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砂竜使いナージファの養女  作者: 平本りこ
黒の章

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16 ニスリンの導き


 一切の無に身を沈めながらも、ほとんど全てが満たされている。矛盾に満ちた言葉だけれど、そんな心地であった。


 慈雨(じう)は、何日続いたのだろうか。断続的な雨だったのかもしれないし、何日かに一度、いや、もしかすると数ヶ月に一度の降雨だったのかもしれない。


 有と無の境もなく、光も闇も知らない。しかし、喜びも悲しみも、全ての感情がこの心に宿る。そんな世界であった。


 膨大な水の一粒となり、個という認識の境界線を失いつつあったとき、世界にぼんやりと七色の光が灯った。


「アイシャ」


 それが己の名だと思い出すまで、いかほどの時間を要しただろう。辛抱強く呼びかけられてやっと、アイシャは()を上げた。


 久方ぶりの光を眼球に受け、何度か瞬きを繰り返す。色彩が目に馴染めば、眼前の暗闇に浮遊する、一頭の赤き砂竜と一人の女性を見た。


 見慣れぬ女は、夜の紫紺(しこん)を溶かして固めたような艶やかな髪を持ち、瞳は青……いや、角度によって色を変える、七色の瞳だ。白皙(はくせき)の頬は柔らかく笑みの形に持ち上がり、ふくよかな唇は薄紅。匂い立つような美貌の、見知らぬ女だった。しかしアイシャは、それが誰であるか即座に理解する。


「ニスリン皇女……? それに、アジュル」


 女は小さく頷いて、花が綻ぶような笑みを浮かべた。鈴の音よりも上品な声が、空間を震わせる。


「アイシャ、ありがとう。これでもう、あの方は大丈夫。世界に愛されていたことを思い出し、静かに水の一つに戻り、世界を巡る。そうして生物の営みを循環して、全てを見守るの」


 アイシャは、乱雑に散りばめられていた思考を一つ一つまとめ上げてから、怪訝に思い問うた。


「あなたは、なぜここに」

「まあ。ずっと一緒にいたのに、忘れてしまったの?」


 ニスリンの白い指が指し示すのは、アイシャの右腕。そこに硬質な物があると認識した瞬間、それは金色に輝いて、空間を明るく照らした。


 アイシャは動揺して、腕を振りまわす。


「ど、どうして腕輪が! 青の集落に置いて来たはずなのに」


 ニスリンはころころと笑い、不意に瞳に影を落とす。


「怖がらないで。私はずっとそこにいたの。ナージファを見守り、それからアイシャを見守った」

「じゃあ、母様や、赤の氏族の皆がどうなったかも知って?」


 棘のある声音になってしまい、アイシャは少し後悔する。ニスリンが目を伏せたからだ。長い睫毛が頬に憂いを帯びた影を落とす。


「想定外だったの。実際、あの方のためならばこんな国など無くなってもいいと思っていたわ。けれどこれほど大きな事件に発展するだなんて思わなかった。ましてやナージファを傷つけるつもりなんてなかったのよ。私が無知で軽率だったから、結果的に彼女が大切にしていたものまで焼き尽くしてしまった。あなただって、私を憎んでいるでしょうね」


 憎しみ。そのような俗人じみた感情は、水に溶かして消し去ってしまったようだ。アイシャは妙に穏やかな心持ちで、世間知らずな叔母の顔を眺めた。


「あなただけのせいじゃない。あなたはただ、天竜を助けたかったんだね」

「でも私は力不足だった。だから、ナージファに全てを託したの。それが、まさかあんなことに……」

「そうだ、母様はどこに? 叔母様がここにいるってことはもしかして」


 アイシャの声に滲んだ微かな希望を打ち消すように、ニスリンは悲し気に首を振る。


「水の中にいるわ。いつかきっとあなたの所に巡って来る」


 水の中に。それはつまり、肉体は砂に、精神は水に還ったということだ。


 アイシャは俯き、唇を噛む。やはり母は、とうに命を失っていた。もう会うことは叶わない。この大冒険を誉めてくれることもないし、よくやったなと頭を撫でてもらうこともできない。


 紫の集落で突き落とされた深淵よりも深い闇に、沈み込むような絶望を覚えた。


「でも」


 ニスリンは言う。


「あなたを慈しむ人は、他にもいるでしょう」

「慈しむ人?」

「あなたが守りたかったもののこと。私が大切にした人は数えるほどだったけれど、あなたはもっとたくさんの縁を手に入れた。だからそろそろ、戻るべきよ」


 ニスリンからもたらされた想定外の提案に、アイシャは目を丸くする。


「戻るって……」

「アイシャに戻るのよ。まだ間に合うはず。でもこれ以上は、あなたの肉体が持たないわ」

「でもあたし、天竜と約束したの。ずっと一緒にいるって」

「その役目は、私が引き継ぐ」

「あなたが?」


 どうして今更、と過った疑問を見透かすように、ニスリンは微笑む。


「腕輪が慈雨を浴び、私は再び顕現(けんげん)する力を取り戻した。これからは、私が天竜様を支えるわ。だからアイシャ、あなたは、あなたを求める人達のところへ」


 刹那、腕輪が再び発光する。その途端、羽根のように軽やかだったアイシャの意識は重く沈殿し、息苦しさと渇きを覚え、苦痛に喘いだ。


「く、苦しい」

「ええ、生きることは苦しい。生物はいつかは死んで、砂と水に還る。でもあなたはまだ、その時ではない」

「どういうこと」


 腕輪から発せられる光がいっそう強くなる。ニスリンとアジュルの姿が、強烈な光に掻き消されるように、ぼやけていく。


「待って、叔母様。アジュル!」


 伸ばした指先に、堪りかねたような様子のアジュルが駆け寄って来る。抱き締めた鱗の滑らかな感触に、止めどない愛おしさ込み上げる。


「アジュル! 一緒に戻ろう」

「ううん。アジュルは、帰れない」


 流暢(りゅうちょう)な人語だ。天竜と融合を果たしてから、アジュルはこうして言葉を理解したようだ。


「ど、どうして?」

「母様が、寂しがるから」

「そんなっ! あたしも寂しい」

「アジュルも寂しい。でもこれは仕方のないこと。アジュルは母様の子供。人のことは大好きだけど、人間じゃないから……。アイシャ、これを」


 アジュルが自身の足元に視線を落とす。そこには、人間の頭部ほどの乳白色が二つ。竜卵(りゅうらん)だ。


「アイシャにあげる。アジュルの卵。アイシャのこと大好きだから、アジュルの大切なものをあげるよ。アイシャに戻ったら、あの泉に受け取りに来て」

「アジュルの……。え、女の子だったの⁉」


 緊張感もなく叫んでしまう。砂竜は繁殖しない。したがって、雌雄の別もないはずだ。少なくとも、アイシャが肉体を持ち、砂漠に暮らしていた頃までは。


「……じゃ、じゃなくて、アジュル! やだよ。一緒に帰ろう。お願い」

「お別れじゃないよ、アイシャ。アジュルはいつも側にいる。水は、巡る。きっといつかまた会える」

「でもっ」


 叫びは、虚空に吸い込まれていく。


 淡く光に溶けていきながら、ニスリンが口元に手を当てて微笑んだ。


「世界はいつだって、願いによって変容するの。アイシャ、可愛い姪っ子。あなたに幸福あれ。アジュルにもね」


 その祝福は祈りとなって、水神マージのお耳に届いたことだろう。

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