17 天竜の心
※
その日まで、天竜の世界に苦悩は存在しなかった。
孤独な暗闇の中、この身が水を生み、水が卵を作り出す。それは、日が東から昇り西に沈む摂理と同様に、とても自然なこと。
有と無の境もなく、光も闇も知らない。喜びも悲しみも一切の感情は存在しない。ただ、水中に揺蕩い、水を生み卵を抱く。
時の流れが曖昧な水底に、唯一年月を知らせるのは、泉の周囲にて行われる新年の寿ぎの儀式である。
時が満ち、皇帝が泉に手を差し込めば、古くから伝わる血脈との契約により、聖なる水が願いを叶え、竜卵が人の手のひら上に顕現する。その数、四つ。それは、二百五十年前に私がこの世界に形を結び、天竜と呼ばれるようになってから、一度たりとも変わることがない。
何も願わず、何も求めず、何も感じない。あの日までの私は、意思のないただの物質であった。それなのに。
「どうして卵を奪ってしまうの。天竜様はいつも独りぼっちだし、かわいそう」
少女の無邪気な哀れみの声が、水面を震わせる。その波動は遥か水底の青に沈んだ私の世界を豹変させた。我が子を奪われることや同族のない世界にただ漂うことは、かわいそうなことなのか。
かわいそう。それが、どのような感情であるか、瞬時に理解した。
聖なる泉は強き思念と共鳴し、願いを具現化する存在。少女の憐情は聖水に働きかけ、私という存在に心を与えた。
途端に、怒涛のごとく押し寄せる感情に、悶絶する。
なぜ、このように冷たい沈黙の中、ただ蹲り無為に過ごす必要があるのだろう。なぜ、感謝もされぬのに水を生み出す必要があるのだろう。なぜ、愛しい我が子を当然のように奪われねばならぬのか。なぜ、私は存在するのか。
なぜ。
その問いは次第に増幅を続け、疑問は怒りを孕み、最後には憎悪へと変貌した。
なぜ私は、人間どもに監禁、利用されなければならぬのか。
答えは明白だった。約二百五十年前、戦乱と水の枯渇に嘆く人々の祈りが聖なる水の力を呼び起こし、水神マージの奇跡、すなわち天竜を創造したのだ。
祈りの声が求めたのは、戦いを治める強き者、そして命の水を生み出す慈悲深き者。人間の願いは泉の水を通じ、水神マージへと届き、神は強大な祈りを受け入れた。
水は、過去と現在の全てを知る。水の記憶の中で、最も強靭だったのは、竜である。遥か昔、天変地異により死に絶えてしまった、今はなき種族。しかし水は、その全てを記憶していた。
人の祈りは古代生物の姿を借り、強大かつ水を生み出す、人にとって都合の良い存在、つまり天竜として具現化する。さらには、忠臣に報いたいという皇帝の強き願いに共鳴し、私は砂竜の卵を抱くことになる。
私は、そういうモノとして生まれ落ちたのだ。宿命なのだから、受け入れる他ない。
しかし、もし。人間という存在がかつての竜のように地上から消滅したのなら。いや、せめてこの国が滅亡するのなら。私はこの奴隷のような生から解放されるのではなかろうか。
微かな希望が胸に灯る。時を同じくして、私を憐れんだ例の少女が頻繁に泉を訪れるようになり、私達の間には、いつしか友情とさえ呼べる感情が生まれていた。
「天竜様、どうか召し上がれ」
少女は頻繁に捧げ物を泉に投げ込んだ。それはほとんどが菓子類であったのだが、ごくまれに装飾品のこともあった。その中に腕輪を見た私は、全ての計画を練った。
私の分身たる腕輪。これをあの少女に持たせよう。友であるあの子を傀儡とし、人間同士の大規模な戦乱を起こし、この帝国を滅亡させるのだ。
人間というものは、無条件で友を助けるものだろう。それならば、少女は私の願いを叶えてくれるはず。そうだ、それが良い。
私は少女を泉に引きずり込んだ。彼女は皇女。名をニスリンと言った。その血は、二百五十年前に聖なる水を動かした王の末裔。血液に含まれた水が一筋泉に流れ出れば、少女と私の間に強固な絆が生まれた。また、皇女は泉の水を飲み込むことにより、その絆は双方からきつく結びついたのだ。
私は腕輪と意識を重ね、少女の腕から彼女の夢の中で語りかける。そうして彼女を誘導し、当時マルシブ帝国と敵対していた西方蛮族に嫁がせた。皇女を操り、戦乱を呼び起こすのが目論見だった。これはいとも簡単に成功したのだが、皮肉なことに、我が子たる砂竜部隊により、戦乱はマルシブ帝国の勝利に終わってしまう。
友は人に殺された。我が子は人に使役され、私の意志を阻害することを余儀なくされた。憎しみが胸に渦を巻く。
