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砂竜使いナージファの養女  作者: 平本りこ
青の章

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18 飛翔


 世界に光が戻り、同時に喧騒が鼓膜を叩く。


「いったい何事⁉︎」


 やや距離を置き困惑を交わし合う人垣を掻き分けて、アーディラがやって来た。アイシャは蹲り、自身の身体を抱きかかえるようにして、灰色の砂地に視線を彷徨(さまよ)わせていた。


 やがて、アーディラの長衣(ちょうい)の裾が視野に入る。強風が吹いているらしく、青い刺繡が施された布地が打ち付けられ、音を立てている。アイシャの黒髪も風に巻き上げられて、視界を騒がせる。空は不気味な紫色に染まり、遠雷(えんらい)が微かに(とどろ)いた。


「こんなこと……」


 アーディラの(くるぶし)が眼前で止まる。驚愕の声を耳にし、アイシャは麻痺したような思考のまま、緩慢な動作で顔を上向ける。焦点を、アーディラの足元から、やや前方へ。砂上に、アジュルの爪の痕が残っているのが目に入る。


 さらに首を反らせれば、やや宙に浮いた状態でこちらを見下ろす(つぶ)らな瞳。アジュルの眼だ。しかしその身体は翼の力強い羽ばたきにより浮遊している。異変はそれだけではない。アジュルの身体は、夜よりも暗い漆黒に染まっていた。


 変わり果てた姿を瞳に映しても、動揺を覚えぬ己がいた。アイシャは何かに導かれるように腰を上げ、アジュルを真っすぐ見上げたまま、歩み寄る。アーディラの制止の声が微かに聞こえたが、アイシャの脚は止まらない。


 全てはアイシャのせいだった。アイシャがナージファの養女にならなければ、母の運命は狂わなかった。赤の氏族は今も平和を謳歌(おうか)して、祖母代わりのセルマも、従姉(いとこ)のギナも、ファイサルだって、みんなみんな、温かな日々を過ごしていたはずなのに。それなのに。


 アイシャが赤の氏族を破滅に追い込んだ。旅になど出るべきではなかったのだ。アジュルが孵った竜生(りゅうせい)の儀や、旅立ちの朝、夢に現れてアイシャを旅に誘ったナージファは、万物万象(ばんぶつばんしょう)を記憶する水が見せた幻影。全ては人間を、マルシブ帝国を憎む天竜(てんりゅう)が仕組んだことだった。


 脳内に流れ込んできた天竜の言葉が真実ならば、母はもう、この世にはいないだろう。それどころか、アイシャは意図せず、この国を滅ぼすために旅をして、アジュルを破滅の竜へと育て上げたのだ。


 深すぎる絶望に、身体は一切の思考を拒絶する。促されるがまま、一歩、また一歩と黒き砂竜へと歩みを進める。


 アジュルが鼻先をこちらに寄せる。アイシャは手を伸ばした。指先が黒光りする鱗に触れる――。


「待て、アイシャ」


 不意に、逆側の腕を強く掴まれ、引き留められる。未だ(もや)がかかったような頭のまま振り向いた。


「ファイサル……」

「触るな。それは、アジュルじゃねえ」


 従弟(いとこ)の眉間に刻まれた深い皺を目にし、アイシャは小さく首を傾ける。


「何言ってるの。この子はアジュルだよ」

「いや、違う。いいから来い!」


 いつもと変わらぬ強引さで腕を引かれ、アイシャはたたらを踏んでアジュルから距離を置く恰好になる。有無を言わさぬ動作でファイサルの背後に追いやられてしまい、従弟の背中が荒い息を繰り返し揺れるのをぼんやりと眺めた。


「何が目的だ。俺達を騙したのか」


 黒き竜は、人間のような仕草で小首を(かし)げる。


「アイシャ、イッショニイク。アジュル、カアサマノトコロヘ。アイシャ、ツレテイク」

「母様の所へ?」


 全砂竜の生母は天竜だ。となればアジュルは、アイシャを天竜の元、王宮の泉へ連れて行くというのか。


 脳裏に、先ほど流れ込んだ天竜の意思が蘇る。竜は言った。「水に還り、ともに行こう」。アイシャの身体には、聖なる泉との結びつきがある。「還る」などとは、言い得て妙である。


 泉に還る。水に還り、万物を巡り、過去と未来を繋ぐ粒子の一つになる。そうして世界を循環し、生物を生かす糧となる。それもまた、良いのかもしれない。


 なにせアイシャは、この国に破滅の種をもたらした罪人なのだから。人の糧となり()るのであれば、アイシャという人格など消えてしまっても良い。そうすれば、胸を千々(ちぢ)に切り裂かれたかのような、この激痛だって、消えてなくなるに違いない。


