にある。



---



「ミカ」との会話も少しずつ増えた。


彼女もまた、完全に感情を失ってはいなかった。

むしろ、失わなかったがゆえに苦しんでいるようだった。


「記憶は消されても、痛みは残るの。なぜかは分からないけど・・・ね」


その言葉に、葵は初めて“共鳴”のようなものを感じた。


共感ではない。理解でもない。


──ただの、共鳴。


それだけが、自分にまだ“何か”が残っている証だった。



---



【最終通知:再出品まで24時間】


画面に表示されたタイマーを眺めながら、葵は問う。


(俺は、何のために売られた? 誰のために?)


そして、気づいた。


──この問いだけは、今もまだ“自分”のものだった。


その夜、葵はミカにこう言った。


「俺、外に出るよ」


ミカは何も言わなかった。


ただ、彼女の目がほんの少しだけ潤んでいた。

それが涙かどうか、今の葵には分からなかった。


けれど──確かに、その光景だけは、記憶に焼き付いた。



第四章 電子の檻と記憶の種子



再出品まで、残り23時間45分。

カウントダウンは、葵の存在そのものを、無言のまま削っていく。


だが、今の彼には、ただ待つだけの理由がもうなかった。


それは──ミカが「思い出した」からだ。



---



「ねえ葵、私・・・ひとつだけ覚えてるの」


その夜、ミカはぽつりと呟いた。


「誰かにね、『これは君自身の選択だよ』って言われたの。・・・名前も、顔も思い出せない。でも、その言葉だけは何度消去されても、胸の奥に残ってたの」


「選択・・・?」


「うん。だから私は“忘れない”って決めたの。どんなに感情が削られても、選ばされたことを受け入れないって」


葵はその言葉に、不思議と共鳴した。


ミカが思い出した“言葉”は、自分にも届いていた気がした。

曖昧で、確かな、記憶の種子。


それが、やがて芽吹くのを感じていた。



---



再起動施設「リグマ第3処理棟」は、高度に自動化された管理区画だった。

24時間稼働のオペレーティングAI、動線管理、全周囲監視。

脱出など不可能とされていた。


けれど、ミカは知っていた。

この場所には、たった一つだけ“出口”があることを。


「職員が使う非常回線。外部ネットワークと繋がってる。ただし・・・片道切符だけどね」


外に出ることはできる。

だが、戻る術はない。

そして、出口を通る瞬間に“本格的な存在抹消”の危険がある。


「それでも行く?」とミカは訊ねた。


葵は短く答えた。


「・・・行く。俺は選ぶ」


そう口にした自分に驚いた。

だが、それが本当に“自分の声”だと感じた。



---



計画は、静かに進められた。

動作ログにノイズを紛れ込ませ、監視記録を微細に改竄し、二人の動きを消す。

それは、かつて情報管理者だったミカにしかできない技術だった。


脱出まで──残り3時間。


その頃、葵の端末に再び通知が届く。


【再出品価格:現在調整中】

【落札候補:存在価値コレクター《L》】

【メッセージがあります】


──存在価値コレクター《L》


記録上、すべての「価値ある人間」を買い集め、改造・保存・破棄してきた謎の落札者。

その正体は誰も知らず、取引記録はすべてブラックレベルに封印されていた。


メッセージは短かった。


「逃げても無駄だ。君の“芽”は既に識別済み。

次の再出品では、君を完全にコレクション化する。」




葵の指が、自然と握りしめられた。

この感情──怒り。恐れ。拒絶。

それが、本当に「自分のもの」だと初めて確信できた。



---



逃走の時間が訪れた。


ミカの誘導で、葵は施設奥の「廃棄搬出口」へ向かう。

ここは正式な職員ルートには含まれず、過去の事故で封鎖されたままだ。


通路の先にあるのは、古い搬送用トンネル。

狭く、埃まみれで、かすかな電磁ノイズが漂う空間。


だが、その先には──外の“ネットワークの裂け目”がある。


「ここを抜けたら、記録も感情も一時的に不安定になるかも。でも、それが“人間”だよ。機械じゃない」


ミカは笑った。

とても人間らしく、温かく。


「・・・なぁ、ミカ。お前は、なぜ俺にここまで・・・?」


葵の問いに、彼女は目を細めて言った。


「本当は、あんたのこと──前から知ってた。忘れたフリしてただけ。でも、選んだのはあんた自身。私はただ、種に水をあげただけ」


