3 赤の巡礼者
太陽が垂直に昇り切るのを待たずして、アイシャ達はその町に辿り着いた。
東西から隊商が集まる都市である。貿易の要衝らしく人の出入りが盛んなのはもちろん、東西文化の交錯地点ゆえ、行き交う人々の装いは異国情緒に溢れる。
帝都風の豪奢な装飾品に包まれる商人がいたと思えば、その隣を、帝都よりもさらに東方の諸領邦民に特有の見慣れぬ下履きを穿いた男らが、書物を抱えて足早に通り抜ける。広場の日陰で馬に水を飲ませる西方自治区民もいて、いかにもな田舎者であるアイシャとファイサルは、目を丸くしながら視線を彷徨わせた。
町は市壁に囲まれていたものの、厳格な検問があるということもなく、町の広場までは簡単に脚を踏み入れることができる。旅人や商人は、この広場に駱駝を預けて、町に入るのだが、アイシャ達はここで大きな問題に見舞われた。
「ちょっと、勘弁してください」
アイシャらの前で、頬を引き攣らせた小太りの男が手を揉んだ。面倒事はごめんだ、という心の内を全身で体現したような様子である。
「砂竜はだめですって。駱駝が怖がるもんで、町には入れませんよ」
媚びるような上目遣いを向けれらたアジュルは、眼前の男が患部冷却の妨げになる者だと理解しているらしく、牙を剥き出して低く唸った。男は息を吞むような小さな悲鳴を上げて、一歩後ずさる。
「お、脅してもだめですよ。中に入りたければ砂竜はどこかに預けてください。あなた方の駱駝だってちょっと砂竜の匂いがするんですから、敏感な他の駱駝の中には並んで繋げない子もいるくらいです」
なんと、駱駝からも砂竜の匂いがするというのか。であれば、より密接に接触をしている人間の方は、もっと臭うのではなかろうか。アイシャは砂避け外套の袖を持ち上げて、匂いを嗅いでみた。自分では良く分からない。
「とにかく」
アイシャの動きを横目で一瞥してから、ファイサルが口を開く。
「砂竜を外に出しておけば良いんだな。俺が一人で水汲んで来るから、アイシャはアジュルと一緒に外で待っててくれ」
市場の入り口にあたるアーチから、香ばしい屋台料理の香りがほんのりと漂って来る。せっかくなので味わってみたいものだが、ここでは砂竜族は腫れ物扱い。用件を済ませて早々に退散するべきか。
アイシャは食欲が刺激されて湧き出た唾液を飲み込み頷き、アジュルと駱駝を連れて市壁の外に戻った。
出入りする駱駝を刺激せぬよう、市壁沿いの門からやや離れた場所に陣取って、駱駝の世話をする。一段落してから、アイシャはアジュルと、嚙み噛みトビネズミさんの引っ張り合いっこで遊んだ。
竜の体高に対し、小さ過ぎるぬいぐるみ。何かの拍子に吸い込んで、喉を詰まらせてしまわぬかと心配し、先日一回り大きな巨大パンのぬいぐるみを作ってみた。
だが、残念ながらアジュルは気に入らないようで、踏んづけられて敷物にされてしまったという経緯がある。平たいその形状が、腰を乗せるのにちょうど良かったらしい。この日もアジュルが咥えるのは、パンではなく嚙み嚙みトビネズミさんである。
アジュルの咬合力は生まれつき強力で、近頃は本気で噛みつけば骨をも砕くのではないかというほどである。あまり強くぬいぐるみを引くと、真っ二つに引き裂かれそうなので、軽く引き合うに止める。
最初は上機嫌に鼻を声を漏らし、ぬいぐるみを齧っていたアジュルだが、次第に感情が昂ったらしい。低い唸りと共に強く引かれ、アイシャはつんのめるように前方に投げ出され、砂の中に突っ伏した。
意図せぬ出来事に、当のアジュルが狼狽し、嚙み噛みトビネズミさんを放り出す。そのままアイシャの周囲をおろおろと徘徊した。
「アイシャ、ドンクサイ」
「ううっ。アジュル、どんくさいは良くない言葉なんだよ」
「ぐあああ?」
ファイサルめ。純真なアジュルの口が悪くなったのは、何をどう考えても奴のせいだ。
アイシャが砂に転がる度、ファイサルが「どんくさい」と呟くので、アジュルは転ぶことを「どんくさい」と言うのだと誤解しているのではなかろうか。
きっと言葉の意味を履き違えているのだろう。確実にそうだと思いつつも、愛しいアジュルに貶されたアイシャは痛む胸を押さえ、幾らか沈んだ心地で立ち上がる。膝の砂埃を払い、砂竜を見上げた。
「ファイサルの真似しちゃだめ」
「ファイサル、ダメ」
「そう。だめだよ。だってファイサルは」
口汚いのだから。そう言いかけて、すんでのところで言葉を呑み込んだ。従弟に遠慮したのではない。門を出入りする旅装の群れの中に、こちらをじっと見つめる軽装の長身がいたからだ。アイシャは敏感にも、その視線を察したのである。
やや距離があるものの、二人の視線が交錯する。気弱なアイシャは即座に目を逸らせたのだが、相手は大股でこちらに向かって来る。
「ア、アジュルどうしよう。変な人に睨まれたっ!」
砂竜の陰に隠れるアイシャだが、すでに認められてしまっているのだから手遅れだ。アイシャはアジュルの脇に密着して、身体を縮こまらせた。
やがて、声が届く距離まで寄ると、軽装の人物は、砂避けに巻いたスカーフを少しずらしてから言った。
「砂竜……しかも赤。あなた、もしかして今話題の赤の巡礼者?」
意外な言葉に、アイシャは顔を上げ、目を疑う。軽装の長身は女性だった。
歳は二十代半ばほどか。瑠璃色に染め抜かれたスカーフの隙間から漏れ出るのは、艶やかな栗毛。驚きに見開かれた眼は朝焼けに染まる砂丘の色である。ふっくらとした唇の側には黒子が一つ。ゆったりとした長衣を纏っていても、身体の円やかな曲線が浮かび上がるようだ。一言で言えば、妖艶である。単身で隊商都市に出入りするような者には見えぬのだが。
女はアイシャをじっと見つめてから、視線をずらし、慣れた仕草でアジュルの頬を撫でる。アジュルは心地よさそうに目を細めた。
多くの人間が、砂竜を恐れる。しかしこの女は手慣れた様子である。彼女はいったい何者だろう。
「あ、あの、あなたは」
勇気を振り絞り誰何するアイシャに視線を戻し、女は柔らかく微笑んだ。
「あら、ごめんなさいね。申し遅れたわ。私はアーディラ。青の族長クトゥーブの妹よ」




