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砂竜使いナージファの養女  作者: 平本りこ
終章

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3 どうか幸せに


 西への出立の朝、アイシャは一人、水辺を訪れていた。


 黄金色の慈雨(じう)の恵みにより、オアシスのなかった砂漠南部にも水場が出現した。赤の氏族はこのオアシスを基盤として、天幕を移動させつつ、放牧にて生計を立てている。


 朝靄(あさもや)の中、生い茂るナツメヤシの下で、アイシャは青々とした草地に膝を突き、泉を覗き込む。


 砂が浮いてやや濁った水面に映るのは、いつ見ても垢抜けない、地味な顔。しかし、遥か昔、同じように宮殿の泉を覗き込んだ際に見えた軟弱な表情とは、少し違う。


 あの時は、何も知らず、何も知ろうとせず、ただひたすら全ての事柄から逃げていた。


 世界の美しさを知らず、人の温もりも知らない。後宮(ハレム)の隅で息を殺して生きていた。それがあの日、転機を迎えた。天竜の泉に映る己の顔を見つめ、水に引きずり込まれた。それが全ての始まりだったのだ。


 アイシャは指を伸ばし、水面を撫でる。さざ波が立ち、早朝の淡い陽光を反射した。水鏡に照射された光が手首の腕輪を鈍い銀に煌めかせる。


 母ナージファの腕輪は神聖なる力を失って、酸化した暗い銀色へと姿を変えた。いや、おそらく元は、銀の腕輪だったのだろう。ニスリン皇女が水中の友に贈った腕輪。天竜の強き意思により黄金を纏い、役目を終えて最後には何の変哲もない装飾品へと戻った。


 もはや禍々(まがまが)しいものではなくなった母の遺品を、アイシャは今日まで毎日身に着けてきた。


 大人になり、旅をして、大切なものや守りたいものができ。庇護を受ける者から庇護する者になったとしても、母はやはり偉大である。心折れる日にはいつでも、ナージファの温もりを思い出す。


 しかしとうに、母はいない。その肉体は砂に還り、精神は水になって天に昇り、世界を循環しているのだ。


 腕輪は母の唯一の思い出の品だけれど、この硬質な物質の中に、彼女はいない。アイシャは(おもむろ)に腕輪を抜き取り、光に(かざ)す。


 あの日、ナージファに出会わなければ。赤の氏族は一度も滅びることなく、今も大所帯で、賑やかで平穏な繁栄を謳歌(おうか)していたただろう。


 しかしあの日、ナージファに出会わなければ。天竜の心が救われることはなく、砂漠は今も渇きに満ちて、砂竜が増えることもなかったはずだ。


「一年経って、やっとわかった。これも、正しかったんだよね、母様(かあさま)


 囁けば、まるで応えるかのように、腕輪が煌めいた。 


 アイシャは静かに微笑んで、銀色を胸に抱いて目を閉じる。いるはずのない母に語りかける。


「母様、あたしはもう、独りじゃない。今までは母様に甘え切ってしまったけど、これからは、皆と生きて行く。だから、安心して見守っていてね」


 瞼を開け、腕輪を眼前に掲げ、最後の名残(なごり)を惜しんでから、アイシャはそれを泉に投げた。


 重たい着水音がして、小さな水飛沫(みずしぶき)が上がる。その残滓(ざんし)が溶け去って、波紋を描いた水面が再び平坦になるのを見守ってから、アイシャは穏やかな心地で(きびす)を返す。


 その刹那、アイシャの耳朶(じだ)を、微風が撫でた。


『立派だった。よく頑張ったな。さすがはあたしの娘――』


 アイシャは思わず足を止め、水辺を振り返った。聞こえるはずのない声は、ほんの束の間のことで、きっと空耳だったのだろう。


 しかし、アイシャはもう一度、水辺に立ち込める(もや)の中に、小さな祈りを聞いた気がした。


『どうか、幸せに』


 水は巡る。いつかどこかで、離れた誰かと繋がる時が来る。今日だけは、都合の良い幻想に、心を(ゆだ)ねても良いだろう。


「母様がこの砂漠に連れて来てくれたから、あたしは幸せになれたよ」


 ありがとう、を口の中で転がして、アイシャは再び歩き始める。


 砂丘を越えればそこには、黒い天幕が(まだ)らに並ぶ。山羊と羊の群れがざわざわと揺れ、駱駝が眠たげな顔で草を咀嚼する。砂竜が日向(ひなた)ぼっこをして、子供らの呆れてしまうような奇声が集落に彩りを加える。


「アイシャ、アイシャ! 大変だ、こいつまた俺の膝の上で漏らした!」


 ファイサルの情けない叫びが、いやに大きく響く朝。もう背後は振り返らない。いつもと変わらぬ集落の喧噪(けんそう)が、アイシャを待っているのだから。



終章 終

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