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喪失の紅

作者: 猫絵師

 秋の堤に一斉に咲いた紅。


 その目も覚めるような風景の中に、草臥れた姿の壮年の僧侶が、これまた古びた祠に祀られた地蔵様に念仏を捧げている。


 その熱心な信心を称賛するように、高く遠い空から降りてくる乾いた秋風が読経を上げる僧を撫でて行った。


 その淀みなく柔らかな読経は彼の岸にまで届き、亡者を救うもののように思われた。


 流れるように続く読経を遮る怒声が無粋にもそれを止めた。


 「安浄殿!!」


 歳の頃は二十歳前後であろう。


 読経を上げていた僧はしばし沈黙したが、自分に向けられた怒声に振り返る事は無かった。


 彼はその声をよく知っていたからだ…


 そして、その若者の怒りの理由にも彼には覚えがあった。


「安浄殿!これが何なのか、ご説明願う!」


 そう言って怒りを顕にする青年が掲げるように見せたのは与力や同心が使う捕具|《十手》だ。


 呼びかけにゆっくりと振り返った僧の視線が青年に向かう。その視線が青年の手にした悪しき過去に留まる。


「…見つかって…しまいましたなぁ…」


 その呟きは罪を白日のもとに晒された後ろ暗さより、隠れ鬼で最後に見つかった子供のような安堵したような響きがあった。


「説明は、要りますかな、頼重殿?」


「安浄殿…」


「それは、貴方がお探しだったものです…どうしても…どうしても捨てられなんだ…


 馬鹿でしょう?私は、自分の罪の証を…貴方の父君を殺した証を持ち続けていたのですから…」


 安浄はそう言って静かな視線を青年に向けていた。


 安浄は頼重の返事を待っていた。


 沈黙を嫌がるように、二人の間を秋の乾いた風が通り抜けた。


 返事を促すように、辺り一面に咲いた紅い花が頭を振ってざわざわと揺れていた。


✩.*˚


 頼重の生家である《日野家》は代々|《与力》を勤める家であった。


 《与力》とは町奉行の配下で市中の治安維持などの役割を持つ士分である。


 頼重の父・頼家も与力であった。この父は頼重にとって自慢であり、目指すべき人物だった。

 

 真面目で実直な人物だが、人当たりはよく、粘り強く情に厚い。文武に通じており、町奉行でも一目置かれている存在だった。


 《相談があればまず日野殿へ》というのが町人の間でも言われるくらいだ。


 その頼家が、ある日刃傷沙汰で命を落とした。


 頼重が八歳の頃であった。


 頼家は刀を握ったまま事切れており、それが問題になった。


 武士が市中で刀を抜いたのだ。よほどの理由があったとしても、これは詮議にかけられることであった。しかも、刀を抜いた末に不名誉にも命を落としている。これは大問題であった。


 奉行所では与力たちや同心らを集め、急ぎ事件に当たったが、それにより、一人の同心の行方がわからなくなっていることが判明する。


 頼家の配下の同心であった《野木宗紀(むねとし)》という男である。


 頼家が最後に会っていたのはこの同心だったとの目撃証言もあり、何らかの理由で頼家と野木が刃傷沙汰を起こし、頼家を殺めた野木が逃走出奔したというのが事のあらましであった。


