10 作戦と、嚙み嚙みトビネズミさんの秘密に関する推測
アイシャとファイサルは、策を語る。
まずは四聖地に人を集める。聖地までやって来ることができない者には近辺に水を用意してもらい、砂漠中の人々が一斉に祈る。「天竜を解放せよ。平和的な方法で」と。
願いは、蒸発し天に還る水に乗り、水神マージのお耳に届く。天竜が抱く「解放されたい」という思いと同調し、水神を動かすはずだ。二百五十年前、聖職者が宮殿の泉で祈り、天竜が顕現したように。きっと水神マージは、人々の願いを聞き入れて、世界を平和で満たしてくれる。
しかし、二百五十年前と異なり、今回は生身の人間が天竜の泉へ赴き祈りを捧げることができない。泉は、水神マージに最も近い場所。その祈りの効力は、聖地とは比べものにならないはず。そこでアイシャは、嚙み噛みトビネズミさんに憑依して、ファイサルに泉に投げ込んでもらい、水中で祈りを捧げるのだ。
願いとは、精神から生まれるものであり、必ずしも肉体は要さない。それゆえ、たとえ気の抜けるような容貌のぬいぐるみであっても、アイシャの祈りは水に乗るだろう。
もし上手く運ばぬ場合でも、黒い天竜の様子を観察し、次の策を練る材料とすることができるので、全くの無駄となり終わることはない。
全てを語り終えてみれば、族長らは三者三様の面持ちであった。
サクールは、常の通り穏やかな微笑みを浮かべているのだがどこか困惑気。クトゥーブは小さく首を振り、ニダールは想像に違わず、ひどい渋面である。
「あのさ、理屈はわかるんだけど」
クトゥーブが額を抱えながら言った。
「水が願いを叶えるとか、聖地の水には尋常ではない力があるとか……いや、もちろんそう信じてはいるけどね。身も蓋もない言い方すれば、やっぱりそれは信仰上のことだろ」
「あたしも少し前までは、全部迷信だって思っていました。だけど聖地巡礼で、過去を知りたいと願い、幻影を見たのは確かです。それに、天竜は自分が人間の願いにより自ら創造された存在なのだと言いました。やっぱり水には、不思議な力があるはずなんです」
「そうは言ってもねえ。アイシャが天竜と交信した話も、どこまで現実だったのか分からないし」
「だが、天竜に纏わる小娘の話を信じない場合、一切の手がかりがない。暗闇を探るのであれば、竜の爪先ほどの小さな光でもないよりはマシだ」
「まあ、ニダール兄の言う通りか」
疑問を呈するのならば、口火を切るのはニダールだと思っていた。しかし意外なことに、紫の族長は援護側だった。
「紫の族長殿、ありが」
「良いか、小僧、小娘」
素直なファイサルの謝辞を遮って、ニダールは静かな威圧を孕む声音で言った。
「策に固執するのは賢明ではない。ゆえに、どこかで見切りを付けなくてはならない。実行から一日経っても変化がない場合、我々はその小汚い灰茶色の塊を水から引き上げて、武力行使に移る。そもそも俺は、布に人間が憑依するなど、滑稽の極みだと思うがな」
嚙み嚙みトビネズミさんへの憑依については、ファイサルとも議論が紛糾した点である。
そもそも信じ難い話であるし、仮にアイシャがぬいぐるみに乗り移ることができるのが真実だったとして、意図して発動させることができるのかどうかも、未知数なのだ。
しかしアイシャは確信している。条件さえ満たせば、ぬいぐるみになれるはず。そうして、アジュルの側に駆け付けたい。お気に入りのぬいぐるみを見て、人間に愛されていたことを思い出して欲しい。上手く運べば、アジュルは改心してくれるのではなかろうか。アイシャは淡い期待すら抱いていた。
「アイシャの話では」
サクールが徐に口を開く。
「ぬいぐるみに意識が重なったのは過去二回。一度目は、深淵に落ちた時。二度目は薬品を大量摂取した時だ。いずれも、アイシャの肉体に危機が迫っていた。それを再現するということは、当然危険を伴うはずだ」
サクールの懸念に、ファイサルが肩を竦めた。
「俺もそう言ったんだが、アイシャが聞かないんだ」
「大丈夫だよ」
アイシャは首を振る。
「どのくらいの薬を飲めば何時間眠りにつくのか、何となくわかったし、帰って来られるよ」
「おい小娘。また俺の薬を使うつもりなのか」
「ニダール兄、けち臭いこと言うなよ。でもアイシャ。この、噛み……ネズミさんは、どうしてアイシャの意識の器になるんだろうね。それこそ天竜の罠にも思えてくるけど」
「仕組みは分かりません。ですが、憑依の条件には心当たりがあります」
「心当たり?」
アイシャは頷く。正直、推測に過ぎぬのだが、共通点はあるのだ。
「水です。一回目に憑依した時、ぬいぐるみはアジュルの涎塗れでした。しばらくしてあたしの意識が遠のき、肉体に戻る直前には、身体中から水分が奪われるような感覚があったんです。そして二回目は、ニダールさんが水を零してぬいぐるみが濡れたことがきっかけになりました。そしてこの時も、最後には強い渇きを感じて、気づけば身体に戻っていたんです」
「水、か」
サクールが顎を撫でる。
「確かに、水に不思議な力があるとすれば、この発動条件は理に適う。危機的状況に陥った肉体からはじき出されて、行き場を失くしたアイシャの精神が、ぬいぐるみに一時の拠り所を求めたのか」
「けど、なんでこんな不細工なぬいぐるみに」
ファイサルが眉根を寄せて暴言を吐く。場違いにも反論したいところだが、確かに奇妙な点である。これに推察を述べたのは、クトゥーブだ。
「天竜の子であるアジュルのお気に入りだから? ほら、涎にも聖なる力が宿るとか」
「うわ、汚ねえ」
ファイサルは吐き捨ててから、続ける。
「でも、確かにあり得るな。それと、皇家の血脈には神聖な力が流れてるんだろ。アイシャの手汗が染み込んでるから、噛みネズミが妙な力を得たとか」
「あ、そういえばあたし、この子を作っている時に針で指を刺してしまったんです。だから手汗だけじゃなくて血も染み込んでるかも」
ファイサルが呻きつつ、半信半疑の様子で返す。
「そっか。普段は乾き切っているそれらが、外部から水を得ることで戻って、聖なる力を宿すのか?」
「戻るって、乾物じゃあるまいし。でも、一理あるか。……いや、もうやめよう。こんな突拍子もない推測、馬鹿みたいだ。取りあえず発動条件の見当はついているんだから、やるなら腹を決めるしかないな」
クトゥーブの言葉に、一同は首肯する。
真相は、水のみぞ知る。しかし、皆で辿り着いた一つの推論は、真実に近しいことと思われた。




