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砂竜使いナージファの養女  作者: 平本りこ
黒の章

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15 黄金色の慈雨

 願いは水に乗り、現実のものになる。


 不意に、凝縮した水の塊が破裂して、水流がアイシャの身体を攫う。流砂(りゅうさ)に吞まれる小石のように、されるがまま揺蕩(たゆた)い水底へ。


 黒い大蛇のような天竜が、爆薬により受けた傷から黒い靄を垂れ流している。その痛々しい姿が目に映った時にはすでに、人の身が空気なしで活動できる時間をとうに超えていただろう。だが、不可解なことに苦痛は覚えない。幾度も天竜との邂逅(かいこう)を果たした夢の中、あるいは初めて泉に落ちた幼き日と同じ。


 アイシャは口を開き、細く気管に水を流し込む。いつもの呼吸と何ら変わらぬ感覚だ。


「アジュル」


 声も変わらず発せられる。水の奇跡に身を委ねた。


「アジュル、天竜。こっちを見て」


 何度目かの呼びかけで、大きな漆黒の瞼が持ち上がる。現れた瞳は怒気を孕む七色に光っている。


 傷が痛むのだろうか、動きが緩慢である。


「何をしに来た。私を害そうと待ち構えていた人間め。やはり、世界中から伝わる祈りは罠だった。私が自由を得て愚かにも飛翔した瞬間に、撃ち落とす策略だったのだろう」

「違う!」

「ではなぜ!」

「あたしは、あなたを助けに来たの」

「助けに?」


 アイシャは頷く。


「そう。だってあなたはずっと昔から、あたしに言ってたでしょう。『タスケテ』って」


 七色の瞳がぐるりと暗闇を彷徨(さまよ)う。


「あれはただ、哀れみを誘うために」

「本当にそれだけ? あたしはそうは思わない」


 天竜の、禍々しさすら感じさせるほどの美しさを湛える瞳を見据え、アイシャは続ける。


「あなたは自由になりたかった。それと同時に、すごく寂しかったんだ。砂竜は連れ去られてしまう。大好きだったニスリン皇女もいなくなってしまった。死の原因は他でもない、あなた自身だったのだから」

「私ではない! 人間が、我が子たる砂竜を使役し、ニスリンを殺した!」

「でもあなたが利用しなければ、ニスリン皇女は西方に嫁ぐこともなく、戦乱で命を落とすこともなかったはず」

「おまえは」


 黒い天竜が首を伸ばし、牙を剥く。アイシャの鼻先と触れ合うほどの距離で、竜は咆哮(ほうこう)を上げた。


「私を(けな)すために来たのか!」

「ううん、違う。あたしはあなたの友達になりに来たの」


 恐怖に心が折れそうであったが、アイシャは腹に力を込めて、声を絞り出す。


 生半可な覚悟では、半ば閉ざされた天竜の心に寄り添うことはかなわない。それならば、持てる全てを差し出し願うだけ。


「自由になって、あたしと一緒に水に還ろう。アジュルも一緒だよ。それで、世界中を巡り、色んなものを見るの。一人で行く必要はない。あたし達はずっと一緒」

「ずっと……」


 巨大な瞼が瞬きを繰り返す。七色の輝きと交互に、砂竜の黒い瞳が現れる。愛おしい赤き砂竜の心を見いだし、アイシャは目元を緩めた。


「アジュル、聞いて。あたしはあの時、一緒に行かなかったけど、ファイサルを守りたかっただけじゃない。ましてや、アジュルが人間じゃないから、同族を優先したわけでもない。アジュルに黒く染まってほしくなかったの。だってあの時ファイサルを……焼いていたら、アジュルは絶対後悔したはずだから」


 そして後悔の挙句(あげく)、親友を自らの策略の中で失った天竜と同じ道を辿っていただろうと思うのだ。


 アジュルが小さくアイシャを呼んだ。アイシャはただ頷き、次に現れた七色の瞳を見据える。


「天竜様、砂漠中を永遠に見守ろう。すごく美しい世界だよ。あたしが案内してあげる。だからお願い。皆の世界を、瘴気(しょうき)で覆わないで。昔のように、恵みの雨を降らせて綺麗にしよう」

