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砂竜使いナージファの養女  作者: 平本りこ
黒の章

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17 お帰り、アイシャ


 遥か上空を、アイシャは駆け抜けた。人の身では到底成し得ぬことであるが、不快感は皆無である。


 風に撫でられた天竜の鱗が一つ、光の欠片となって零れ落ちる。アイシャはその光に乗り、世界を巡る水の一粒となり、やがて雨に交じって渇きの大地へと降り注ぐ。


 天を仰ぎ、アイシャの心は涙を流す。我が子も同然のアジュルと、哀れな天竜とその友が、一時は憎悪さえした世界を光で満たしている。神々しく、愛おしい雨の中、アイシャは重たい砂に沈み込み、遥か地底を目指して突き進む。


 世界中に張り巡らされた水脈を通じ、アイシャは自身の帰るべき場所を探す。しばしの放浪の末、全てを知る水の導きで、己の肉体を見つけた時には、胸に温かな火が灯るような心地がした。


 砂漠の東方、青の氏族の集落にて、アイシャは暗い天幕の中、横たわっている。身体は宮殿の泉からファイサルにより引き上げられて、今や仮死状態となっているらしい。命を繋いでいるのは、その右腕に煌めく黄金色の腕輪である。


 アジュルが黒く染まってから、腕輪は身に着けていなかった。それなのに、どうしてそれはアイシャの腕に巻き付いているのか。答えは水が教えてくれる。どうやら、従弟(いとこ)のお手柄であるらしい。


 ファイサルをはじめとする負傷者は、黄金色の慈雨(じう)により一命を取り留めた。その時の水の働きにより、ファイサルは僅かなりとも天竜との結びつきを得ていたようだ。


 さらに、無謀にもアイシャの身体を水底に探しに行ったファイサルは、生粋(きっすい)の砂漠の民。無論、泳ぎなどできやしないので、半ば溺れかけて水をしこたま飲み込んだ。


 彼は、アイシャやニスリンと同じように、神聖なる水をその身に宿すことになり、天竜や、それと同化して消えて行こうとするニスリン皇女との繋がりを手に入れたのだ。


 ニスリンはファイサルの夢に現れて、語りかけた。雨が降れば腕輪を雨水に晒し、晴天の日にはそれをアイシャの身体から離さぬようにと。


 腕輪は黄金色の慈雨を浴び、やがて力を取り戻す。腕輪に残されていたニスリン皇女の残滓(ざんし)が水の記憶と混ざり合い、世界に具現化する力を手に入れる。


 それからニスリンは、水になりかけていたアイシャを呼び覚まし、天竜の友としての役目を引き継いで、自身は水となり空へと消えて行く。その時まで、肉体が残っていれば、アイシャは再び戻ることができるだろう。それが、ニスリンの計画であり、最後の願いだった。


 その間、泳げもしないのに泉に飛び込んだり、雨が降れば伯母の遺品を野晒しにしたりと奇行が絶えないファイサルを、周囲は哀れみの目で見守っていた。


 氏族を失い、唯一の家族であった従姉(いとこ)が仮死状態。さらには、彼は瘴気の中に長時間身を晒したのである。とうとう気が狂ったのだと陰口を叩かれたが、ファイサルの意志は変わらなかった。


 アイシャは水を通じ、いつになく健気な従弟の様子を眺め、一日でも早く家族の元へ帰りたいと願った。


 そうして時は巡り、祈りは満ちる。


 突如、アイシャの世界が光で満たされる。黄金色の、眩いばかりの光である。しかしそれは目に痛い(たぐい)の物ではなく、どこか慈愛に満ちた、懐かしい光であった。


 それは、母の胎内から生まれ落ちた際、初めて出会った世界の輝きを彷彿とさせる。再び命を始めるための、祝福のようだった。



 光が消えて、仄暗い天幕の天井が目に映る。何度か瞬きをして、上体を起こす。右腕に重量感を覚え、視線を落とそうとしたアイシャは、前方に座した人物に目を奪われた。


 右目の辺りに赤い布。それが、癒えてもなお亀裂を残す顔面の傷を覆うための物であると理解して、反射的に呟いた。


「母様……」


 だがしかし、眼前の人物はナージファではない。幾度か瞬きする度に、母の幻影は薄れ、従弟の見慣れた輪郭が浮かび上がる。彼は、今にも泣きだしそうな強がりを頬に張り付かせ、口の端を持ち上げた。


「お帰り、アイシャ。これ、伯母さんみたいでかっこいいだろ」


 つん、と鼻の奥が痛む。水になっていた頃には一切感じることのなかった、肉体の不快な感覚。しかしこの痛みは、感動を増幅する類の疼痛だ。嬉しくて幸せであることは同時に、痛くて苦しい。だからこそ、生きることは素晴らしい。


「ファイサル、ただいま」


 すっかり傷が癒えた様子の従弟を見つめ、温もりを求めて腕を伸ばす。その手首には、()()の腕輪。かつての金色の輝きを失い抜け殻となった、天竜の腕輪であった。



黒の章 終

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