3 族長会合②
「迷い?」
ファイサルは神妙に頷く。
「アジュルは、アイシャを連れ去るのを阻止しようとした俺を邪魔者と見なし、焼き尽くそうとしました。でも、結局アイシャの腕に火を吹いてしまって、そこで動きを止めたんです。アジュルにとって、アイシャは育ての母親でした。アイシャの意思に反して人間を貶めることに、躊躇っているんじゃないでしょうか。だから、アジュル……黒い天竜は、未だ泉の底から動かない」
ファイサルの赤茶色の瞳がアイシャの右袖から覗く包帯を捉え、苦悩の色を宿す。柄にもないが、彼は気に病んでいるのかもしれない。全てはアイシャがもたらした災厄なのだから、こんな火傷くらい案ずるに値しないのに。
「ふうん」クトゥーブが唸る。「その説はあるかもね」
「だとすれば、アジュルや天竜を説得することができれば、事態は好転するのでしょうか」
「でもさ、白の名代君。竜に、どこまで人の言葉が通用するだろう。それに、説得しようにもあの霧の中に長居すれば、こちらが狂ってしまう」
「おっしゃる通りですね」
サクールとクトゥーブがそれぞれに言い、議論は再び行き詰まる。言葉のない空間に、ニダールが机に小瓶を打ち付ける音だけが響く。神経質な異音に、ファイサルが頬を引き攣らせ、とうとう我慢の限界を迎えかけた時、クトゥーブが珍しく刺々しい声を上げた。
「ニダール兄、それ止めてくれないか? 気が狂いそうなんだけど」
ニダールは手を止めて、淀んだ眼球を滑らせ青の族長に向ける。夜色の瞳は相変らず陰鬱だが、彼は素直に小瓶から指を離し、水差しの側に押しやった。此度の内容物は無色透明。硝子の中で揺れる液体は、燭台の灯火を受けて鈍く光る。
「何で今も薬なんか持ってるんですか」
ファイサルの声に、ニダールは小さく鼻を鳴らす。
「俺は不眠なんだ。睡眠薬が手放せぬ」
手放せないのは就寝前だけだろうから、わざわざ日中から指先で弄ばなくても良いではないか、と一同の目が言ったのだが、ニダールは一切の追及を許さない。腕を組み、低い声で話を本筋に戻す。
「何はともあれ、我々が無意味な口論をしている間にも、あの竜が人を狂わせる瘴気を生み出している事実は変わらない。このまま放置していれば、いずれ大惨事になるのだ。出来もせぬ説得など考えるに値しない。早々に対策を練らねば」
「ニダール兄、対策って?」
「瘴気を生む、黒き天竜の息の根を止めろ」
「どうやって?」
「知らん。泉を埋めろ。金はあるだろう、クトゥーブ。帝国中の知恵と物資を総動員すれば、何かしらの方策は出る」
「また無茶な」
クトゥーブが大仰に首を振って額を抱える。
アイシャは靄がかかったような思考のまま、着座する面々を見回した。上座ではニダールが変わらずふてぶてしい顔をして、クトゥーブの向い側ではサクールが秀眉を顰める。アイシャの隣では、ファイサルが苛立たし気に小さな舌打ちをした。
各人各様の面持ちだが、男らの脳内にあるのはただ一つ。黒き天竜――元はアジュルであった存在を葬り去るに相応しい策は何か。
アイシャは膝の上で拳を握る。未だ、一連の惨事がアジュルの意思で引き起こされたものであるとは、信じ難い。どうしてアジュルを殺めなくてはならぬのか。
元をただせば、天竜を生み出し搾取したのは皇帝である。その天竜に感情を植え付けたのもニスリン皇女。アジュルはただ、生母である天竜の意思に従っただけ。
「……あれは、アジュルです」
気づけば、微かに震える声が滑り出していた。族長らの注目を浴び、アイシャはたじろぐが、言葉は止まらない。
「あの子は悪い竜なんかじゃありません」
「アイシャ、気持ちは分かるが」
制止を試みたファイサルを、アイシャは睨む。
「ファイサルは、どうして大丈夫なのっ⁉ アジュルと一緒に旅したでしょう。あの子が、少しおっちょこちょいなだけの愛らしい砂竜だって、知ってるでしょう」
ファイサルは言葉に詰まり、やや身を引く。赤き砂竜の庇護者であるべきファイサルが、それを殺める方策を平然と練るなど、アジュルが哀れでならない。アイシャは涙でぼやける視界で、机上の噛み噛みトビネズミさんを一瞥してから、従弟に視線を戻した。
「ファイサルの馬鹿! 一緒に赤き砂竜の群れを取り戻そうって約束したのに。アジュルは、氏族復興の夜明け。あの子の仲間をたくさん育てようって決めたのに」
この怒りは、理不尽なものだ。アジュルが大切な仲間であるのと同様に、砂竜族の同胞も尊い存在である。心の奥底では理解をしている。それなのに、理性が及ばぬほどの憤りと悲しみが渦巻き、鋭利な言葉となり噴出するのを止めることができない。
「ファイサルの冷血漢っ。悪いのはあたしなのに」
「違う。おまえじゃない」
「アジュルは悪くないのに、どうして……」
「アイシャ」
凛とした声が、アイシャを制止する。視線を上げれば、サクールと視線が交錯する。彼は、飴色の瞳に断固とした意思を滲ませて、小さく首を横に振った。
「ファイサルの判断は正しい。族長ならば、一頭の砂竜よりも、氏族や砂竜族全体を守ることを優先する。たとえそれが、どんなに胸が痛む決断であっても」
「そんなの」
わかっている。幼少の頃より、次代の族長として、氏族を守れと言い含められてきたファイサル。赤の集落が灰燼に帰しても、誇り高くあれとアイシャを鼓舞し、泣くまいと虚勢を張っていた。
ファイサルが、アジュルに愛情を注いでいたことも、この目で見守ってきたのだから痛いほど知っている。
それでも、感情の砂嵐に呑み込まれたかのようなアイシャには、従弟の瞳が非情を帯びるのを、受け入れることなどできやしなかった。
「知らない。あたしには、理解できない」
アイシャは蹴るように椅子を離れ、天幕から飛び出した。ファイサルの呼び声がアイシャの背を打つが、立ち止まることはしなかった。




