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砂竜使いナージファの養女  作者: 平本りこ
青の章

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16 そして時は満ちる

 つい数日前には、塩の摂り過ぎと(さそり)に刺された痛みで息も絶え絶えだったアジュルだが、今や体調はすこぶる良好である。


 さすがの食いしん坊アジュルも、中毒の苦しみは記憶に新しいらしく、そこら中に敷き詰められた砂をつまみ食いすることはなくなり、大人しく、差し出された食事のみ口にするようになった。


 療養中のアジュルを隔離していた内囲は、アイシャの不在中に取り払われた。青き砂竜の群れの中、一頭ぽつんと赤い鱗が光る。鼻が良いのか耳が良いのか、それとも両方か。アイシャの訪れを察し、赤銀の首がぴんと伸ばされ、(つぶ)らな瞳がこちらを捉える。


「アジュル……わわっ」


 砂埃を上げて突進してきた、駱駝(らくだ)よりも大きな竜に体当たりされ、アイシャは砂上に尻もちをつく。さらに成長しただろうか、成竜(せいりゅう)と並んでも遜色ない立派な体躯(たいく)。しかし中身は相変らず甘えん坊である。


 アジュルはいつものようにアイシャの顔を舐めまわし、ひとしきり親愛の情を示す。やがて満足すると、アイシャの右腕を甘噛みし、遊ぼうと促すのだ。


 アイシャは苦笑しつつ腰を上げ、尻についた砂を払う。手にしていた噛み噛みトビネズミさんを持ち上げて、アジュルの鼻先にちらつかせる。大好きな友達を目にしたアジュルはぴたりと制止して、じっとぬいぐるみを見つめた。


「はい、アジュル。いくら好きでも、もう尻尾を取ったらだめだよ」


 どうぞ、と言う間もなく、アジュルはぬいぐるみを咥えてアイシャの手から奪い取る。雛の頃から玩具(おもちゃ)にしていたぬいぐるみ。大きさはアイシャの手のひらほどであり、成長したアジュルの口内に吸い込まれてしまう。


 砂竜のくせに、まるで駱駝が草を反芻(はんすう)するかのように口を動かす。牙の間から尻尾が見えた時には、哀れな嚙み嚙みトビネズミさんは(よだれ)(まみ)れ。ついでに生傷(なまきず)が増えているようだ。今夜はまた、針を片手に手術が必要だろう。


 ぬいぐるみを噛み、遊びをねだるアジュルを見ていると、不安で冷え切った心に、温もりが通うようだった。


 アジュルが生まれてから、さほど時が経ってはいない。しかし、共に過ごした時間は濃密である。


 まだ卵の中にいたアジュルを腕に抱いて、間歇泉(かんけつせん)に向かったアイシャ。大切な竜卵(りゅうらん)を、あろうことか放り投げ、(ひび)だらけにしてしまった時には、頭が真っ白になり、罪悪感と後悔に押しつぶされるような心地であった。直後、アジュルの可愛らしい角が殻から飛び出した瞬間に、どれほどの歓喜を抱いたか、言葉にできないほどだ。


 アジュルの弟妹(きょうだい)は孵らなかったけれど、一頭きりの赤き砂竜は強く無邪気に成長し、共に帝都へ向けて旅する間柄になった。


 アジュルが最初に喋った日には、まさかこの子が発した言葉だとは思わなかった。今でも忘れない。「バカ」。これがアジュルが初めて口にした人語である。今や語彙も増え、驚くことに単語の意味を理解しているらしい。


 紫の集落の深淵(しんえん)にて、アイシャを溺死から救うために急激に身体を成長させたアジュルの健気(けなげ)さ。その後奇跡が起きて、アジュルと二人、裏切り者のワシムに制裁を食らわせたのも、爽快な思い出だ。


 夜になれば人間の天幕に潜り込む、懐っこいアジュル。ナージファの真似事をして物語を聞かせれば、うとうとと目を閉じて、安らかに寝息を立てるあどけない顔に、いっそう愛おしさを覚える。


