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砂竜使いナージファの養女  作者: 平本りこ
黒の章

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4 それは甘美な誘惑

 彼らに怒りをぶつけるのは筋違いだ。全ての始まりは、初代皇帝が水に不相応な祈りを捧げたこと。罪深きは皇族の貪欲であり、アイシャが幸福を謳歌(おうか)した砂漠での日々の何もかもが、世界を貶める道筋だった。


 なんと残酷な事実だろう。


 闇雲に天幕の間を駆け抜けたアイシャはやがて、砂竜(さりゅう)の囲いの側で気力尽きて(うずくま)る。


 涙が砂を濡らす。灼熱の陽光で蒸発して、水神マージの元へと還って行く。


「あたしが」


 アイシャは水神に祈る。


「あたしがいなければよかったのに」


 水は願いを叶えるけれど、当然過去を変えることは叶わない。アイシャが世界から消えることはなく、胸を切り裂くような苦痛の嵐は、引くことを知らない。


 両手で口元を抑え、嗚咽(おえつ)を押し殺す。どれほど、そうしていただろうか。束の間だったのだろうが、永劫の時が過ぎたような心地がした。


 陽光に熱されて、体中の水分が涸れ果てる錯覚に陥る。口内が粘つく。脱水の気配を察したが、いっそ干からびてしまえと、投げやりなことを考えた。しかし、運命はアイシャを干物にはしなかった。


「お姉さん、どうしたの?」


 不明瞭な感覚の中、鼓膜を揺らす幼い声。(うつつ)のものとは気づかず、アイシャは俯き身体を小さくしたまま動かない。砂を擦り、一歩踏み出す音がした。視界に、幼い爪先が映ってやっと、アイシャは顔を上げる。


「悲しいの? 喉、渇いた?」


 黒髪の少女が一人、困惑気にこちらを眺めていた。少女の手足は灌木(かんぼく)の枯れ枝のように細く、細かな傷痕が幾重にも交差していて、痛々しい様子。決して恵まれた子供ではないと、一目でわかる容貌だが、痩せた頬に無邪気な微笑みが浮かべば、月が昇ったかのようにアイシャの心は照らされた。


「どうぞ」


 少女が革水筒を差し出してくれる。躊躇(ためら)いつつも、緩慢な動作で受け取って、唇を付けて甘い水を口内に流し込む。一連の動きは、ほとんど無意識のうちになされた。消え去りたいと思えども、この身は命を繋ぐことを求めていて、アイシャは少し滑稽(こっけい)な心地がした。


 水を半分ほどを飲み干し、口元を拭う。囁くような礼を述べて、水筒を返却した。


 少女は安堵したように、やや肩の力を抜いた。


「どうして悲しいの?」


 アイシャは答えず、首を横に振る。他者との一切の交わりが、億劫だった。


 大人のくせに、駄々っ子のように拒絶を示し、言葉もないアイシャ。少女は(おもむろ)に手を伸ばし、年少者にするように、アイシャの頭を撫でた。


「涙が出る時はね、こうしてもらうと元気になるんだよ。弟も妹も、みーんなそう」


 よしよし、と手慣れた様子で頭頂を撫でられて、アイシャは小さく首を傾ける。


「弟も妹も、みんな」


 少女の年頃は、六つか七つ程度だろう。弟や妹がいても不思議ではないが、皆、というほど多くの弟妹(きょうだい)がいるような年齢には思えない。


 少女は、生え変わり期の前歯を覗かせて、にっこりと笑う。


「いっぱいいるの。あたし、皆のお姉ちゃんなのよ」

「いっぱい」


 少女は頷く。幼い瞳に、僅かに影が差した。


「うん。ママもね、いっぱいいたんだけど、黒い()()()()がお家にやってきて、ママは皆、あたし達を置いて逃げちゃったの」


 先ほどの会合でクトゥーブが語った言葉が、脳裏に蘇る。「一番哀れなのは、打ち捨てられた診療所や孤児院だ」。行き場のない病人や孤児は、一時滞在場所として、この青の集落で過ごしているという。となれば、おそらくこの少女は、置き去りにされた孤児の一人なのだろう。


 アイシャは罪悪感に苛まれ、胸を押さえて俯く。


「でもね、布のお家も好きだよ。皆優しいし、ここでなら……痛いこともされない。……お姉さん?」


 気遣わし気な声が降ってきたが、アイシャは少女の顔を直視することができない。


 この子から、慣れ親しんだ生活と砂嵐を防ぐための家を奪ったのは、アイシャなのだから。


「ごめんね」


 (かす)れた声が漏れるが、少女はいっそう困惑を募らせたようだ。


 アイシャはいたたまれない思いを抱え、渾身の気力を振り絞り少女の目を直視する。青灰色の瞳だった。どこか、西方の血筋を感じさせる容貌と、アイシャと同色系の色を持つ少女に、己の幼少期を重ね合わせる。小さく唇を開き、意図して口角を上げた。