 野木はお尋ね者として手配されたが、それで事は終わらなかった。


 武士が刀を抜いたのだ。


 日野家は当主を失ったが、同時に代々受け持っていた与力としての立場も危ぶまれた。


 幸い、町奉行でも町民たちからも好人物として知られていた頼家のおかげで、お奉行様から温情を与えられることになった。


《長男・頼重が元服したら仇討ちすること》を条件に、日野家は取り潰しを免れた。


 しかし、それ以上の助けは無く、頼重は幼くして日野家の命運を背負うという重責を背負うことになったのだ。


 ✩.*˚


 仇討ちのために生きる頼重は奉行所に届くお尋ね者の情報を元に宗紀の行方を探した。


 十四歳で元服し、それまでに集まった情報を持ってそれらしき場所に足を運んだが、相手も居場所を転々としているようだった。


 そうしている間に、いつの間にか、少年は青年になっていた。


 甘えなど許されぬ人生だった。しかし、父から真面目と粘り強さを受け継いた青年は失ったものを取り戻すために来る日も来る日も仇を探し続けた。


 そして、十八の寒い冬の日だった。


 それまで無理を続けていたこともあり、その日は特に体調が悪かった。


 山道を進む途中で、雪に隠れた道を見失い、獣の道に入ってしまったのだろう。意識が朦朧としていたのも原因だったかも知れない。頼重は道に迷ってしまった。


『大丈夫ですか?』と声をかけてくれた人がいなかったら、彼は志半ばで無念の死を遂げていただろう。


『御仏のお導きです。頼重殿をお救いくださった御仏の慈悲に感謝なさいませ』と微笑みながら、痩せた旅装の僧は親切に頼重を介抱してくれた。


 彼は頼重に《安浄》と名乗った。


 自らの功徳を積むべく、各地を巡って経を奉納しているとのことだった。


 仇討ちで、人を殺めるために各地を巡る自分と真逆の存在である安浄に頼重は複雑な感情を覚えた。


 体調が戻るまで安浄は頼重の世話を焼いてくれた。


 彼のおかげで屋根のある場所で夜を明かすことができるようになり、頼重も少しばかり人としての生き方を取り戻していた。


 安浄もこの若者の境遇を不憫に思ったらしく世話を焼き、仏門を説いて経を教えた。


 頼重は仏門を志す気はないので、『経は必要ない』と断ったが、安浄は『仇討ちを果たした後に必要でしょうから』と、頼んでも無いのに頼重の隣で経を読み続けた。


 《門前の小僧習わぬ経を読む》とはよく言ったものだ。


 安浄の経は頼重の記憶に刷り込まれてしまった。


 その頃には頼重は仇討ちという目的を見失いつつあった。


 安浄と行動をともにして、微温い生活を覚えてしまったからだろう。


 《このまま》と、思う自分を叱咤して、慌てて憎しみを引き出す日が続いた。


 人相書きを睨んで、書き写した野木の足取りを読み返した。


 それでも一度緩んでしまった憎しみの糸を張り詰めるには足りなかった。


 もう、仇討ちを諦めて、日野家の再興も与力の職も諦めるべきなのだろうか…


 そんな弱い心を、父が知ったら親不孝者と叱るだろうか…


 答えのない日々が続いた。その間も、安浄は頼重の傍らで誰へともわからぬ経を読み続けていた。


 そうして悩んでいる間に、いつしか時は過ぎ、緑の萌える季節から、野原も土手も山並みも紅く染まる季節にうつろっていった。


✩.*˚


 先に沈黙を破ったのは安浄であった。


「頼重殿。私と問答致しましょう」と安浄は頼重に提案した。


「そうやって、はぐらかすおつもりか?」


「いいえ。問うのは頼重殿です。そして答えるのは私です。嘘偽り無くお答えします。私も、頼家殿に手をかけたあの日のことが忘れられないのです…」


 そう言って安浄は野木宗紀が日野頼家に手をかけた真実を語り始めた。


 ✩.*˚


 野木宗紀は野木家の三男であった。家督は望めぬ。それでも同心として引き立てられたのは頼家の信頼を勝ち得たからだ。


 彼は正義感が強く、何より頼家に心酔していた。頼家も自分を兄のように慕う宗紀を信頼して仕事を任せていた。


 それでも、その関係を崩してしまったのは宗紀だった。最初は些細なことであった。


 生活にも金がいる。実際、まだ若い同心に活躍の機会は少なく、給金も決して多いものでは無かった。

 

 名誉のある仕事ではあるが、それとこれとは話が違う。自分の岡っ引きを雇うのにも金は必要だ。町屋などからの付け届けなどの別収入があって、ようやく一人前の同心として活躍ができるのだ。


 懐はいつも侘びしかった。


 そんな折だった。入り用があって金を借りた。しかし、その相手が悪かったのだ…


 金を工面してくれた相手は裏の顔があった。人を攫って売り捌いていたのだ。


 宗紀がそれを知った頃にはもう後に引けぬことになっていた。


 そしてその話は宗紀が一番知られたくない相手の耳に入ってしまった。


『どうして見逃した?私に相談せなんだ?』と頼家は話を聞く姿勢を見せた。


 それに答えることができなかったのは、彼の矜持が許せなかったからだ。宗紀は、頼家への忠義より、自分の体裁を選んでしまった…


 引くことのない頼家に、宗紀の抱えていた罪悪感が暴走してしまった。本来なら自分に向けれられるべき憎悪が頼家に向かってしまったのだ。


 正気に戻った宗紀の前には、紅い血溜まりに沈む頼家の姿があった。


✩.*˚


 誰も知り得ない過去を語り、安浄は、ふぅ、とため息を空に放った。


 それは彼が今まで胸に秘めていた自らの罪を解き放ったことで安堵したため息だったのだろうか?