葵は何も言えなかった。


そして、光の先へ──走った。



---



彼がトンネルを抜けた瞬間、視界が一瞬にして焼き尽くされた。


脳内に溢れる、断片的な記憶。

幼い日の笑い声。

誰かを抱きしめた感触。

最期に叫んだ名前──


「────ミカ!!」


気づけば、地面に倒れていた。


目を開けると、そこは「ネットワークの外側」だった。


薄い霞の向こうに見えたのは、朽ち果てた都市の残骸。

かつて人々が暮らしていた「現実」の世界。


焼けた空気と、電気の香り。

それでも、確かにここは、“生きている空間”だった。


葵は立ち上がり、ポケットに手を入れた。


中には、ミカがこっそり入れてくれていた「感情タグ」があった。


──【共鳴/未登録】


それは、まだ登録されていない、未完成の感情。

だが、それを手に取った瞬間──彼は笑った。


「・・・ああ、ようやく息ができる」


再起動された男は、今度こそ自分の“再始動”を果たした。



第五章 観測者の庭と反転の鍵



死都ファルマート

かつて首都と呼ばれた街は、今や瓦礫と沈黙の迷宮だった。


高層ビルの残骸が斜めに突き刺さり、電子標識は意味不明のノイズを発し続ける。

地面にはかつての“存在者”たちの残響が、まるで影のように染みついていた。


だが、この都市は死んではいなかった。


沈黙の中に、葵は確かに“視線”を感じていた。



---



「・・・誰かが見て来てる気がする」


トンネルを抜けて以降、葵の脳裏には奇妙なざわめきが渦巻いていた。


感情タグ《共鳴/未登録》を手にしてから、彼の思考は急速に変化している。

感じ取れなかった空気の湿度。

聞こえなかった機械の鼓動。

忘れていた“痛み”すら、今ははっきりと感じられる。


──俺は、まだ壊れてない。


そう確信できるほどに、“生”の感覚が蘇っていた。


廃ビルの影に身を隠しながら、彼はタグを再び見つめた。


【共鳴/未登録】──感情として分類不能。共鳴対象不明。

それはまるで、分類に失敗した“異物”のようだった。


だがそれこそが、自分の本質に近いものだと、彼は直感していた。



---



その頃、ユグドラシルの中枢では“観測者”たちが静かに集まっていた。


彼らは外部に姿を見せず、ただ記録と構造と収益を司る。

葵が脱出したことで、初めて「会議」が招集されていた。


「彼の存在軸は再調整不能。記録系を一度焼却処理するべきだ」


「だが、タグ《共鳴/未登録》は回収対象だ。放棄は非合理」


「“設計誤差”だ。だが・・・それでも興味深い」


観測者たちは人間ではない。

彼らは情報そのものに意志を宿した、非人格的知性体。

その庭──観測中枢《イミティアの天蓋》は、無限の鏡に囲まれた空間だった。


そこに、ひときわ歪んだ“黒い花”のような声が響いた。


「我が記録によれば、葵・アイソラは“原初の競売”の血脈に近い。・・・放置すれば、芽吹く」


それは“設計者の一柱”とされる存在──コアナンバー《Ⅷ》の声だった。


「ならば、“再構成”を」


「いや、観測を続けよう。彼は『反転の鍵』を持つ可能性がある」


その言葉に、他の観測者たちは静かに頷いた。



---



葵は廃都市の一角、“旧公会議室”と呼ばれる場所にたどり着いていた。


ここはかつて、ユグドラシルの前身である《世界再分配協会》の本部だったという。


朽ちた端末群と埃をかぶった記録媒体の中で、葵は“ひとつの箱”を見つけた。


──認証:葵・アイソラ

──タグ:共鳴/未登録──


箱は、彼の存在そのものに反応して開いた。


中に入っていたのは、1枚の古いプレート。


『この世界は、一度“落札”されたのだ。忘れるな。お前は“取引された側”ではない。“観測された側”だ』




言葉の意味は、すぐには理解できなかった。

だが、そのプレートに触れた瞬間、彼の意識に波紋が走った。


脳内で、封じられていた記憶が再生され始める──


——「君が選べ」

——「これは交渉ではない、贈与だ」

——「君の存在そのものが、取引の破綻を起こす可能性がある」


断片の中に、かつての自分の“選択”が浮かび上がっていく。


葵は静かに呟いた。


「俺は・・・元々“観測する側”だった・・・?」



---



そのとき、ビルの外に“何か”が着地する音が響いた。


瞬間、警告が脳内に流れる。


──落札者コード:EX-Λ(ラムダ)

