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砂竜使いナージファの養女  作者: 平本りこ
黒の章

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12 本当はただ……


 ――ニクイ、ニクイ、憎い、憎い。


 肉声ではない。五感に直接訴えかけるような、悲痛な呻き。身を切り裂くような苦悶に、アイシャは()()()()に引き戻される。


 気づけば、辺りは一面の暗闇である。上下左右の感覚も曖昧な世界の中で、アイシャはただ、揺蕩(たゆた)っていた。


 ――憎い、憎い。


 遥か遠くでぼんやりとした明かりが浮かび、時折煌めく水泡が周囲を漂うのが視界に映る。くるくると回転する景色の中、細長い紐が一つ。噛み嚙みトビネズミさんの尻尾だろう。アイシャの意識は無事、泉に投げ込まれたぬいぐるみの中で覚醒したようだ。


 ――憎い、憎い、タスケテ。


 怨嗟の中に一片(ひとひら)、天竜の真の願いが混じり合うようだった。水底で、黄金色の燐光(りんこう)を発する漆黒の竜がとぐろを巻いて、ひたすらに時の経過を待っている。この竜はアジュルと同化した存在ではあるものの、意識の主たる部分は天竜が支配しているのだろう。


 傷だらけの鱗が近くに迫っても文字通り手も足も出ないアイシャには、励ますこともできないが、憐憫(れんびん)に任せ祈りを捧げるのは造作ないことだった。


 自身の知らぬ経緯で生み出され、道具のように使役される、賢き竜。感情を持たなかった天竜はある日不幸にも、高度な精神を手に入れてしまった。


 全ての生き物は生まれることを拒否できないが、生まれ落ちた先で運命を切り開くことはできるはず。天竜にはそれすら許されず、水中に囚われ搾取されるのみ。世界の理不尽を恨み、悲痛な声で助けを求める天竜に、アイシャは自身の幼少期を重ね見た。


 母の顔を知らず、後宮(ハレム)で軽んじられていた、地味な皇女。それがアイシャだった。ナージファと出会わなければ、アイシャは今も後宮にいて、皇族の末端に連なる者としての価値にのみ生かされていたのだろう。


 主張をせず、何も知らず、光らぬ宝石のように執拗に磨かれて、周囲に導かれるまま誰かへ引き渡されて行く。だがそんな人生ですら、他者の輪の中にある限り、天竜にとっては羨むべき境遇なのだろう。


 ニスリン皇女の抱いた憐憫が、手に取るようにわかったが、アイシャは叔母とは異なり、広い世界を知っていた。広大な砂漠とそこに住まう逞しい人々と、数多(あまた)の生物。雨を知らぬ乾いた砂、かと思えば突然の豪雨に流される人間の営み。いかに天竜が哀れな存在だといえど、この美しい世界を闇で覆いつくすなど、許容できるものではない。