 勝手に楽になろうとしている狡い男の姿に、頼重の消えかけていた怒りの灯火が吹き上がり熱を上げた。


 右手は腰に挿した刀の柄に向かった。安浄もそれには気づいていた。


「…仇討ちの前に一つ」と静かに安浄が呟いた。


「言い訳など聞かぬ。父上と日野家の名誉のため、素っ首貰い受ける」


「差し上げましょう。貴方が頼家殿の御子息と気付いたときから、その腹積もりでした。しかし、父君の名誉を守りたいなら、この事実は知るべきです。


 頼重殿。頼家殿は刀を抜いてなかったのです。あの人は最後まで正しかった…私がそれを、頼家殿の正義を汚したのです…」


 唐突に湧いた真実に頼重の手は刀の柄で固まった。


「なん…だと…」


「事実です。頼家殿は私の知る限り、本物の武士でした。


 私が刀を抜いても、頼家殿は十手を構えただけで、刀を抜くことはありませんでした。


 市中で刀を抜けば、私を討ち果たさねばなりません。そうでなければ終われないのです…

 

 おそらく、頼家殿はあの状況でも私を正そうとしていたのでしょう。私は…それが分からなかった…」


「しかし、父上は刀を握っていたのだぞ?」


「私が致しました。自らの逃げのため、頼家殿のご遺体から握っていた十手を取り上げて、刀を握らせました。


 私の浅ましさが…頼家殿だけでなく、頼家殿が命を落としてまで護ろうとした日野家にまで類を及ばせました…頼家殿が最後まで武士として生きたというのに…道を示したというのに、私がそれをすべて台無しにしました…ですから、今日の日までその十手は捨てられなかったのです」


 安浄が頼家の十手を捨てられずにいたのは自らの罪を悔いていた証だった。


「頼家殿に手をかけた後、逃げ続け、行き着いた先で旅の僧に出会いました。《安浄上人》は私に罪に向き合う時間をくださいました。


 頼重殿にお会いしたあの山の獣道を覚えてますか?あの同じ場所で、私は腹を切ろうとしていたのです。あそこは、私が安浄上人に救われ、生まれ変わった場所なのです」


 懐かしそうな表情を浮かべ、安浄はゆっくりと地蔵の祠から離れると、首にかけていた数珠を外した。


 すでに襤褸となっていた袈裟と着物を脱ぎ、彼は襦袢姿になった。


 それはまるで今から腹を切る死装束のようであった。


 その異質な姿は、紅い紅い彼岸花の中で幽鬼のように浮いて見えた…


 もう何も残すことは無いのだろう。安浄は頼重の前で膝を折って(こうべ)を垂れた。


 坊主頭と胴をつなぐ(うなじ)は痩せてか細かった。

 

「念仏は、覚えられましたかな?」


 まるでどこか他人事のように安浄が問うた。


「…嫌でも、耳に残っている」


 子守唄のように、こっそりと刷り込まれた念仏はこのときのためのものだったのだろう…


 なんと打算高い男か…最後まで彼は卑怯者だった…


「ようございました」と呟く安浄の声には滲むような優しさと、覚悟があった。


 柄を握って固まっていた頼重の手元が動いた。


 長い苦行を終えた頼重の目に、紅だけが強く記憶に残った…


✩.*˚


 見事、父の仇討ちを果たした頼重は日野家に凱旋した。


 頼重の仇討ちの物語は尾ひれが着いて町中に知れ渡った。


「大儀であった」と褒めるお奉行様の言葉は、深く頭を下げたままの頼重の心には響かなかった。


 頼重は日野家を継ぐ事を許され、日野家は与力の職に残った。


 頼家の最後を知ったお奉行様は頼家の名誉を回復させ、頼家のためにと日野家の傍に小さな地蔵堂が用意された。《日野地蔵》《仇討ち地蔵》と呼ばれる地蔵は日野家の名誉回復に一役買った。


 安浄の首は晒し首になった後、野木の本家も引取を拒否したため、その行く末を知るものはない。


 日野家の菩提寺の隅に、《安浄》と刻まれた小さな塚が存在することは寺で隠れ鬼をしてた子供しか知らない。


 そして、彼岸になると塚を訪れる十手を腰に挿したお侍様の存在も、そのお侍様が坊主よりも上手に経を読むことも、全部全部、子供の戯言と片付けられてしまうのだろう…

最後まで読んで頂きありがとうございます。


Xで募集されていた《仇討ちの相手を見つけたけどいい人だった。困ったぞ、さあどうする》みたいな投稿を見て考えついた作品です。


仇討ちって意外と作法があるので調べてみると興味深いです。


またこういう昔話みたいなお話を書きたいと思ってます。


今回の話を楽しんでいただけたなら嬉しいです。


ご感想ございましたら励みになりますのでお気軽によろしくお願い致します。

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