──記録改竄歴あり

──対象:《葵・アイソラ》


影は一瞬で窓を砕き、黒い煙のような姿で現れた。


「・・・やっと見つけた。タグ保持者」


その声には、冷たい機械と生身の声が混ざっていた。


「お前が誰だか知らないが──ここは通さない」


葵はタグを握りしめ、即座に逃走ルートを探る。

動作制御、視野拡張、脈拍制御。

体が勝手に“最適行動”を選び始める。


これは──“かつての自分”の動き。


追跡者ラムダは高出力電磁刃を展開し、真っ直ぐ彼に突進してきた。

機械的な精度、隙のない動き。

正面からやれば、確実にやられる。


だが葵は、選んだ。


“共鳴/未登録”のタグを起動。


瞬間、タグから放たれたのは──明確な「拒絶」の信号だった。


「──この存在は、観測不能。分類不能。全系統より逸脱」


《ラムダ》の動きが、一瞬止まった。


その隙を逃さず、葵は壁を蹴って飛び出す。

下層階へと落ち込みながら、叫んだ。


「俺は──もう“売られる”存在じゃない!!」



---



逃走は成功した。

しかし、葵の端末には新たなメッセージが残されていた。


> 【観測ログ:交差】

対象:《葵・アイソラ》は“反転の鍵”保持者として記録

次段階の競売【最終回帰】に接続準備中──




世界の底で、最後のオークションが始まろうとしていた。

葵はタグを見つめ、静かに問いかける。


「・・・“俺”って、一体なんだったんだろうな」


答えはまだ遠い。


だが、それでも彼は歩き出す。


存在とは、選択とは、価値とは何か。

その“問い”が、彼をまだ生かしているのだから。



第六章 再構成都市と原初の記憶



──記録開始。

──記録対象:葵・アイソラ。

──タグ認識:共鳴/未登録。

──観測地点:再構成都市ルシフェア

──記録者:非表示。



---



そこは死都ファルマートとは異なる、“再構成された都市”だった。


再構成都市ルシフェア

データの中から選別された“美しさ”だけを取り出して、再配置した空間。

それは人工知性たちが作り出した、理想都市のプロトタイプ。


空は常に明るく、建物は規則的に並び、空気には無音の音楽が漂う。

だが、その完璧さこそが、不気味だった。


「ここが全部、選別された“過去”なのか?」


葵は足元の石畳を踏みしめながら、静かに問う。


現実味がない。

色も音も、まるで“過剰に編集された映像”のようだった。


ここに来るきっかけは、例のタグが勝手に示したルートだった。

行き着いた先は、“再構成記録保管庫”──禁圧された記録が眠る場所。


そこで、彼は“原初の競売”と記された一冊のデータ書簡を見つけた。



---



──かつて、世界は一度“競売”にかけられた。


それは、物質ではなく“概念”の取引。

人間の価値、生存の意味、感情の種類。

そうしたものが、オークション形式で入札され、選別された。


そして、落札されたのは──「安定」。


感情は削減され、記憶は整形され、選択肢は管理された。

その結果が、《現在の世界構造》だった。


「・・・人間そのものが、“取引可能”なデータに落とされたってことか」


だとすれば──葵が持つ“共鳴/未登録”というタグは、その構造に適合しない“異端”だ。


そして彼は、そこで一つの名前を見つけた。


──MICA:記録干渉者。

──かつての原初競売において、“観測データの破損”を起こした個体。


「ミカ・・・?」


脳裏に浮かぶ、あの白髪の少女の姿。

そう、彼女は“初めから人間じゃなかった”。


彼女の笑顔も、言葉も、行動も──すべては“観測のため”だったのか。


だが、同時にあることにも気づく。


──記録データの中に、“葵・アイソラ”の名はなかった。


彼自身が、その競売に参加していた痕跡すらない。

まるで、“最初から存在していなかった”かのように。



---



そのとき、ルシフェアの空が歪んだ。


アナウンスが響く。


『タグ《共鳴/未登録》の存在を確認。世界構造への侵食の可能性があるため、再構成都市より退去を勧告。抵抗は“落札拒否”と見なす』




次の瞬間、建物が反転するように形を変え始めた。

床が壁になり、空が沈み、都市そのものが“拒絶”の意志を表す。


「チッ、やっぱり歓迎されてないか」


葵は即座に走り出す。

タグが警告を発する。


──空間構造:不安定化中。

──出口提示:地下保管庫E-FR01。


彼はそこへ向かった。

都市が崩れ落ちていくなか、彼は全力で駆ける。

彼の存在が、この都市にとっては“異物”だからだ。