 アイシャは黒い天竜の鼻先辺り、水底に転がり祈った。


 天竜を解放したい。叶うのならば、自身の手で運命を選び取り、世界と平和的に共存してほしい。それは都合の良い願いだろうが、祈らずにはいられない。


 どうか水神よ。願いを聞き入れて――。


 その刹那、天竜の闇色の瞼が開き、鱗とは対照的に七色に煌めく瞳が露わになった。直後、強烈な水圧が押し寄せて、アイシャは回転しながら水中を舞う。


「人間が、祈っている!」


 天竜の肉声だ。声は、激しい怒りを内包していた。


小癪(こしゃく)な。奴らの祈りはいつも利己的で、聞くに堪えぬ。此度も、何か魂胆(こんたん)があるに違いない」


 黒い天竜が巨大な(あぎと)を開くと、砂漠中の人々の祈りの声が、こだました。


『天竜を解放せよ』『竜に自由を』『世界に安寧を』


 その願いすら、疑心に駆られた天竜には、策略の一つに聞こえてしまうというのか。


 ――煩い煩い煩い。

「黙れ、人間どもよ。戯言(ざれごと)を語る口を閉じよ!」


 ――もう放っておいてくれ。私は世界を混沌に落とすのだ。

「愚かで貧弱な人の子と、それに隷属する全ての存在に災いを。そうして私は自由になる」


 ――自由になって、どうすれば良いのか。

「この(わずら)わしい水を脱し、空を舞い、心赴くまま生きるのだ」


 ――いったい何のために? 私は孤独。我が子ですら人に(くみ)し、私のことなど忘れているというのに。自由になって、永遠の時を独りで過ごすのか。それでは。

「今までと何ら変わらない……」


 天竜の独白と、水中を震わせる絶叫が折り重なる中を、アイシャはただ無力に漂った。天竜は、自由になりたがっている。それは確かだ。しかし、その思いの根底に、もう一つ大きな願いがあると気づく。


 天竜は孤独なのだ。唯一の友であるニスリンを、自身が仕掛けた策略の渦中で喪って、己の罪を受け入れることもできない。


 二百五十年の時を生きているにもかかわらず、心の機微を理解することが叶わず、自身の真の願いを言語化することもできない、幼子のような竜。


 孤独なら、アイシャも良く知っている。罪を自覚しつつも、正面から受け止めることができず自暴自棄になる気持ちも痛いほどわかる。


 真の望みは解放ではない。世界を滅ぼしたいのでも、ましてや人間を貶めたいのではない。ただ、寂しくて悲しい。そんな幼子のような感情の爆発が、天竜の心の全てであった。だからきっと、解放されるだけではその胸は満たされない。友愛を、温もりを、永遠に天竜の側に。


 肉体があったのなら、アイシャは笑みを浮かべ、言っただろう。「あなたは独りではない」。そして、自身のなすべきことを理解し、天竜に寄り添っただろう。ニスリン皇女がそうしたのと同じように、アイシャは天竜の友となる。


 しかしこの身はただの布の塊だ。手も足も出ぬ焦燥がアイシャの心を支配する。


 不意に、暗い水の彼方から、黒い塊が滑り出た。気づいた時にはそれは、すぐ側にいて、白く鋭利な物が灰茶色の布に突き刺さる。


 無論、痛みは感じない。しかし、この身に牙が突き立てられたことは明白だった。


 視界に映るのは、水底の闇に溶けるかのような漆黒の鱗。石像のように伏していた黒い天竜が、活動を開始したのである。


 アイシャの手のひらよりも大きな漆黒の瞼が、ゆっくりと伏せられる。七色の瞳が闇に消え、次に現れた瞳は砂竜のように黒かった。


「アイシャは来ない。ファイサルも来ない。ファイサルはアジュルを邪魔した。アイシャはアジュルと来るよりも、ファイサルを守った。アジュルは人間じゃないから、捨てられた。こんなもの、もういらない」


 孤独の怨嗟を吐き出して、黒い天竜……いや、アジュルは首を振り乱し、ぬいぐるみを引きちぎろうとする。


 違う、あたしはここにいる。アジュルを見捨てるはずがない。そう主張したかったのだが、無論叶わない。


 元より綻んでいた、ぬいぐるみの縫い目が裂かれ、拘束を失った布たちが分解されて、四方に分散を始める。嚙み嚙みトビネズミさんの破壊と共に、アイシャの意識も薄れゆく。


 悲哀に満ちた叫びが折り重なり増幅する。水中が黒い感情で満たされて、怒りに任せ、大蛇のような巨体が水面に向けて急上昇するのを察する。


 いけない。外では、砂竜族の仲間らが、万が一の事態に備えて武力行使の準備をしているのだ。


 怒りとも悲しみとも知れぬ感情に支配された天竜が、地上で攻撃を受けたのならば、その心理的衝撃は計り知れない。心を通わせるための一縷(いちる)の望みも絶ち切れてしまう。


 だめ、と叫んだつもりだけれど、ぬいぐるみですらなくなったアイシャはとうに、世界との繋がりを失っていた。


 何もできず何も言えず、アイシャはただ、千々に分裂して、意識を離脱させた。

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