 全てを手放すことが天竜の慈悲だと言うのならば、愛しいアジュルと共に行き、水に還るという選択も理に(かな)っていると思えた。


「アイシャ」


 アジュルが首を伸ばす。


「ズットイッショ。ヒトリ、イヤ」


 そう、この子はアイシャがいなければ独りぼっちなのだ。孤独の苦しみは、痛いほど知っている。天竜が語ったように、アイシャは生まれ落ちた時からずっと、孤独だったのだ。今の今まで忘れようとしていただけだ。


 宮殿を出て、無邪気に過ごした十四年。身にそぐわぬ砂漠に暮らし、偽りの身分を顕示(けんじ)して哀れみと愛情を貪った。母や友を失い、黒焦げた集落でただ絶望に打ちひしがれ、孤独に嘆いたあの日。ファイサルや、後に後見人となるラシードがいなければ、アイシャは生きてはいられなかった。今やそれら全ての親愛の情が、不相応な恵みであったのだと理解する。


 後宮(ハレム)で生きていた時と同じように、これからアイシャは全てを失って、再び孤独の世界に落ちて行く。なぜならアイシャは、愛情をくれた彼らを意図せず裏切っていたのだから。


「アイシャ、アジュルノ、モウヒトリノ、カアサマ」

「うん、アジュルはあたしの」

「アイシャ」


 一歩足を踏み出せば、ファイサルの背中に阻まれる。アジュルが苛立ったように牙を剥いて唸る。


「ファイサル、ジャマスル? ファイサル、アジュル、キライ?」

「アジュルのことは好きだ。けど、おまえはいつものアジュルじゃない」


 アジュルはファイサルの鼻先に牙を寄せる。鋭利な乳白色が眼前に迫っても、ファイサルは動かなかった。


「目を覚ませ。二人で行こうとするな。また三人で旅をしよう」


 アジュルの鼻がひくりと揺れる。束の間、躊躇するような仕草を見せた黒き竜。しかしそれも刹那のことで、アジュルは翼で宙を切り、人の脚で表せば数歩分ほどの距離を置き、肺を膨らませる。


「ファイサル、ジャマスル。アジュル、ニンゲンジャナイ。ファイサルト、チガウ、アイシャト、チガウ、ダカラ、ファイサル、アジュル、キライ」


 風を切る音すら鳴りそうなほど、大きく空気を吸い込むアジュル。尋常なく丸く膨れた腹から吐き出される呼気は、人を焼き尽くすだろう。その証に、アジュルは全身に赤き微光を帯びて、口元から白い蒸気を漏らしている。


「ファイサル、ジャマ」


 灼熱の吐息がファイサルを燃やす未来が、脳裏に鮮明に映った。水は、全てを知る。その意味を今、聖なる泉の水を宿すアイシャは身をもって理解した。


 過去と現在(いま)の万象を知れば、この後起こり得る出来事を占うことなど造作ない。ファイサルはアジュルに焼かれ、アジュルと天竜はきっと、帝国を滅ぼし自由を手に入れる。アイシャは水に還り、ただ全てを傍観する。


 どんな苦しみを受けたとしても、我が子を悪しきものとして利用する天竜の策略に、同意はできかねる。しかし一方で、天竜の苦悩を思えば、何が正しい行いなのか、判然としない。


 不意に、紫の族長ニダールの言葉が思い出される。ニスリン皇女が天竜を哀れんでいたと言っていた。


 天竜の心を知ったのなら、気の遠くなるような生涯、孤独な水底に縛り付けられ、一方的に搾取されるだけの生に憐憫(れんびん)を抱くのも無理はない。アイシャとて、天竜の所業を恨むと同時に、帝国民の背負った(ごう)を恥じた。それでも、目の前で従弟が炎に晒されるのは、耐えがたい。そして、アジュルにその罪を負わせるわけにもいかぬのだ。


「アジュル、だめっ!」


 アイシャはファイサルを押しのけて、アジュルの吐息が降り注ぐであろう砂上で、両腕を広げる。この身を盾にして、炎を防ごうと試みた。


 ファイサルが制止する間もなかった。アジュルの薄紅色の口内から、朱色の熱が吐き出される。あまりの高温に、反射的に背けた顔を庇うように両手を掲げる。右腕が焼かれ、皮膚が引き攣るのを感じた。声にならない悲鳴が喉を鳴らす。熱は、即座に引き下がる。


 眼球の水分が蒸発するかのような熱風の残滓(ざんし)の中、瞼を持ち上げる。アジュルは口を開いたまま、こちらをじっと見つめていた。まるで、癇癪(かんしゃく)を起して(やわ)いものを壊してしまった子供のように、罪悪感に満ちた瞳で視線を彷徨わせる。それからアジュルは更に一歩分、人間らと距離を置く。


「待って」


 制止する間もない。アジュルは悲壮な唸りを上げてから、唐突に身を翻し飛翔する。漆黒の巨躯(きょく)は東の宵闇(よいやみ)に溶けてゆく。


「アジュル、アジュル!」


 アイシャの叫びは、黒き砂竜の心には届かない。砂竜の爪が砂上に傷を残している。その側に、灰茶色のぬいぐるみが転がっていた。



青の章 終

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