3 大人と竜の関係
実のところ、羊を克服したからといって早々に砂竜を得ることができる訳ではなかった。
理由は二つある。一つは、砂竜の卵は帝国に貢献した氏族に対して皇帝より下賜されるものであり、特別な働きがなければ新たな卵を得ることができないからである。
約十年前の西方蛮族討伐後、外敵はなりを潜めており、一度に多量の卵を下賜される機会はなかった。現在のような平穏な時期には年に一度、竜卵の儀と呼ばれる祭典が催され、皇帝より各氏族たった一つの卵を託されるのみである。
二つ目は、砂竜を孵すことが許されるのは、本物の大人だけであったからだ。
ナージファやセルマが言うところの「精神的大人」というよりは、年齢が重視されていたことを後に知り、アイシャは歯噛みすることになる。
要は、十八歳の成人を迎えるまでは、卵に触れることは叶わぬのである。よくよく考えれば、大変貴重な砂竜の卵を、不注意で割りかねない幼い子供に託すなど正気の沙汰ではないのだから当然と言えば当然である。しかし、幼少期のアイシャには何とも受け入れがたい話であった。
あれはアイシャが十になったばかりの頃。ナージファの妹の娘……つまりアイシャの従姉に当たるギナという娘が、竜を孵す儀式を執り行う日のことである。
砂漠の民となり六年が過ぎて、まだまだ臆病は抜けないものの、以前よりは好奇心も芽生えてきたアイシャである。大好きな砂竜が孵る瞬間がどうしても見たくなり、儀式が行われる間歇泉までの同行をナージファに懇願したことがある。ナージファは豪快に笑った後、きっぱりと「だめだ」と言った。
「どうしてだめなの」
アイシャが言い募れば、ナージファは愛娘の頭頂を撫で、困ったように肩を竦めるのである。
「子供は入れないんだ。聖地では水が願いを叶えてくれるんだぞ。アイシャがおかしな願い事をして間歇泉が爆発でもしたら危ないだろ」
「壊したりしないよ。もう子供じゃないもん。羊のお世話もできるのよ」
「そりゃ頼もしい。あと十年したら連れて行ってやるよ」
取り付く島もない。アイシャは不満気な表情を崩さずに、手をひらひらとさせて去っていくナージファを睨んだ。母の手首にいつも噛み付いている、金色の竜を模した腕輪が、きらりと光る。
「母様のけち! 大嫌い! かんけつせんで死んじゃえ!」
ちょうど反抗期であることも災いしたのだろう。頭に血を昇らせて暴言を浴びせれば、ナージファは足を止めて肩越しに振り返る。
蒼天の色の隻眼が驚きに見開かれ、その後、微かな悲しみを帯びるのを見た。しかしそれも一瞬のことで、母はふい、と顔を背けると、こちらに視線を戻すことなく、砂竜マハの元へと向かった。族長として、ギナに同行して間歇泉へと向かうのだろう。
大抵の冒険は好まぬアイシャであるが、砂竜が絡むとなると豹変するのが自分でも不思議だった。それでも彼女の性分は小胆である。アイシャは、強い陽射しを照り返す赤銀の砂竜たちが、隊列を組んで砂丘の谷間に消えていくのを追うことはせず、集落の灌木の側で静かに見送った。
しばらくして痺れを切らせたセルマが迎えに来るまで、煌めきの残滓が消えた辺りをずっと眺めていた。
セルマが天幕へ戻ることを促すのだが、機嫌の直らぬアイシャは子供らしい我が儘を押し通し、一人灌木の側に座り込んだ。呆れ返ったような溜息を残し、セルマが去る。砂上に、やや片足を引きずったような老女の足跡と、杖が刺さった穴が残る。
この数年で、セルマの身体は急に衰えたようだった。時の流れには抗えない。祖母のようなセルマもいつかは砂漠に還る。時が来れば、母ナージファも。
砂に刻まれた軌跡を眺めると、なぜだか涙が溢れてきて、アイシャは抱えた膝に顔を埋めて嗚咽を押し殺した。
たった十歳。人の心の機微を知らない子供だったので、どうしてこれほどまでに悲しいのか、わからなかった。
きっと、間歇泉について行きたいという願望が叶わなかったからだろうと思った。だが、それだけではないようにも感じる。アイシャの脳裏には、娘からの暴言に揺れた母の瞳が焼き付いていた。
灌木が作る日陰は心許なく、灼熱の陽射しをほとんど全身に受け、口内が脱水に粘つく。アイシャは少しでも熱を浴びぬよう、赤い染料で鮮やかに染め抜かれたスカーフを被り直した。直射日光を浴びるより、肌という肌を布で覆う方がずっと快適だ。快適、なのだけれど……。
不意に視界が回る。手足が軽く痙攣を始める。これはいけない。脱水の兆候である。アイシャは皮水筒から水をあおるように飲み干した後、天幕に戻ろうと腰を上げる。その刹那、ぐらりと世界が傾いだ。身体に力が入らない。
ナージファやセルマから何度も忠告を受けていた。砂漠では、強烈な乾きを覚えた時にはもう手遅れなのだと。だから、決して無理をしてはいけない。適度に日陰に入り、適切な頻度で水分を摂るのである。口酸っぱく言われて来たし、これまでは疎かにしたことなどなかったのだが。
後悔時すでに遅し。何とも無様なことに、不貞腐れて帰宅を拒否した幼子はその場で意識を失ったのである。