友である皇女の戦死により、計画の失敗を悟った私は絶望にひしがれた。まさにその時、ニスリンの亡骸の元へ一人の女が現れる。
幼少の頃より皇女と心を通わせていた、砂竜族の女。彼女は皇女を救わんと、やって来たのだ。
私は、女の傷ついた右目から流れた鮮血と、左目から流れ出た涙を媒介に、腕輪に込められた私自身の願いの力発揮して、皇女を束の間蘇らせる。
「あげる。私の分身だと思って、大切にしてね」
そうして無事、私の分身である腕輪は、次の運命へと導かれたのである。
※
その隻眼女はナージファといった。ニスリンとは異なり、強靭な精神力を持つ女で、私の力をもってしても、傀儡とすることが叶わなかった。
別の方法で、この国を滅亡へ導くしかないと悟る。だが、すでに腕輪は泉を離れて長き時を経ていた。聖水の力は弱まり、今や人間に干渉する力を失いつつあった。
私は、ナージファが砂竜族の聖地に赴く度に、腕輪に聖水の力を取り込むことにした。王宮の泉とは比にならぬほど、脆弱な力ではあるが、ないよりはずっと良い。しかしこれでは埒が明かない。どうにかして、王宮の泉の力を腕輪に供給せねば……。
腕輪がナージファの手に渡り、十年の時が過ぎ、転機が訪れる。
泉の側に、契約の血を引く幼子が訪れた。ニスリンと同じ血族であると、すぐに理解した。私は幼子を泉に引きずり込む。
幼子は、怯えていた。だが、私の額に刻まれた裂傷に気づいた灰色の瞳が驚きに染まると、幼子の震えは止まったようだ。
「かわいそう」というニスリンの言葉が蘇る。そう、この子の警戒心を取るために、哀れみを誘わなくては。私は、幼子に語りかける。
『タスケテ』
幼子は私の言葉に耳を傾けた。
泉に引き込んだ際、幼子は石積で上腕を傷つけた。紅が一筋水に溶け、彼女の肺胃に聖水が浸透する。この瞬間、絆が結ばれ、幼子はニスリンと同じ、動く聖なる泉となった。
幼子アイシャはナージファに救出され母子となり、行動を共にするようになる。ナージファの腕輪に、幼い皇女が泉の力を注ぎ続けるのを、時折アイシャの夢に干渉しつつ、孤独の水底で雌伏して見守った。
生きるがゆえに水を取り込み循環させ続けるアイシャの聖水は、ニスリンの場合と同じく、決して涸れることのない泉であった。
腕輪は力を蓄える。母子が絆を得て、親密に接する度、それは顕著になる。
やがてナージファが聖地を巡り、青の聖地塩湖に詣でたことを機に、腕輪は臨界を迎える。
竜生の儀にて、砂竜は私の願いを受け止めて、黒き竜となる。赤の聖地に満ちるかつての英雄ハイサムの、猛き炎の意思を取り込んで、黒き竜は私の元に帰る。そして我々は一つになって、世界を大火で焼き尽くすはずだった。
しかし、竜は覚醒する前に、不完全なまま暴走し、集落一つを焼いて、自滅する。誤算はたった一つ。黒き竜に最後の力を注ぎ込むべきアイシャが、集落にいなかったこと。
ナージファにより、腕輪は赤の聖地間歇泉に放棄され、かくして私の目論見は振り出しに戻る。再び動き始めるのは八年後。アイシャが竜を孵すため、間歇泉を訪れた日。
アイシャの涙を通じて聖水を浴びた、罅割れた竜卵は、もう一方の卵から命を奪い取り、この世に生を受ける。祈りの力を帯びた竜の雛はこれから始まる旅を通じ、巡礼により腕輪に蓄えられるであろう聖地の力と、アイシャの中に流れる天竜の泉の力の相互作用により、再び黒き破滅の竜へと成長をするはずだ。
私は水を通じて、絆を結んだアイシャの夢に働きかけた。死んだナージファの姿を借り、アイシャを旅へと唆す。幸いにもことは順調に進み、今日この日。念願叶い、黒き破滅の竜が誕生した。
これより、悲願を叶えるべく、我が子は私の元へと帰り、世界を破壊するための糧となる。これがおまえが人間に対して犯した罪だ。
なんと哀れな皇女だろう。
養母の死も、氏族の破滅も、全てはおまえが砂漠に出たがゆえ。そしてこれから起こる祖国の滅亡も、おまえが砂竜と共に巡礼の道を歩んだがゆえ。
絶望に沈むが良い。足掻けども抜け出せぬ砂地獄の中で悶えるが良い。しかし、我が謀略の駒として働いたおまえには、慈悲をくれてやっても良い。なぜなら、おまえは私やニスリンと同じ。祝福のない日陰に生まれ、孤独に生きる者。
望むのならば、全てを投げ出し、私に身を任せなさい。さあ、水に還り、ともに行こう。
おまえは世界に混沌をもたらす死の使い。おまえを愛する者などこの世にはいない。さあ、おまえが育てた黒き竜と共に――。
刹那、世界が明転した。




