18 変わらぬ日々を願って
さて、もう一晩明けていよいよ出立の日。
町の終点である囲いを出て、駱駝に騎乗したアイシャとファイサル。急速に成長したアジュルはもう、人間の腕には収まらず、自力で砂上を歩んで東へ向かう。
町の景色が蜃気楼のように霞む場所まで、ニダールが見送りをしてくれた。彼は別れ際までアジュルをじっと眺め、最後に助言を残す。
「風を纏い滑空した赤き砂竜。あれが、ただの都合の良い暴風ではなく、超常的な何かだったのかは分からぬ。だが、その砂竜は皇帝より下賜されし竜卵から孵ったのだ。いわば皇帝の所有物だ。全てはダーウード陛下のお言葉に従いなさい」
反体制派かと思いきや、皇帝への敬意を滲ませて述べる辺りこの族長、やはり食えぬ男である。
空を飛んだ砂竜のことは、ニダールの厳命で箝口令が敷かれたものの、目にした者らの記憶を操作することなどできぬのだ。
全てが幻覚であったかのようにも思えるが、アイシャとアジュルが深淵に落ちていたのは事実である。
淵から抜け出すためにアジュルが空を舞ったのは現実だし、であれば竜の翼で滑空が可能になるほどの風が生まれたのも、紛れもない真実だ。
ついでに、あの可愛らしい薄紅色の口内から、灼熱の炎が飛び出したのも。……いや、もしかしたらあれは幻覚かもしれない。
どちらにしても、真相は不明である。願いを叶えるという聖地から流れた水が起こした奇跡なのか、それともアジュルの特殊な身体能力、またはアイシャの腕で光を放った腕輪が起こした不可解な現象なのか。もしくは単に都合良く暴風が吹き上げただけなのか。ファイサルと議論してみたのだが、結論はもちろん出ない。
旅の終点帝都で、全ての謎は解けるのであろうか。未来のことは分からぬが、隣で上機嫌に砂を食むアジュルを見下ろせば、この子が邪悪な生物とは思えない。むしろ、白銀の風を纏ったアジュルは、アイシャの目には神々しいものとして映ったほどだ。
「紫の氏族長、お世話になりました」
ファイサルがいつになく殊勝に言って、頭を下げる。アイシャもそれに倣った。
ニダールはいつもの陰気な顔で鞍上の二人を見上げていたが、不意に思い出したかのように、腰に下げた革袋をまさぐり、薄汚れた塊を引っ張り出した。現れた物に、アイシャは思わず声を上げる。
「嚙み嚙みトビネズミさん!」
「あ、忘れてた」
ファイサルは呟いて、ニダールから灰茶色の塊を受け取る。そういえば、あのぬいぐるみ、羊の柵に吊るされて、雨風に打たれるがままになっていた。流されなかったのは奇跡と言えよう。アイシャの感動も知らず、ニダールは微かに首を傾けた。
「やはり、おまえ達の所有物か。いらぬから捨てたのかと思ったが」
「いります! 大切な物です。ね、アジュル」
呼べばアジュルは砂から顔を上げて、嬉しそうに嚙み噛みトビネズミさんを咥えた。かなり身体が大きくなり、甘噛みはしなくなったものの、変わらずこのぬいぐるみを大切にしてくれているらしく、愛おしさに胸を打たれたアイシャである。
緩んだ空気のまま、二人はニダールに手を振り、とうとう町を後にする。
一昨日、暗雲が湧き出た東方の空は、その残滓もなく蒼天である。何の前触れもなく呼び寄せられた雷霆。さすがに連日そのような異常気象は起こりようもなく、旅路は普段と変わらぬ橙色の砂丘。一つ異なるのは、昨日の雨を受けて、緑の若草が点々と萌ゆることか。しかしこれらもすぐに羊や山羊の胃に入り、砂漠は再び一面の単色に包まれるのだろう。
「嚙みネズミ、もう捨てれば。ボロボロだし」
清々しい気分を打ち消すような従弟の声に、アイシャは頬を膨らます。
「だめ。あたしが針で手を怪我しながら愛情込めて作った、アジュルへの初めての贈り物だよ」
「怪我って。あれにおまえの血が染み込んでんのか」
「ちょっとだけだから、大丈夫だもん」
「愛が重過ぎるだろ」