「また、無償で水を采配せよというのか」

「人も植物も動物も皆、水に感謝している。ありがとうって言われると、心が満たされるんだよ。皆が天竜様のことを、敬愛していること、あなたは知っているはず。だって水は全てを知るんだもん。耳を塞いで目を閉じていただけ。信じられないのなら、その目で見に行こう。あたしと一緒に」


 まるで、駄々をこねる子供を(たしな)めるかのような言葉の数々。しかし、二百五十年の時を生きたとて、ニスリン皇女と過ごした時間の他に、人の心の機微に触れることのなかった天竜である。その精神は幼子と大差ない。


「さあ、行こう。後のことはそれから考えればいいよ」


 アイシャは震えの治まらない手を伸ばす。友人同士がするように、手を取り共に歩もうと思ったのだ。


 水に還る。それは人間であることを手放す結果をもたらすが、それでも構わないと思った。


 全てを引き起こしたのは、皇家であり、赤の氏族。皇女として生を受け、赤き砂竜使いの一員として育ったアイシャの他に、適任はいない。


 厳しく美しい大地と、慈しみ支えてくれた全ての人々が、黒き闇に呑み込まれようとしている。身に余る恵みを当然のものとして享受し、不平ばかり垂れ流していた傲慢なアイシャを愛情深く導いてくれた全てに、報いたい。この身を捧げても守りたいものがあるのだと、心から願った。


 黒い天竜は、弱々しいアイシャの手を凝視して、微かに首を傾けた。どうやら意図が掴めぬらしい。アイシャは少し迷ってから、天竜の前足の爪を握った。


 初めての温もりに、初心(うぶ)な少女のように身体を震わせ、天竜は目を丸くしてアイシャを見つめる。世界を瘴気で覆いつくそうとした竜は、恐ろしい存在などではない。己の気持ちを持て余し、収拾がつかなくなってしまっただけの子供である。


 ニスリンが、この神々しい存在に友情を覚えた理由が、手に取るようにわかる。このような時だというのに、アイシャの頬には笑みが浮かんだ。気づけば全身の痙攣も治まっていた。


「じゃあ、行こう。天竜様、アジュルも。これからは、ずっと一緒だよ」


 瞼を閉じて、偉大なる水に全てを(ゆだ)ねれば、肉体は水底に沈み込む。しかしアイシャの精神は自由になって、水中に浮かぶ黒い天竜と一体となる。


 暗闇を駆け上がる。水面(みなも)の膜を突き破り、空気を裂く。垂直に上昇を続け、風圧に洗われた黒き鱗が剥がれ落ち、神々しい黄金色を取り戻す。この身から、光の粒が鱗粉(りんぷん)のように地上に降り注ぎ、瘴気を払う。黄金色に輝くそれは、雨だった。


 帝都上空を旋回し、都を浄化する。オアシスに緑が戻り、宮殿の庭園の草花も、極彩色と、(かぐわ)しい芳香を取り戻す。泉の側に倒れた同胞らの傷が、時を早回ししたかのように、みるみる塞がって、止まりかけた心臓が強く鼓動を再開する。帝都に命が蘇ったことを見届けて、アイシャ達は螺旋を描いて上昇した。


 どれほどの時間そうしていたのか、わからない。しかしこの身はすでに永遠の水。時の流れを憂う必要はない。


 ――アジュル、一緒に天竜様を案内しよう。あたし達が旅した美しい砂漠を!


 黄金色の天竜は、進路を西に変え、渇きの大地に慈雨(じう)をもたらした。人々の願いを受けた雨は水の湧かない大地に水場を作り、砂地に草を芽生えさせた。生きとし生ける者らからの歓喜の声が、天竜へと届く。いずれ天竜は、己がいかに敬愛されていたのか、気づくだろう。


 世界は水神マージの恵みに潤い、変容する。後に「黄金色の慈雨」と呼ばれる奇跡の雨である。

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