「ごめんね。お水、ありがとう」


 アイシャは膝を伸ばして(きびす)を返す。一人になりたい。誰もいない場所へ行こうと思った。


 生気のない足取りで無意識に向かった先は、とうに会合が終了し、無人となった巨大な天幕であった。


 垂れ幕の隙間から、室内に身体を滑り込ませる。机上にて、燭台の火は灯されたまま。青き砂竜のタペストリーが、アイシャを見下ろしている。先ほどまで議論が続けられていたであろう天幕内には微かに熱気が残り、アイシャの肌をじわじわと焼くようである。


 明かり取りのために四角く切り取られた横幕の窓から、淡い黄金色の光が差し込んで、机上の腕輪を輝かせる。


 時の流れにも酸化せず、一片のくすみもない純粋な金の煌めき。鱗の一つ一つが忠実に再現されたような、精緻な意匠。高貴な威光を纏う天竜の腕輪はしかし、もはや神々しいものには見えない。


 ふと、ニスリン皇女はこの腕輪が何であるか、理解していたのであろうなと思った。天竜を哀れんだニスリンは、竜と親交を深め、大いなる水神の使徒の意思に従って、西方へと嫁ぐ。そして争いを(そそのか)し、(こころざし)半ばで命を終える寸前に、親友であるナージファに、禍々しい腕輪を託した。


 皇女は、ナージファであれば天竜の思惑を理解し受け入れると本気で思ったのだろうか。そもそもなぜ彼女は、天竜に心を重ねたのだろうか。


 皇女が暮らす後宮(ハレム)は、華麗で絢爛(けんらん)で、しかしとても冷たい。生母が皇帝の寵妃(ちょうひ)であれば、その子の世界も温かな祝福に満たされたものだろう。しかし、ニスリンの生母は前皇帝の妃の地位にはなかったはずだ。アイシャの母が、異国の――おそらく西方蛮族討伐時、捕虜として後宮にやって来た、身分のない側女(そばめ)であったのと同様に。


 ニスリン皇女は結果的に、異母兄であるダーウードに愛されたものの、その身に抱えた寂しさは、皇女の心を蝕んでいたのだろうか。


 もし、アイシャがナージファと出会わなければ。ニスリン皇女と同様に孤独に苛まれ、天竜に全てを捧げただろうか。


 答えは出るはずもない。しかし、ナージファと出会わなければ、母は炎に巻かれて命を落とすことはなかったはずだ。いつか、別の方法で惨事が引き起こされたのだとしても、あの日あの時、ギナの竜が黒に染まったのは、アイシャがナージファの側にいて、泉の水の力を腕輪に注ぎ続けたからである。


 アイシャは腕輪に指を伸ばす。いつもと何ら変わらぬ硬質な天竜を撫でる。その拍子に指先は、すぐ隣の水差しにぶつかる。同時に、並べられていた灰茶色のぬいぐるみの陰から、かつん、と高い音がして、アイシャはその小瓶に気づいた。ニダールが放置した無色透明の薬剤である。


 薬は、用量を誤れば毒となる。紫の集落で、アイシャはそれを痛感した。


 毒。一時の苦痛に身を任せれば、今後一切の身を切り刻まれるかのような激痛を手放すことができるだろう。それは、とても甘美(かんび)な誘惑だった。


 アイシャは、半ば操られるかのように、小瓶を手に取った。残量は、三分の二程度だ。安眠を手に入れるため、日々ニダールがどれほどの量を服用しているのか、知りはしない。しかし、いっぺんに飲み干せばさすがに、安全量を優に逸脱するだろうと思えた。


 小瓶の蓋を引き抜いて、揺れる液体を凝視する。ややねっとりとした、濃度のある水だ。


 アイシャは瓶の口に唇を当て、少し傾ける。口内に、かつて口にしたことがないような苦みが広がって、危うく戻しかけたのだが、顔を(しか)めつつも嚥下する。一気にあおれるような味ではない。それでも、アイシャは再度小瓶を傾けた。


 少し、また少しと喉に流し込む。次第に、視界が大きく歪み始め、全身が脱力する感覚がした。膝の力を失って、反射的に机にしがみ付く。


 指先から、まだ液体が残る小瓶が滑り落ち、鈍い音を立てて絨毯の上を転がった。


 敷物の、青い幾何学(きかがく)模様が迫り、やがて視界を占領する。床に這いつくばるように倒れたことに気づいた刹那、アイシャは意識を手放した。

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