8 疑惑の夜
※
青の氏族長は歴代重婚を結んでいたそうで、大規模な一家である。当代の族長クトゥーブには、二人の弟と六人の妹がいるが、弟はともに成年を迎えていたので、一人は都市に出て学者を志し、一人は所帯を持って、独立しているという。妹の内三人はすでに嫁いでいたが、アーディラを含む残りの三人は、今も族長の庇護下にあった。
二十代半ばほどと見えるアーディラだが、未婚の妹らはいずれも成人前の少女である。彼女らの母はすでに逝去していたため、アーディラが母親代わりとして世話を焼いているようだ。傍で見ていて微笑ましさすら覚える様子であった。
さて、この滞在中、アイシャは彼女らの天幕に招かれて、宿の提供を受けていた。
夜が更け、天幕の暗闇に、アーディラの妹らの健やかな寝息が溶け込む。静寂を揺さぶるその音色も、ファイサルのいびきに慣れているアイシャにとっては、むしろ上品な背景音である。したがって、決して睡眠が阻害された訳ではないのだが、今宵アイシャは眠れぬ夜を過ごしていた。
砂竜は人間とは違う。日中のアーディラの言葉が脳裏を離れない。彼女の言い草はともかくとして、言葉の正当性は疑いの余地もない。それでも、人の子を案ずるのと同様に、アジュルのことを思ってしまうのだ。
アジュルは今、知らぬ土地、病み上がりの身体で一頭孤独な夜を過ごしているはずだ。狭苦しい天幕の中に無理矢理入り込もうとするほど、甘えん坊なアジュル。この瞬間、どんな思いで過ごしているのだろうか。
思考を巡らせるほど、胸が痛み、目が冴える。気を紛らわせ、睡魔を呼び覚まそうと、何度目かの寝返りを打とうとした時。誰かが立てた衣擦れの音が、アイシャの鼓膜を震わせた。
目を閉じたまま眠りに落ちた振りをして、耳をそばだてる。音の出どころは出入り口の垂れ幕の側、アーディラが横たわっていた辺りである。
物音を立てぬよう、細心の注意を払った所作で垂れ幕が揺らされ、アーディラが天幕を出る気配がした。周囲で繰り返される寝息の調子から、他の二人は未だ夢の中だろうとわかる。
このような夜更けにどこへ行くのだろうか。眠れぬ晩ゆえ、アーディラに倣い気分転換でもしようかと、アイシャは少女らを起こさぬように用心して身体を起こし、天幕の外へと滑り出た。
紫紺の夜空に、丸い月がぽっかりと穴を空けている。竜の瞳が見下ろす中、アイシャは周囲に首を巡らせた。アーディラの姿はない。なんとも動きが素早いことだ。アイシャは、砂竜の柵の方角へと爪先を向けた。
辺りは一面の夜色だ。もし、幼少期にナージファに出会わず、今でも後宮暮らしを続けていたならば、茫漠とした宵闇など見慣れることはなかっただろう。しかし、今や砂漠暮らしの方が長いアイシャである。いくら臆病者とはいえ、さすがに月夜の薄闇に、恐怖を抱くことなどない。
薄っすらと、影すら伸びるほどの月明かり。集落は静寂に包まれていたが、夜行性の昆虫や小動物が駆け回る音が、世界を無音には落とさない。どこかで山羊が小さく寝言を言い、驚いた羊の群れがざわざわと揺れて、次第にまた眠りに誘われていく。どこの氏族でも変わらぬ夜の日常に、アイシャは郷愁を覚えた。
「……と、……うが……」
不意に、微かな声が耳に届く。アイシャは思わず足を止め、耳を澄ませる。
「……だろ」
「しく……わ」
かなり潜めた声であるが、男女が会話をしているらしい。どこか緊迫したような声音である。アイシャは声の出どころを探し、天幕をいくつか迂回した。会話は集落の中央部、ちょうど族長の天幕の辺りから聞えて来る。
黒い民家の角を曲がり、広場に出て、目にした光景に、アイシャは弾かれたように踵を返し……やはり好奇心が勝り物陰から顔を覗かせた。
族長の天幕の出入り口付近で、ファイサルとアーディラが何事か言葉を交わしている。
深刻な顔で、いったい何を相談しているのだろうか。相変らず微かな言葉の断片しか、耳には届かない。もう一歩前に踏み出そうとしたのだが、ファイサルが垂れ幕を上げてアーディラを室内に招き入れたので、内容を盗み聞きする機会は失われてしまった。
なぜ、こんな夜更けに人目を忍んで会話をする必要があるのだろう。表情こそ硬かったものの、まさかこれが、噂に聞く逢引きというものではなかろうか。
今宵、ファイサルは族長の天幕に滞在している。クトゥーブは不祥事で不在にしているため、ファイサルは一人で広々と天幕を利用させてもらっているはず。
火を灯したとしても、天幕内は薄暗い。揺れる炎に照らされて、艶めいた言葉を交わす二人の姿が脳裏を過り、アイシャは首を左右に振って妄想を掻き消した。
「な、ないない!」
気になるのならば、天幕に突入すれば良いのだが、そんな勇気もない小心者のアイシャは逃げるように族長の天幕に背を向けて、来た道を引き返す。
そういえばアーディラは、ファイサルに気があるような発言をしていなかっただろうか。さすがに大人の女性の戯れかと思っていたのだが、案外本気だったのかもしれない。ならばそちらの方面には疎いファイサルのこと、色香に惑わされ、大人の関係……いや、これ以上考えると脳が沸騰しそうである。
アイシャは激しく脈打つ胸を両手で押さえつつ天幕に戻り、結局眠れぬ夜を過ごすのであった。




