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砂竜使いナージファの養女  作者: 平本りこ
黒の章

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13 始まりの場所へ

 呼吸が止まっていたようだ。


 肉体を取り戻したアイシャは大きく息を吸い込み、急激な肺の膨張に、激しく咳込む。あまりの苦痛に目尻に涙が浮かんだが、荒い呼吸を繰り返し、身体の感覚が未だ馴染(なじ)まぬうちに、寝具を跳ね飛ばして立ち上がる。


 途端、強烈な立ち眩みに襲われたが、動きは止めない。一刻も早く、黒い天竜の元へと向かわねば。


 よろめき、天幕の支柱に身体をぶつけ、縋りつくようにして息を整えて、垂れ幕の隙間から滑り出る。太陽はまだ沈まぬ時刻だが、辺りは薄暗い。黒色を帯びる異様な霧が立ち込めていて、陽光を遮っているようだ。上空を振り仰げば、暗雲に覆われたような天に、ぼんやりと金色の日輪が浮かんでいる。


「アイシャ!」


 不意に呼ばれ、アイシャは現実に引き戻される。視線を向ければ、やや離れた砂上で険しい顔をして何かを交わし合う一群から、見慣れた飴色(あめいろ)の青年がやって来た。


「アイシャ、無事目覚めたのか、良かった」

「サクール、駱駝を貸して!」


 悠長に会話を交わす時間はないのである。開口一番に要求を発したアイシャに、意外そうに眉を上げ、サクールは首を傾ける。


「どこへ行くの」

「宮殿に戻るの」

「だめだ」


 常より温厚なサクールだが、この時ばかりは鋭い声音である。


「帝都で異常が起きているようだ。状況が判然とするまでは、誰も向かわせることはできない」

「異常?」


 サクールは身体の向きをずらし、遠方に(そび)える都の城壁と、その上空に立ち込める黒煙に物憂げな視線を投げた。


「突然地面が揺れ、瘴気(しょうき)が噴出したんだ。その後、爆音が響いて、何かが燃えたような煙が上がった。もしかしたら爆薬が使われたのかも」


 アイシャの全身から、血の気が引いた。もしや、黒い天竜が泉から飛翔して、待機していた砂竜族の精鋭らが武力行使に出てしまったのだろうか。


 途方もない無力感に襲われて、四肢が脱力する。アイシャは意図せず砂に倒れ込むように膝を突き、俯いた。頭上から、アイシャを案ずる声が降って来る。


 全ては無駄だったのだろうか。憎しみが憎しみを生み、天竜もアジュルも人にとっての悪となる。そして砂竜族の同胞らも、黒い天竜にとっての敵となる。


 もう何もかも手遅れなのだとしたら。非力なアイシャにできることは、これ以上何もない。大人しく砂漠で事態の収束を祈り、皆の帰りを待つべきか。……いったい、誰の帰りを?


「ファイサルは、どこ?」


 ふと思い至り、アイシャは顔を上げる。曇天(どんてん)を背景に、サクールの瞳が僅かに揺れた。打たれたかのような感情の揺らめきを最後に、サクールは動作を止める。その様子にただならぬものを感じ、アイシャは腰を上げ、詰め寄った。


「どこにいるの?」


 思わず胸倉を掴むような勢いになる。気弱なアイシャのいつにない剣幕に、サクールはやや身を引いてから、口を開いた。


「ファイサルは帝都だ。王宮の泉の側で、黒い天竜を見張る部隊にいる」


 アイシャは言葉を失い、サクールの顔を凝視する。サクールの目元が、(いた)むような陰を帯びていくのを、現実離れした思いで見守った。


 アイシャは太陽の位置を目視して時刻を推測し、額から汗が一筋流れるのを感じた。


「ぬいぐるみを泉に投げて、それからずっとあそこにいたの? 瘴気の中にずっと?」

「うん、そうだ」

「どうして! とっくに戻ってこないといけない時間なのに。瘴気の中に長居したら気が狂うんでしょう?」


 アイシャの視線に射られても、サクールは目を逸らさない。彼は静かに目を細め、絞り出すような声で言った。


「ファイサルの性格を知っているだろう。無謀をやらかすのはあいつの」

「もういい」


 みなまで聞かず、アイシャはサクールを解放して、騎乗用駱駝の側へと走る。背後から、制止の声がしたのだが、追って来る気配はない。


 未だふらつく視界の中、砂が渦を巻き世界を呑み込むような感覚に苛まれる。それは、今も治まらぬ眩暈のせいではあったのだが、アイシャの不安を増幅させるには十分だった。


『死ぬぞ』


 不意に、母ナージファの声が脳裏に蘇る。


『ファイサルは死ぬ。アイシャが行かなければ』


 あの日、巡礼の旅に出ることを決意した夢の中で聞いた声。母の幻影は、アイシャを旅へと(そそのか)すため、天竜が利用した水の記憶であったはず。それが真実ならば、あの言葉はただのはったりで、ファイサルが単身旅立っても、危険はなかったのだろう。


 それどころか、アイシャが旅立ち黒き砂竜アジュルを覚醒させてしまったがゆえに、ファイサルは今、危険に晒されているのだ。それでも、アイシャの脳内には、母が叱咤し鼓舞(こぶ)する声が響いていた。


『さあ、アイシャ。ファイサルを追え――』

「うん、母様。わかってる」


 アイシャは、地べたで膝を折り休んでいる駱駝の背に飛び乗った。抗議の雄叫びを上げる駱駝を強引に抑えつけ、手綱(たづな)を取る。駱駝の長い首を引き帝都へ向けて、脇腹を踵で突いた。


「お願い、あたしを連れて行って!」


 不満げな様子はそのままに、しかし駱駝は渋々四足を動かした。砂が巻き上げられ、歪な蹄跡(ていせき)が砂上に刻まれる。目指すは帝都最奥。アイシャが生まれ、四年間を過ごした始まりの場所。マルシブ帝国宮殿である。

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