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砂竜使いナージファの養女  作者: 平本りこ
黒の章

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5 小娘の名誉のために


「おい、ニダール(にい)。こんな時に水差しなんか引っ繰り返さないでくれよ」


 クトゥーブの苛立った声が、世界に音を蘇らせた。喧騒は、溢れた()れ川のように濁流となり押し寄せて、アイシャの意識は机上で覚醒する。


 アイシャは、全身水浸しであった。隣では、黄金の天竜の腕輪が蝋燭の火を受けて怪しく光り、机の端には銀色の水差しが横倒しに転がっている。その先で、見慣れた姿が狼狽(ろうばい)を見せている。


「アイシャ。おい、起きろ!」


 従弟(いとこ)の赤茶色の頭髪が、机の下に消えた。彼はアイシャを連呼している。見当違いも(はなは)だしい。アイシャはもっと上にいるのに。


 あたしはここだよ、と言いかけて、口がないことに気づく。それならば身振りで示そうとしたのだが、指先一つ動かない。無理もない。元から指など存在しない。あるのは灰茶色の寸胴(ずんどう)と、両耳。そして、異様に長い尻尾だけ。


 そう、アイシャは再び、嚙み噛みトビネズミさんに憑依(ひょうい)したらしい。


 アイシャは、奇怪な現象を妙に冷静な心地で受け止めて、斜め下方から繰り返される切羽詰まった呼びかけに耳を傾けた。


 ファイサルは、本気でアイシャを案じているらしく、かつて見たことがないほど、平静を失っている。


 アイシャはいわば、彼の親族の仇だというのに、なぜそれほどまでに動揺するのだろう。もしや、憎きアイシャをその手で捻りつぶしてやりたかったのに、自死されたとなれば、憎悪が行き場をなくすからだろうか。


 そんな歪んだことを半ば本気で考えながら、アイシャはただ、机上で成り行きを見守り続ける。


「紫の族長殿、解毒剤は?」


 サクールが青ざめた顔で問う。ニダールは、呑気にも見えるほどに落ち着きを払った所作で水差しを立ててから、髭に埋もれた口を(うごめ)かせた。


「そんなもの、持っている訳ないだろう。これは毒じゃない。薬だ」

「こんな危険な薬、落ち込んでる女の子の前に放置するだなんて、相変わらず配慮がないな」


 クトゥーブが吐き捨てるように言うのだが、返すニダールは、にべもない。


「まさか小娘と言えど、ここまで愚かな行動をするとは思うまい。周囲が甘やかすからこうなるのだ」

「なんだと」

「ファイサル、落ち着いて。喧嘩しても仕方がないから。ニダール兄、この睡眠薬の致死量は?」

「知るか」


 クトゥーブは頭を抱える。


「あのな、少しは協調性を」

「致死量など、医者すら知らん。大量に服用せねば害はないことは確かだ」

「医者も知らないってそんなこと」

「その薬は」


 口喧(くちやかま)しいクトゥーブを遮って、ニダールは腕を組み、アイシャの身体が横たわっている辺りを見下ろした。


「効きがとても早いのだ。大量に摂取する前に眠ってしまうはずだから、死ぬことはないだろう。現に……見てみろ」


 ニダールは足元から小瓶を拾い上げる。斜めに傾け陽光にかざせば、なるほど。硝子(がらす)のくびれ辺りに無色透明の液体が溜まっている。床にぶちまけた分もあるのだから、嚥下した量はアイシャが思うよりもずっと少ないのかもしれない。


「小娘は寝ているだけだ。そのうち目覚める」


 一同が目に見えて肩の力を抜くのだが、続くニダールの言葉に、一転して色めき立つ。


「まあ、俺なら一口で眠気に襲われるがな」

「待ってください」


 サクールが思わず口を挟む。


「瓶の残量的に、アイシャは半分くらいは飲んだでしょう」


 ニダールは陰気に頷いて、クトゥーブが呻く。


「髭面の男が一口で眠るような薬を、こんなに小さな子が半分も」

「大丈夫だろう。短躯(たんく)でも子供ではない」


 ニダールは鼻を鳴らして出入口の辺りに足を進め、巻き上げられて天井に固定されていた垂れ幕を下ろす。その途端、外界から差し込む光の量が激減し、天幕内は仄暗くなる。


「何やってるのさ」


 紫の族長の理解し難い動きに、クトゥーブが呆れの声を漏らしたが、ニダールの行動はただの挙動不審ではないらしい。ニダールは淀んだ夜色の瞳で、一同を見回した。


「そのうち目覚める。であれば、この件を大事にすべきではない。小娘の名誉のためにもな。この娘は、曲がりなりにも誇り高い赤き砂竜使いの端くれだ。自傷行為など、恥ずべきこと」


 一連の騒動のきっかけは、ニダールが持参した睡眠薬だというのに、悪びれもせずに場を支配する図太さは、さすがのものである。


 憮然(ぶぜん)とした態度を崩さぬ紫の族長に、誰もが一言文句を述べてやりたい様子であったのだが、ニダールの言葉が道理に適うのも確か。不承不承の様子ながら各々(おのおの)がニダールの指示に従う。


 陰気な紫の族長の指揮の下、天幕内が療養場として整えられたのは、夕陽が砂丘を赤く染め始める時刻であった。

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