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砂竜使いナージファの養女  作者: 平本りこ
黒の章

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14 言葉は力となり

 帝都は黒に覆われていた。


 有機物が燃焼した時のような分厚い煙とは異なる種類の黒。透過性の高い(うすぎぬ)のように視界を覆うこれらはやはり、霧というものなのだろう。水の乏しい地域に育ったアイシャは、本来の意味での霧を知らないが、この異様な黒い靄の正体は、宮殿内廷(ないてい)の泉から立ち昇る水なのだと理解した。


 瘴気(しょうき)は呼吸と共に、アイシャの内部を刺激する。最初は何も感じなかったのだが、石畳をしばらく進んでいるうちに、次第に喉が焼かれたように痛みだし、眼球の水分が蒸発するような痛みを覚えた。


 アイシャは紅色のスカーフを顔に巻き付けて、ひたすらに前進を続ける。やがて、宮殿の壮麗な門が現れる。門衛もいない詰所の横を、駱駝(らくだ)で駆け抜ける。


 東西から取り寄せられた、色とりどりの植物が生い茂っていたはずの外廷(がいてい)の庭は、見るも無残な様子である。陽光の恵みを遮られ、汚染された土や水から糧を得る草花は、灰色に変色し、枯れ果てている。


 それらを一瞥し、アイシャは庭を突き進み、二つ目の門へと辿り着く。ここを越えれば皇帝の私邸の一部。内廷の庭が広がるのだ。


 庭内の様子は外廷とそう変わらない。しかし天竜の泉の側まで近づけば、灰黒の世界に突如として鮮やかな赤が飛び込んだ。


 背筋がぞくりと震え、アイシャは駱駝から滑り下り、赤へと駆け寄った。


 何人もの屈強な男らが負傷して血だまりの中で呻き、ぴくりとも動かぬ者もいる。あまりに衝撃的な光景に思わず全てを投げ出しそうになったが、強く唇を噛み締めて、アイシャは足を進めた。


 辺りには爆発した火薬の焦げたような臭いと、鮮血のもたらす鉄の臭いが満ちている。サクールが推測した通り、天竜の泉に向けて、爆薬が使用されたのであろう。


 砲撃を受けた黒い天竜はどこへ行ったのか。それを追求すべきだとは理解していたのだが、感情が追い付かない。アイシャの双眸(そうぼう)は、ファイサルの姿を探していた。


 やがて、アイシャの視線の先、半ば崩れた石積みの側で、這いずるようにうごめく人間の姿を認める。全身に砂と灰を浴びて単色に染まってはいるものの、頭部から溢れた赤と、僅かに色を残す赤茶色の頭髪が、目に刺さる。


「ファイサル!」


 疑いもなく彼に駆け寄って、砂に染み込んだ血痕の上に膝を突く。その顔を覗いてみれば、紛れもなくそれは、見慣れた従弟(いとこ)の顔だった。しかし。


「ファイサル、目が……」 


 ファイサルの右額辺りから斜めに痛々しい裂傷が走り、片目はもう光を映していないだろうと見える。幸い血液が飛沫を上げて吹き出すような傷ではないらしいが、赤いばかりでなく、頬骨の白すら覗く傷に、アイシャは眩暈が再発するのを感じた。


「アイシャ」


 灰色に染まったファイサルの唇が、弱々しく動く。


「無事か、良かった」

「良くないよ! ファイサルが……早く手当しないと、このままじゃ」


 こうしている間にも、止血を試みるファイサルの指の隙間から、傷は鮮血を滴らせているのである。アイシャは、今この瞬間にも気絶してしまいそうだった。しかしそうしてしまえば、瘴気の中に転がる(むくろ)が一つ増えるだけ。


「良く見えねえけど、元気そうだな」

「見えなくて当たり前! 右目、怪我してるの」

「右目」


 ファイサルは場違いにも乾いた笑い声を上げた。


「ナージファ伯母さんと、お揃い、か。かっこいい、だろ」

「馬鹿なこと言ってないで。早く瘴気から逃げないと」

「いや、瘴気なんて、大したことねえよ。……気が狂うなんて嘘だ。何か身体中痛てえ……けど」

「それ以上喋ったらだめ」


 アイシャは、首を巡らせて駱駝を探す。ファイサルを連れて帰ろう。全てはそれから考えれば良い……。


 窮地に追い込まれ、利己的思考に傾いたアイシャの足に、ひんやりとしたものが触れた。


 視線を向ける。血濡れた男の指先が、縋るようにアイシャの足首を掴んでいた。思わず悲鳴を呑み込む。男の虚ろな瞳が、物言いたげである。見捨てるのかと、そう罵倒された心地がした。


「ううっ。そんな目で見ないで。だって、どうしたらいいの。あたしには、何もできないのに」


 アイシャは呻く。非力なアイシャが一人やって来たところで、全員を助ける方法などないのだ。恐怖と無力感に、情けなくも涙が溢れる。そのまま俯いて、一切の行動を止めてしまおうとしたアイシャの頬を、ファイサルの指先が撫でた。涙が一粒弾かれて、霧に交じって消えて行く。


「アイシャ、黒い天竜は……、アジュルは、あそこ」


 涙を拭ってくれた指先は、真っ直ぐ天竜の泉を差す。その手は失血からか、大きく震えている。


 崩れかけの石積みに囲まれた、見慣れた泉。黒い霧を放出する水面はしかし、恐ろしいほどに澄んでいて、アイシャは視線を奪われた。


「水は」


 ファイサルの声が、徐々に(かす)れていく。


「全てを知り、願いを、叶える。死にかけて、水になりかけて、わかった気がする」

「な、なにを?」

「おまえの方法で、全てを、終わらせて。犠牲を、これ以上、出さないために。……赤の氏族は、尻拭いを。俺達は、やらないと。アイシャ、おまえは、正しい。胸を張って……、アジュルを……」

「ファイサル、ファイサル⁉」


 途切れた言葉に最悪の事態を想定したアイシャだが、従弟の胸は小刻みに上下している。どうやら意識を失っただけらしく、場違いにも安堵の息を吐く。だが、事態は好転してはいない。このままではファイサルも含め、この場にいる全ての同胞が、一人残らず命を落とす。アイシャとて例外ではない。


 アイシャは震える身体を叱咤して、泉を覗き込む。生身で水に沈めば、呼吸を奪われて、その先に待つのは冷酷な死のみ。一方で、何もしなくとも待つのは破滅だけ。


 ファイサルを、同胞を救いたい。瘴気が晴れ、救助の手が回れば、助かる命もあるだろう。非力な己一人が勇気を奮い起こせば、全てが円満に終結を迎える可能性があるというのなら、選び取らぬ愚は犯さない。


 アイシャは意を決し、瘴気を含む空気を大きく吸い込んだ。息を止め、這うようにして頭部から泉に飛び込んだ。


 冷たく、ねっとりと身体に纏わりつく、死の気配。孤独を覚える、一面の闇。溢れた涙は水に攫われて溶けていく。


 ファイサルは、アイシャは間違っていないと言ってくれた。気休めかもしれない。だが、たったそれだけの言葉が、アイシャの全身に浸透し、鼓舞する力となった。


 目を凝らし、黄金色の燐光(りんこう)を放つ漆黒の鱗を探す。アジュル、天竜、どうかもう一度、心を開いて――。

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