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砂竜使いナージファの養女  作者: 平本りこ
黒の章

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6 熾火は熾火のままで

 日が暮れて、四角い窓から差し込む光が消え去り、もう数刻が経っている。机上には変わらず燭台(しょくだい)が灯されて、揺らめく朱色が影を作る。さすがに、これだけでは光度が低すぎるので、アイシャの枕元にも三本蝋燭の燭台が一つ。


 薄明りの中で、一言も口を開かずじっと座り込んでいるのはファイサルだ。他の族長らが離席しても、いつになく暗い顔をしたファイサルだけは、アイシャの左腕の辺りに座したまま、石像のようになっている。


 アイシャの意識は引き続き、噛み噛みトビネズミさんの中である。寝ても覚めても騒がしい従弟(いとこ)が、身じろぎもせずに(ほの)暗い空間に座っている様子は、ただでさえ奇妙なのだが、その視線がじっとアイシャの本体を眺めていると思えばよりいっそう、居心地が悪い。さらに、その姿を、ぬいぐるみの中から観察しているこの状況。なんとも滑稽な絵面(えづら)だろう。


 太陽が砂丘の向こうに消えてしばらくして、クトゥーブがファイサルを食事に誘いに現れた。幼少期より大飯食らいのファイサル。そんな彼が、あろうことか晩餐を辞退したので、アイシャはぬいぐるみの顔で驚愕した。


 どうやらファイサルは、目を離した隙にアイシャが息を引き取らないか、心配しているらしいのだ。いつにない従弟の健気な姿に、アイシャは場違いにもむず痒さを覚えた。


 肉体を脱し、精神だけの存在になってみれば、幾らか冷静さを取り戻す。自傷など、ニダールが述べた通り、不名誉なことである。衝動的な行為を早くも恥じるアイシャだが、心境の変化は他でもない、アイシャを案ずる氏族長らの姿を目にしたからだった。


 アイシャは己を諸悪の根源だと認識しているが、彼らの態度からは、そのような暗い感情は見て取れない。特にファイサルは、大好きな食事も摂らず、目尻に涙すら浮かべてアイシャの覚醒を待っているのだ。


 どうしてアイシャを案ずるのだろう。憎悪を抱きはしないのか。問うてみたくとも、この布の身体では叶わない。


 耳に痛いほどの静寂の中、微かに響く自身の寝息に耳を傾ける。深く長い呼吸。途切れることはないのだが、いつか止まってしまうのではないかと思わせる程度には、頼りない音だった。


 アイシャの呼吸音に、ファイサルの身じろぎの音が重なる。溶けた蝋が落ちる微かな滴下(てきか)音に、遠くで鳴いた山羊(やぎ)の声、それから、天幕の側を通り過ぎる住民の笑い声。静寂を揺らす音色は、ただ心地よい音楽を奏で続ける。


 そうしてひそやかに、夜は更けていく。


 異変は、突如としてやってきた。急激な渇きがアイシャの意識を襲う。苦痛に(もだ)えるほどであるのだが、あいにくこの身は布の塊だ。苦しい、助けて、と自死を試みたばかりの者とは思えぬ言葉を叫ぶ。


 その声は、アイシャの肉体から漏れた。


 小さな呻きに、ファイサルは弾かれたように身体を起こし、アイシャの顔を覗き込む。いつも通り、距離が近い。ぬいぐるみの中で見守りつつ、アイシャは苦笑した。いつだって無遠慮で豪快な従弟の姿に、いつしか安心感を抱くようになっていた。


 机上から見下ろす視界が、急速にぼやける。反比例するように、四肢に通う血流が蘇り、吸い込んだ空気が肺を膨らませて、鼓動が力強く脈打つ感覚を取り戻す。アイシャはアイシャへと戻り、やがて重たい瞼を持ち上げる。


 視界いっぱいに広がるのは、安堵に歪む従弟の顔だった。あまりにも情けない顔だったので、アイシャは思わず笑みを漏らした。


「ファイサル、変な顔」


 開口一番に貶されて、常ならば鋭い反発が飛び出すはずである。しかしこの日、返って来たのは、一滴のぬるい塩水だった。


 頬に落ちた温かなものを指で拭い、アイシャは呑気にも目を丸くする。


「どうして泣いてるの……」


 言い終わらぬうちに、上体が持ち上がり、呼吸が圧迫される。鼻が潰れるほどに強く抱きしめられていると気づいた時には、驚きよりも照れ臭さよりも、呼吸を封じられた苦痛が甚大だったので、アイシャは盛大に身じろぎをした。酸欠で視界がちかちかと明滅する。


「むぐぐぐぐ、苦し……死んじゃう……」


 首を伸ばして従弟の肩の上に鼻を逃がしてやっと、息を吐く。ファイサルは、せっかく生還したアイシャが危うく再び生死を彷徨(さまよ)いかけたことなど、一切気づかぬ様子。身体を小刻みに震わせて、いつになく情けない姿である。


「良かった」


 ファイサルは、絞り出すような声で言った。


「悪かった。俺がいけなかったんだ」


 突然の懺悔に、心当たりのないアイシャは瞬きを繰り返す。赤茶色の髪の先が、アイシャの睫毛(まつげ)に撫でられて波打った。


「アジュルが空を飛んだ時……、いや、もっと前。罅割れた竜卵(りゅうらん)が、隣の卵から光を奪って孵った時から、なにか禍々しい現象が起きているんじゃないかと気づいていた。腕輪が光り、妙なことを引き起こしていると気づいた時に、アイシャの手から奪ってでも、それを捨てるべきだった。氏族を守るのは俺の役目なのに、何もできなかった」