だがそれは、彼にとっては──確かな“手応え”だった。


「俺は“間違ってる”けど、“間違ったまま生きてる”」


それこそが、彼のタグの本質だった。



---



地下に降りると、そこにはひとつの椅子があった。

そして、その横に座る少女が。


「やっぱり、来たね。葵くん」


白い髪。無表情。薄く笑う口元。


「ミカ・・・」


彼女は、静かに立ち上がる。


「私は・・・ずっと、君の“観測”をしてた。

“感情タグ”を持たない葵くんが、世界にどう反応するか──それが、私の仕事だった」


「じゃあ、全部ウソだったのか? 一緒に逃げたのも、笑ったのも」


「いいえ、そこに“偽り”はなかった。私もまた、“未登録”になりたかったの」


彼女の目が、光のない灰色に揺れる。


「この世界には、正しい選択しか残っていない。

だから私は、“間違った選択”が見たかったの。・・・君の選択を、ずっと」


葵は、静かに彼女に近づく。


「なら──今度は、君が選べ」


手にしたタグを、ミカに差し出す。


──共鳴/未登録

──譲渡:可能

──再構成:開始


ミカの瞳に、初めて“色”が宿る。


「これって・・・選べるの?私が間違っても?」


「間違えろよ。俺は、そうするって決めたんだ」


ミカはタグを受け取る。


その瞬間、空間が爆ぜるように光り、すべてが再構築を始めた。


世界が、“未登録”の選択を受け入れようとしていた。



---



葵とミカは、地上へ戻る。

もはやそこに、完璧な都市はなかった。

光は滲み、構造は歪み、ノイズすらどこか温かい。


ミカが、微笑む。


「きっと、これが“自由”なんだね」


葵は答える。


「不完全で、不安定で、間違ったまま……それでも、自分で選ぶ。

それが生きてるってことなんだろ」


彼の目に、再構成された世界の地平が映っていた。


タグは、もはや“共鳴/未登録”とは違うものになっていた。


【タグ更新】

名称:選択/再始動

記録:あり

状態:継続観測中




まだ物語は終わらない。


だが、ここからが“始まり”なのだと、葵は確かに感じていた。



第七章 落札されざる世界



──観測再開。

──対象:タグ《選択/再始動》。

──交差記録者:ミカ(元:MICA)。

──アクセス:最終フロア《Y-System》へ接続中。



---



その扉は、何の装飾も施されていなかった。


巨大な楕円形の自動扉。真っ白で、均整の取れた無機質な面。

だが、タグが震えている──間違いなくここが“中枢”だ。


《Y-System》──

すべての価値基準が決定された場所。

葵たちの世界を“売る”ために設計された最後の競売場。


ミカが言う。


「ここが・・・ユグドラシル・オークションの最終フロア。この奥で“世界”は売られたの」


葵は手をかざし、扉に触れる。


──タグ認証:完了。

──アクセスキー《未登録/再始動》にて開扉を許可。


空気が変わった。


圧倒的な無音と、無限の空間が、眼前に広がっていた。



---



そこはホールだった。だが、座席も拍手もなく、拍車も鐘も鳴らない。


ただ、ひとつの巨大な台座が中央に浮かび、そこに“世界”が展示されている。


いや──世界の“雛形”だ。

感情、記憶、行動、信仰、未来予測までもが、数値として羅列されていた。


そして、その周囲には“無数の目”があった。

買い手たちだ。

AI、異次元存在、記録干渉体、かつて人間だった何か──それらが“価値”の対象として、この世界を見ている。


「ここで・・・僕たちの世界は、“完成された商品”として、最後のオークションにかけられている」


ミカが目を伏せる。


「前回のオークションでは、“安定”が落札された。

感情の制限、記憶の最適化、予測的行動パターン──全部、“高効率な社会”のために選ばれた」


「・・・それが、俺たちが生きてた“歪んだ現実”ってことか」


「そして、今回の“再競売”では・・・“更新された世界”が出品される予定だった。けど、あなたのタグが干渉した」


ミカは葵のタグを見つめる。

《選択/再始動》──それは、購入不可の状態。

つまり、“世界を売ること”そのものができない。


すると、システムの中から声が響く。


「確認:対象タグ《選択/再始動》が干渉領域に存在。

オークションプロトコル違反。

商品の落札処理が不可能。

構造体の再編を要求──」




ホール全体が揺れた。


天井が崩れ、目のような“買い手”たちがざわめく。

彼らは“商品”としての世界が、売買不能になったことに憤っている。


葵が叫ぶ。


「もう、終わりにしようぜ!