 どんな時でも嚙み嚙みトビネズミさんを放さず、アイシャとファイサルに遊びをねだり、自由気ままで少しだけ考えなし。愛すべき砂竜は、我が子にも等しい。心の底からそう思った。


「ねえアジュル。帝都に行って、氏族が復興したら、アジュルにも砂竜の仲間がいっぱいできるよ」


 ぼんやりと周囲を見回す。遥か遠く、橙色の稜線(りょうせん)に黄金色の太陽が被さって、一日の終わりの気配を運んでくる。本日最後の日の光を浴びて、アイシャとアジュルを遠巻きに眺めるのは、青き砂竜。


 遠い過去、赤き砂竜の群れを、初めて目にした幼少期。あの日湧き起こった感動は、生涯忘れることはない。これからアジュルを筆頭に、砂竜が一頭また一頭と孵り、氏族の人間も増え、そしてまた、あの日の景色が蘇る。


 赤の氏族を襲った凄惨(せいさん)な事件の真相は、アイシャの胸に変わらず影を落とす。しかし、この子がいれば、どんな苦難だって乗り越えられる気がした。


 アジュルと、ついでにファイサル。白の氏族の皆や、旅で出会った個性豊かな同族達。弱虫なアイシャではあるが、支えとなる存在や、守りたいものが出来た。独りではないし、今や二人ぼっちでもない。


「見せてあげるね。あたし達の集落を」


 言って、視線をアジュルに戻す。微笑みの形に弧を描いたアイシャの目は、竜の鱗の煌めきを捉え……ふと動きを止める。愛おしさからではない。驚きがそうさせたのだ。


 アジュルは嚙み嚙みトビネズミさんの尻尾を咥え、頭部を左右に振り回して無邪気な様子。しかし異変は着実に始まりつつあった。


「アジュル、なんか鱗の色が、くすんで」


 アイシャは拳で目を擦る。何度見直しても変わらない。アジュルの本来の体色は、言わずもがなの赤銀色。しかし眼前でぬいぐるみ遊びに精を出す砂竜は、鈍い灰色に光っている。


 斜めに照り付ける陽光の加減が見せた錯覚かと思った。しかし、周囲の砂竜は変わらず艶やかな青銀色である。


 そして、これが奇怪な現象の始まりだという証左(しょうさ)に、灰色の光はアイシャの右手首の辺りから発せられている。そのことに気づいた時、アイシャは全身から血の気が引くのを感じた。


 腕を持ち上げて凝視(ぎょうし)する。腕輪だ。例によって、淡く発光している。赤、白、紫、青の光が螺旋を描き立ち昇り、アジュルへと向かう中で混じり合い、闇を塗り固めたかのような黒となる。


 アイシャは小さく悲鳴を上げて、腕輪を外そうと試みる。指先が震え、上手くいかない。手間取る間にも、瘴気(しょうき)を連想させる微光は、アジュルに吸い込まれていく。


「アジュルが真っ黒になっちゃう!」


 気が動転していたので、我ながら気の抜けるような叫びが飛び出した。アジュルは首を傾けて、匂いを嗅ぐように腕輪に鼻先を擦りつけた。


「アジュル、マックロ」


 呑気に言って、砂竜は鋭利な牙に覆われた口を開く。牙の先が腕に触れた、その刹那。アイシャの全身に、強烈な負の感情の(つぶて)が襲来した。


 ――憎い、憎い、憎い、憎い、憎い。


 これまで抱いたことのないほどの激情に、呼吸すらままならない。その場で(うずくま)り、苦痛に(あえ)ぐ。


 ――憎い、憎い、憎い。苦しい、悲しい、寂しい。どうか、私を。


 アイシャの視界が(まだら)に黒く染まり、最後には一面の漆黒に包まれた。妙に明瞭な声が、頭蓋に直接響く。


 ――私を、助けて。タスケテ……。


 救いを求める声の主と、アイシャは精神を重ねた。

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