7 二百五十年の孤独に心を寄せて
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夢を見ていた。とても鮮明な夢だ。
それは、幼少期のある一場面を切り取った光景。
黒い天幕が並ぶ集落。集会場の戸口ではためくのは、赤い刺繍が施された旗。燦々と降り注ぐ陽光を浴び、砂を食んで目を細める砂竜は、赤銀の光を照り返している。
アイシャはそれらを遠巻きに眺めて、橙色の砂丘の上で、膝を抱えていた。隣には、まだ脚が動いた頃のセルマが座り、幼いアイシャに言い含める。
「良いかい、アイシャ。確かに、争わないことも強さだよ」
その言葉に、ああ、これは、アイシャが六つか七つ頃の年の記憶なのだと、すぐさま理解した。
この頃のアイシャは極端に競争事が苦手で、子供同士の遊びにさえも、苦痛を感じていた。羊追い競争や、駆けっこですら、嫌だ嫌だと駄々をこねた。母ナージファからは立派な砂竜族になれないぞ、と断言されて、大きな衝撃を受けたこともある。今思えば途方に暮れたのはアイシャだけでなく、母も同様だったのだろう。
「気に食わない奴を叩きのめすのは論外だし、何でもかんでも自分の考えを周囲に認めさせるのも間違いだ。力に任せた行いなんて、砂粒ほども誇り高くないよ。だけどね」
セルマは穏やかな声で語り続ける。
「いつかは、信じるもののために戦わなければいけない場面がきっと来る。その日が来たら、逃げてはいけないよ。そんなことをしたら、一生後悔する」
「そんな日、来ないもん」
「そうだね、そんな日は来ない方が良い。だけどいざその時が訪れたら……アイシャなら気づけるはずだ。これが、その時なんだ。どんなに辛くても恐ろしくても、戦わなければいけないんだって」
二人の視線の先で、西の空に斜めに沈む太陽が膨張し、世界を赤く染める。毎夕繰り返される日常の象徴を、ぼんやりと眺めた。
幼いアイシャには、セルマの語る言葉は半分も腹落ちしない。それでもセルマはアイシャに諭し続けた。その理由はわからなかったし、セルマの言葉など、すっかり記憶の奥底にしまい込んでいたようで、今この瞬間まで脳裏を過ることすらなかった。それなのに。
どうして今、セルマの穏やかな声が、こんなにも胸に突き刺さるのだろう――。
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ふわり、と鼻先をくすぐる微風に、アイシャは重たい瞼を持ち上げる。鼻を撫でた風圧の正体は、香ばしい匂いを発する夕食を乗せた平皿。何者かの手によって、食事がアイシャの眼前から持ち去られたようだ。
何度か瞬きをして、薄闇を見回す。身じろぎの気配に、皿を片手に持ち上げたファイサルが、いつも通りの呆れたような顔で振り返る。
「やっと起きた」
食器を下げようとしていたファイサルだが、アイシャの目覚めを知って、皿を元に戻す。載せられているのは、炒めた米の上に羊肉を乗せたご馳走だ。
先ほど妙な気を回して去って行ったクトゥーブが、少し時間を置いてから差し入れてくれた遅い夕食である。せっかくの豪勢な食事だが、薬物による眠りから覚めたばかりの身である。胃に重たい料理を、大量に詰め込む気分ではない。
米のほんの一画を食したアイシャは、まるで悪戯好きな精霊に誘われたかのように、気づけば机に突っ伏して再び微睡の底に沈んでいたようだ。
「あれだけ寝たのに、まだ眠いのかよ。飯食いながら寝るなんて、子供みたいだな」
常日頃、ご馳走を前にすれば子供のように貪りつく従弟は、自分の行いを顧るつもりはないらしい。指摘するのも億劫なので、アイシャは寝ぼけ眼を拳で擦り、水を一口飲み込んだ。
「どこまで話したんだっけ」
「黒い天竜を、どうやって泉から引っ張り出すか」
「そうだった」
アイシャは両頬を叩いて眠気の残滓を叩き落とすと、もう一口水を含み、居眠りするまでのやり取りを反芻した。