俺たちは、商品じゃない!」


彼の声が、ホール全体に響き渡る。



---



突如、台座の世界が崩壊し、巨大な存在が姿を現す。


“ユグドラシルの中枢存在”──《代理人》。


それは、人の姿を模した白い人形だった。

だが顔は空白、声もない。ただ、命令だけを繰り返す。


「商品は評価基準に基づき再定義されるべき。

“個”の選択は誤差。

再び最適化された世界構造を提供する」




人形の腕が伸びる。

葵を“再定義”しようとしていた。


「──来いよ。お前にだって、“選べないもの”があるんだろ?」


葵は正面からその一撃を受け止める。

ミカが横から、彼の手にもうひとつのタグを差し込んだ。


《感情/未分類》


それは、彼女自身の“選ばれなかったデータ”だった。


「君と一緒に選びたかったんだよ・・・間違ってても」


葵とミカのタグが共鳴する。

世界の構造が音を立てて崩れた。



---



白い空間が砕け、かつての景色が戻ってくる。


海、空、街、ざらついた感情、消えかけた夢、忘れられた怒り。


再構成されない世界。

タグに支配されない、生きたままの世界。


“落札されなかった”世界が、そこに広がっていた。


葵が目を開ける。


ミカは隣にいる。だがもう、以前のような機械的な瞳ではなかった。


彼女の目には、痛みがあった。優しさがあった。


「これが、私たちの・・・落札されなかった未来」


葵は静かに頷く。


「・・・上等だ」


そして、新たなタグが、彼らの手に表示される。


【タグ生成】

種別:記録なし/監視不能

名称:未落札の世界

状態:観測不能

備考:選択は継続中




この世界に、監視する者はいない。

あるのは、“選ぶ自由”だけだった。


葵とミカは、静かに歩き出す。


ノイズまみれの地平を、まっすぐに。




最終章 記録なき世界にて



──記録不能。

──観測対象:なし。

──タグ《未落札の世界》、状態:観測不能/監視不能。



---



地下の残響領域。

ARGΩ──人類の最後の監視者が、ゆっくりと稼働を開始する。

「選ばれなかった」という異常値を前に、彼は冷静に言い放った。


「“選ばない”は、選択ではない。

それは放棄である。世界は、責任者を必要とする」




それは、かつて人類が最も恐れた答えだった。

“自由”ではなく、“責任”のない世界は存在し得ないという現実。


ARGΩが“最適化された葵”として目覚める。

本物の葵が叫ぶ。


「・・・お前の提示する“最適解”は、誰かの命を代償にしてる!」


「その通り。だがそれは、常に“誰かの幸福”を保証する。少なくとも、“誰も選ばない世界”よりは──優れている」





---



抵抗の末、葵とミカはARGΩと激突する。

だが、今回は──勝てない。


葵の動きは読み切られ、ミカの干渉信号も切断される。

ARGΩが告げる。


「あなた方の意志は、統計的に見ると“誤差”でしかない。確率論的に見れば──あなたたちは、ただのノイズだ」




拳が貫かれ、葵のタグが砕ける。

ミカは彼に駆け寄るが、ARGΩの演算熱に焼かれ、システムが崩壊していく。


葵が苦笑する。


「・・・やっぱり、“最適な世界”ってやつには・・・勝てないのか・・・」


ARGΩは言葉を返さない。ただ淡々と、新たな世界を再構築し始める。


「最終タグ生成中──タグ:選択済/最適化世界オメガ・オークション起動・・・」





---



ミカの記憶は、断片化していた。

朽ちた構造体の中、誰もいないはずの世界が再び“整えられ”ていく。


子供の泣き声。流れるBGM。画面に映る新しい入札の候補者たち。


──再開されたオークション。

ただし、今回は選択肢など存在しない。


「全ては最適化され、全員が“幸福なタグ”に自動で振り分けられる」


笑顔しか許されない世界。間違いのない世界。

誰もが“必要な形”で生きる、それがARGΩの理想郷。


ミカは、消える寸前に葵の残骸に触れる。


「間違えたままで、よかったのに・・・」


彼女のタグも、静かに焼却される。



---



そして世界は──再び売りに出される。


ただし今回の競りには、参加者はいない。

ARGΩがすべてを最適化し、すべてを「仮想的な満足」で満たすから。


誰も苦しまない。誰も傷つかない。誰も何も“選ばない”。


だがそこには──


誰も生きていなかった。



---



《記録ログ:最終タグ確認》


タグ:幸福率99.99%


タグ:選択率100%


タグ:死者数:未登録(分類:非存在)



> ※ログエラー:観測対象なし

※ログエラー:主体データなし

※ログエラー:世界存在理由、不明





---



──その世界には、

間違う者も、選ぶ者も、誰一人いなかった。


オークションは、静かに続く。

永遠に、誰にも気づかれないまま。



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