ファイサルの呆れ声を聞いてると、不意に先日の暴言が耳に蘇る。「不細工な小動物だな」。アイシャが嚙み嚙みトビネズミさんになった時、彼が放った言葉である。あれが現実だったのか分からぬため、まだ誰にも憑依の話はしていない。先ほどまでは、疑り深いニダールの耳もあったので、話題に上げるのが憚られたという理由もある。
だが、今やこの場には、アイシャとファイサル、駱駝が二頭と砂竜が一頭だけ。アイシャは、探りを入れてみる。
「ファイサル、この子のこと、不細工な小動物だって思ってるでしょう」
ファイサルは間髪を入れずに首肯した。
「そりゃ、誰が見ても」
「そんな!」
反射的に返したが、気がかりな点は彼の感想ではない。あの時、嚙み嚙みトビネズミさんに「不細工」と言ったのが現実かどうか、である。
「ううっ、ファイサル。もう一個教えて。あたしが消えたって聞いたとき、ワシムさんから、このぬいぐるみを受け取ったんだよね。その後この子に向かって『不細工な小動物』って言った?」
ファイサルは眉根を寄せる、駱駝の歩みに合わせて揺れる赤茶色の瞳には、嘘は見えない。
「いや、覚えてねえな。慌ててたし。何でそんなこと気にすんだよ」
気が動転していたというのは、真実だろう。アイシャだって、従弟が知らぬ土地で忽然と姿を消したと聞けば、心配で胸が切り裂かれたようになるはずだ。
「何でって……、なんとなく?」
いよいよ奇妙な物を見るかのような視線を注がれたが、そこで言葉を止めるつもりはない。元より気弱な質である。懸念事項を一人胸の内に抱え込むのは、性に合わないのだ。
アイシャは手綱を弄りつつ、おずおずとファイサルを見上げ、細い声で言ってみた。
「あたし、あの時死んじゃったと思ったんだけど、気づいたらね、ファイサルに摘まれてたの」
ファイサルは眉を上げて目を丸くし、次の瞬間には、またアイシャが意味不明なことを口走っている、という言葉が喉元まで出かかったような表情をした。アイシャはファイサルが口を開く前に、捲し立てる。
「本当なの。あ、現実かは分からないけど、でも多分本当なんだよ。あたし、嚙み嚙みトビネズミさんになって、羊の囲いにぶら下がって、皆を見ていたの。族長が男の人に薬を飲んでみろって言った辺りで、暑くて身体中の水分が奪われて。それから気絶するように意識が薄れて」
ファイサルはしばらくアイシャの顔を凝視していたが、やがて肩を竦めて駱駝の歩調を速めた。アイシャは慌ててそれに倣う。駆けっこが始まるのかと、アジュルが上機嫌に鳴いた。
「あ、ファイサル待ってよ!」
「何だっけ。天竜の泉で溺れるとか、ナージファ伯母さんが現れたとか、燃える集落とか? おまえが変なこと言うのには慣れてるけどさ、今回のは一番訳わかんねえ」
「ファイサル、ひどい!」
駱駝が砂丘を上る。一歩進むごとに、灼熱の太陽と抜けるような青空が近づいていく。
「本当だよ。あたし、嚙み嚙みトビネズミさんになってた!」
「気味悪いだろ! おまえの血とアジュルの涎塗れなだけじゃなく、生霊まで憑いてんのか、このボロ布。やっぱり捨てた方が」
「ボロ布じゃないし、捨てないで!」
砂丘の頂上に出れば、広大な視界が開ける。しかし駱駝は再度下り始めるので、上下に激しく揺られて、頭がぐるぐると回る心地がした。思わず呻き声を漏らすアイシャ。ファイサルが肩越しに振り返り、いたずら小僧のような笑みを寄越した。
「心配すんな。怖い夢を見ただけだよ。今度魘されてたら起こしてやるから」
一切取り合わないファイサルの背中を追い、どうして信じてくれないのかと、不満に唇を噛む。しかし一方で、負の感情の渦に沈んで行きそうになる度に、異常なまでの楽観で明るい世界に引き上げてくれるのは、いつも彼であることも知っている。アイシャは次第に、胸に痞えた物が融解し、心が軽くなるのを感じていた。
もしかしたらあれは、ただの夢だったのかもしれない。奇妙な現象など起きてはいない。今までもこれからもアイシャは、無遠慮だがどこか居心地の良さをもたらしてくれる従弟の背を追って、共に歩んでいくのだろう。
何一つ変わらない。それが、臆病なアイシャの、心からの願いなのかもしれない。
紫の章 終