瘴気の出どころは天竜の泉。アジュルが入水の際に四方に飛ばした水飛沫が黒き瘴気となり、やがて泉から湧き出るように増幅し、人間の土地を侵略している。
止めなければならぬのだが、黒い天竜は、今や瘴気の源である王宮の泉の中。呼び出そうにも、帝都には不用意に長居できないし、泉に接近しすぎて、以前のアイシャのように水中に引き込まれでもしたら大惨事だ。
生身の人間を長時間派遣できないとなると、武力行使をするにもどこかへおびき出さねばいけない。竜の興味を引くような餌の用意はない。それであれば、あえて逆上させて、怒りに任せて泉を飛び出すのを待つか。
だがそれほどの憎しみを新たに生むのは本末転倒だろう。短慮な策は、呆気なく却下されたのだった。
「ずっとあの泉の中で、瘴気を生み出し続けるつもりなのかな」
ファイサルの疑問はもっともだ。そもそもアジュルは、火を吐き、暴風を巻き起こし、雷霆を呼ぶ。今では青の聖地の力を取り込んで、大地を鳴動させることすらできるのかもしれない。つまり、それと同化した存在である黒い天竜は、より直接的かつ激しい方法で人間を滅することができるはずなのだ。
それをしないのは妙だ。やはり昨日ファイサルが会合の場で述べたように、アジュルにはまだ、迷いがあるのでは。
ファイサルは、アイシャがいたから強くなれたと言ってくれた。アイシャは従弟に甘えるばかりだったけれど、アジュルがいたからほんの少しだけ強くなれた。
家族の一員も等しいアジュルを悪しきものと決めつけて攻撃し、無条件に亡き者とするのは、理不尽ではなかろうか。アジュルは天竜に利用されただけなのだ。アイシャが、破滅を呼ぶつもりはなかったのと同様に、アジュルだって世界に仇なすことなど意図しなかったに違いない。
「やっぱり、説得するのが良いのかも」
「まだそんなこと言ってんのかよ」
ファイサルがすぐさま反論する。
「その案は昨日却下されただろ。話している途中で逆鱗に触れて黒焦げになったらどうするんだ。それに、百歩譲って説得の方向で進めるにしても、泉の側に生身の人間を長時間派遣するわけにはいかねえ」
結局、どこかにおびき出さねばならぬのだ。議論はまるで、無意味な円を描くかのように同じ場所を行ったり来たりするので、埒が明かない。
それでは、全く別の角度から考えてみる必要があるのではなかろうか。
「そもそもの大前提が違うのかも」
「大前提?」
アイシャは首肯する。
「うん。天竜が人間を恨み、害を与えようとしているから、当然止めなきゃいけない。それが大前提」
「止めない道があるか? まさか、人間が死に絶えれば良いなんて思わねえだろ」
「それはもちろん。だけど……」
アイシャは答え、机上で揺れる燭台の炎を見つめて、思考の糸を手繰り寄せる。
全ての元凶は天竜と、その意思を受け継ぐアジュルなのだから、その存在を抹殺してしまえというのは、一見合理的である。だが、そもそも天竜は、なぜこのような事件を引き起こしたのか。
暗く冷たい水底で、小さく身体を縮め、搾取の苦痛に溺れ、茫漠とした世界を一人過ごした天竜の、二百五十年の孤独を思う。夢の中でアイシャに助けを求める天竜は、決して狂暴な獣などではなかった。
竜の額には裂傷があり、鱗はところどころ剝がれ落ち、身体中に傷がある。アイシャに助けを求める声は切実な響きとなり、水を振動させた。目にも耳にも、哀れさを感じさせる様子である。
天竜の声が脳裏に響くような心地がした。「タスケテ」と。
天竜はあれを、アイシャを篭絡するための虚言であるかのように語っていた。しかし、「タスケテ」という、身を切るような叫びの中に、一片の真実もないのだとは思えなかった。
それすらも、天竜の罠なのかもしれない。しかし、アイシャは考えずにはいられない。天竜を傷つけ阻止することは、果たして正しい行いなのだろうか。
暴力は暴力を生み、憎しみは憎しみを生む。負の連鎖を促進することに、何の意味があるというのだろう。
もう少しで、何かの糸口が掴めそうな予感がする。