 お気楽呑気なファイサルの、柄にもなく深刻な言葉に、アイシャは息を吞む。


「ナージファ伯母さんと約束したのに。身を盾にして氏族を守れって」

「仕方ないよ。あの時は、まだ子供だったから」


 ファイサルの言葉は、八年前の惨事をさしているのかと思った。だが、そればかりではないらしい。


「俺が守るはずだったものは、全部燃え尽きた。残ったのはおまえだけだった。アイシャがいたから、俺は強くなれた。皆が死んで、同じ場所に逝きたいと思うくらい辛くても、おまえが俺を頼るから、氏族の皆の後を追うこともしなかったし、仇を探しに無謀な旅にも出なかった。俺を生かしたのは、アイシャだった。それなのに」


 ファイサルはやや身を離し、アイシャの右腕に憂いを帯びた視線を向けた。


「今回のことを防ぐことができなかっただけじゃなく、盾になるどころか、逆にアイシャを炎に晒してしまった」


 右腕の火傷が疼く。しかし、その傷は死を呼びはしないし、身体に不自由をもたらすものではない。


「ファイサルのせいじゃないし、気にする必要なんてない。あたしがしたことに比べたら」


 ファイサルは、微かに首を傾ける。アイシャは唇を噛んでから、震える心を叱咤して、言葉を押し出す。


「あたしがいなければ、氏族の皆はあんなことにならなかった。あたしが母様の娘にならなければ」

「おまえのせいじゃねえよ」


 断固とした声音で、ファイサルは言う。


「おまえを連れてきたのはナージファ伯母さんだし、そもそも腕輪を伯母さんに渡したのは、ニスリン皇女。その皇女を(たぶら)かしたのは天竜だ。これのどこに、アイシャの意思があったんだよ」

「でも」

「そう言うなら、間歇泉(かんけつせん)で腕輪を見つけたのは、俺だ。だから、全部俺が悪い」

「違うっ! ファイサルがあれを見つけたのは、たまたま。それか、水がそうさせたの」

「そっくり同じ言葉を返してやるよ。おまえが伯母さんの娘になったのは偶然。もしくは、水……天竜が仕組んだことだ」


 アイシャは閉口する。事の真相は水のみぞ知る。だから、いくら言葉を重ねても、埒が明かぬのだ。


「たしかに、あの黒い竜はアジュルだった。あいつを生み出した赤の氏族は、尻拭いをしなければいけない。だけどそれは、おまえだけの責任じゃない。俺達が蹴りをつけるんだ。一人で全部背追い込もうとすんな。似合わないことしてねえで、いつもみたいに、俺を頼ってくれ」

「ファイサルは、あたしが憎くないの?」


 首を伸ばせば鼻先が触れ合うほどの距離で、燭台の光を弾いて赤茶色の瞳が揺れた。


「憎いはずねえだろ。ちゃんと話聞いてたか? 俺は、アイシャがいれば、それだけで」


 続く言葉に面映(おもは)ゆさを覚えたのか、不意に言葉を呑み込んで、ファイサルは口を閉ざす。アイシャとしても、それ以上の言葉は不要だと思った。


 この数日、(かたく)なに強張り絡まって、自ら闇に沈み込もうとしていた心が、緩やかに(ほど)けていくようだ。信じて、助けてくれる人がいるにもかかわらず、アイシャはなんて無責任な振舞いをしたのだろう。


 思い起こしてみれば、ファイサルはいつでも味方だった。勇敢を善とする砂竜族の中で、異質な存在であったアイシャを家族の中に受け入れてくれ、何だかんだと言えどもいつも庇ってくれた。それなのに、従弟の存在を当たり前のことと捉え、事あるごとに反発してきたアイシャの、なんと不義理なことか。


 ちりり、と蠟が爆ぜる。揺らめく薄明りが互いの瞳を照らすのを、どちらからともなく見つめた。


 まるで、長らく(くすぶ)っていた熾火(おきび)が静かに勢いづくように、じりじりと肌を焦がすような感情が、二人を包み込む。その熱に身をゆだねてしまえば、とても心地の良いことだろうと思った。きっと、ファイサルも同じことを感じていたはずだ。……はず、だったのだけれど。


「ファイサル、本当に夕食いらないの」


 クトゥーブの場違いに明るい声が、乱雑に持ち上げられた垂れ幕の隙間から割り込んだ。きっと、ファイサルが陰気な顔をして沈み込んでいると思い、意図して声を高くしたのだろう。突然の闖入者(ちんにゅうしゃ)に視線を向ければ、クトゥーブが、眼窩(がんか)から眼球が零れ落ちそうなほど目を丸くして、硬直していた。


 それもそうだろう。二度と目覚めないかもしれないと、誰もが心のどこかで覚悟をしたであろうアイシャが、一晩も明けぬうちに覚醒しているのだから。


「あ、アイシャ。無事で……いや、とりあえず」


 クトゥーブは咳払いをして、不意に(きびす)を返す。


「お邪魔しました」

「え⁉」


 アイシャとファイサルの間抜けな声が重なった。そそくさと宵闇に去る青の族長の背中を見送ってから、顔を見合わせ、妙な気まずさを覚えつつ距離を置く。


 ずれたままの垂れ幕の隙間から、涼やかな夜風が吹き込んだ。夏は盛りを終え、季節はまた一つ進もうとしていた。

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