12 あの日の光景
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次に目を開くと、そこは赤茶けた大地の只中であった。不快な臭気が鼻を刺し、水蒸気を帯びた白煙が天へと立ち昇る。肌に纏わりつくのはじっとりとした、湿気った熱気。砂漠ではほとんど体感することのない、異様な熱だ。しかしアイシャはその正体を知っている。間歇泉。そう、ここは赤の聖地である。
「どうして」
思わず呟いた時、アイシャの背を轟音が叩いた。思わず悲鳴を漏らし、頭部を守るように両腕で抱え、その場にしゃがみ込む。冷静になって考えれば、大音量の正体は間歇泉の噴水であろう。目視で確認する間もなく、アイシャの側で歓声が上がる。
「生まれるぞ!」
アイシャは弾かれたように顔を上げる。先ほどまで、見渡す限りの蒸気、小石と砂に覆われていた世界に、赤の祭壇と数名の人間の姿が現れた。ずっと焦がれていた懐かしい姿に、アイシャは思わず手を伸ばす。
「母様、ギナ、みんな……」
指先は、宙を掴む。アイシャは落胆に呻く。これも幻影なのだろう。超常的な現象を、どこか心の深い部分で当然のように受け入れていることに気づき、アイシャは戸惑った。
ナージファが歌を止め、アイシャの隣を素通りし、慌ただしく祭壇に駆け寄る。赤い幾何学模様の絨毯の上で祈りを捧げていたファイサルの姉ギナが、祈りの形に組んでいた指を解き、身を乗り出した。
祭壇の上、人間の頭部ほどの竜卵が微細動を繰り返し、滑らかだった殻に亀裂が走る。その様子を眺めながら、アイシャは目を疑い、思わず拳で目元を擦った。
竜卵が、黒色の靄を纏っているように見えたのだ。
腐っている。クトゥーブの口から語られた、在りし日の母の懸念が、脳裏で理解の実を結ぶ。本来であれば竜卵は、砂漠の熱射を照り返し、神々しいまでに白く輝くはずなのだ。それなのに、今眼前で揺れている卵は、何か悪質な瘴気を帯びているようにも見える。
さらに不可解なのは、ナージファ以外の者らは、一欠片の不安も頬に浮かべていないことだった。その靄に気づいていないのか、それとも気に留めていないだけなのか。
「あたしの、竜」
ギナの赤茶色の瞳が歓喜に煌めく。彼女は当時十八歳で、現在のアイシャと同年代。八年前には首をのけ反らせて見上げた活発そうな笑顔も、今やアイシャとさほど変わらぬ高さにある。
この光景は、ただの妄想。もしくは水が目撃した過去の記憶の再現だと思ったが、あの頃のまま何一つ変わらぬ従姉の姿に、止まってしまったギナの時間を思い、胸に重苦しいものが、のしかかるようだった。
一同が固唾を飲んで見守る中、闇を帯びる竜卵は、一つ一つと乳白色の破片を落とす。やがて小さな角が殻を突き、竜の頭部が陽光の下に露わになる。再び歓声が上がる。ナージファは隻眼を細め、沈黙して竜を見つめていた。
「ナージファ伯母さん、砂竜だわ」
ギナが飛び跳ねるように身を乗り出し、竜の雛に手を伸ばす。ギナの細長い指が、靄に包まれた雛に触れる。そして。
「やめろ!」
ナージファの鋭い声が、ギナの背に突き刺さる。従姉だけでなく、この場にいる全ての者が驚きに肩を震わせた。砂竜の雛とて例外ではない。硬直したあどけない面持ちを見る限り、悪しき存在には見えぬのだが。
「いや、すまない……。だが、だめだ。その砂竜は」
「伯母さん?」
ギナが困惑気に首を傾ける。ようやく生まれた自分の砂竜との接触をお預けにされて、微かに不満すら覗かせているようだ。
ナージファは唇を引き結び一歩踏み出し、竜に手を伸ばす。その刹那。ナージファの右手首に嚙みついていた黄金の竜の腕輪から、禍々しい光が溢れ出た。
赤紫色の光に一筋、深い青が線状の渦を巻く。やがて、それらは交じり合い、漆黒となる。燐光はナージファの指先を通じ、砂竜の雛を包み込む。
「!」
ナージファが鋭く息を吞み、熱い物にでも触れたかのように指を引く。ギナの眉間にまた一つ皺が増える。
「いったいどうしたの」
「ギナ、見えないのか」
「何が?」
ナージファは口を閉ざし、周囲の面々を見回す。目が合えば皆一様に、首を横に振る。中には、族長の奇行に不安げな顔をする者もいて、ナージファは一度目を擦ってから一歩身を引いた。
「何でもない。あたしの気のせいだ」
ナージファが言った頃にはすでに、黒い光の粒子は全て、砂竜の雛に吸い込まれていった後だった。
「伯母さん、疲れてるのね。早く帰りましょう」
「ああ。……先に向こうへ行っていてくれ。後片づけがある」
「はあい」
ナージファは、姪の気の抜けるような返事に苦笑を浮かべ、各々の砂竜や駱駝に戻る仲間の背を見送った。
しばらくそのまま卵の殻を眺めたナージファだが、徐に右手首を眼前に掲げて囁いた。
「ニスリン皇女。この腕輪は、いったい何なのですか。頂戴してから今まで、奇怪なことばかりが起こります。果たして善きものなのでしょうか。あたしはあなたを信じています。敬愛しています。ですが、氏族を危険に晒すことなどできません。杞憂なら良いのですが」
母の顔を見上げ、アイシャは見てはならぬものを目にした心地になった。ナージファの頬は苦痛に歪んでいる。蒼天色の隻眼は、何か悲愴なものを内に秘めている。誰にも見せたことのない、母の弱々しい姿であった。
「あなたが最後に口にした言葉を、時折考えてみるのです。『あの方の意思に沿えなかった』。強大な帝国の皇女であるあなたが『あの方』と呼ぶだなんて、いったいどこの誰のことだったのかと。当時は、西方蛮族の長――夫君のことかと思いました。ですがもしかしたら……」
アイシャは居た堪れない心地で目を逸らす。ナージファはしばし腕輪に憂いを帯びた眼差しを注いでから、ゆっくりと腕から黄金の竜を抜き取った。
腕輪は、燦々と降り注ぐ日差しを受け、黄金色の光を放つ。それは、ただの反射であり、先ほどのように内側から光を放っている訳ではない。それなのに、どこか不吉な印象が拭えず、アイシャは身震いして自身の腕を抱いた。
「皇女、申し訳ございません。あたしの思い違いだとわかればまた、お迎えに上がります」
丁重な仕草で腕輪を赤銅色の祭壇に安置し、ナージファはきっぱりとした動作で踵を返す。未練を断ち切るような母の背中を追おうとしたアイシャだが、足が砂に張り付いたようになり、持ち上がらない。
「母様、待って」
アイシャは急速に全てを察した。時系列としてはこの後、集落が炎に焼かれるのだ。帰してはいけない。集落が灰になることが既定のことであるならば、せめて竜生の儀に参加して、集落から離れている彼らだけでも、助けなくては。
アイシャは膝を両手で掴み、必死で持ち上げようと奮闘するのだが、努力も虚しく脚は棒のように地面に突き刺さったままだ。アイシャは顔を上げ、再度叫ぶ。
「母様、だめ! 帰っちゃだめ……!」
悲痛な叫びは砂塵に巻き上げられて、湿った熱風に攫われていく。アイシャの声は、誰にも届かない。




