17 事の顛末
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雨は、約半日降り続けた。極地的な降雨らしく、雨雲が去ると、間もなく洪水は滝となり深淵に流れ込み、地表には濡れた砂だけが残された。
その晩は、砂丘の上に天幕を張り眠ることとなった。平坦ではない上に心許なく柔らかい地盤であるが、水溜まりが残る谷間に寝床を拵える訳にはいかず、一同は不便な夜を過ごした。夜空だけが常と変わらず澄み渡り、竜の瞳が煌々と、黒い天幕の群れを照らしていた。
翌朝、日干し煉瓦の家々に戻った住民らは、浸水状況の確認に奔走する。この日は早朝から灼熱の日差しが差し込んで、瞬く間に地表から水が蒸発し、天へと還っていった。この地での出来事はきっと、漏れなく水神マージのお耳に届いたことだろう。
さて、一連の騒動はやはり、ワシムの仕業であった。
ワシムが「消えた」と公言していたアイシャが深淵から戻り、彼を犯人として告発したことと併せ、ニダールがかねてより仕組んでいた計略が、功を奏した結果になる。
本物の薬は、小瓶ではなく薬壺の中になみなみと常備されていた。アイシャの意識が嚙み噛みトビネズミさんから深淵へと引き戻された後、ニダールは濃い琥珀色の粘性の液体を、まるで水に飢えた駱駝の如く勢いで胃に流し込んで見せた。顔面蒼白になる周囲に不敵な笑みを見せ、ニダールは唇を舐めて言ったらしい。
「旨いぞ」
驚愕する面々に向け、ニダールは淡々と語ったのだ。これは、気鬱の薬である。薬とは、大なり小なり服用者の身体を蝕み、過度に依存すれば服用量が増加して、負の連鎖が繰り広げられる。特に奥方は、薬品に限らず依存の気があったゆえ、ニダールは初めから、妻に薬物を与えはしなかった。
だから、その琥珀色の液体は、多飲すれば臓器を蝕む類の物ではない。せいぜい腹を下す程度だ。正体は何であるのかを問えば、ニダールは口の端を歪めて答えた。
「蜂蜜と柑橘の果汁だ」
つまりこれは、ただの甘味料なのである。ニダールの妻も、この薬をミルクや茶に溶かして服用していたのだと聞けば、納得できる話である。しかし当の奥方はこれを、医師から処方された、ありがたい内服薬であると信じている。蜂蜜と果汁の爽やかな香りゆえか、不思議なことに薬はとても良く効いて、飲用後には決まって気分が晴れるのだという。
ニダールはその事実を隠しつつ、多飲すれば害となる薬であると公言した。そして甥であるワシムの目に、琥珀色の本物の弱毒が入った小瓶を頻繁に晒し、二階の薬棚に同様の瓶を並べるという用意周到さで、甥の認識を操作した。
ニダール曰く、「まさか客人を害すとは思わなんだ」とのことだ。
例の毒には解毒剤を常備していた。毒薬の存在を知るのはワシムだけなので、事が起これば犯人は明らかである。つまりは、ワシムが叛意を抱けば、いとも簡単に捕らえることができるし、自身が毒に悶えても解毒剤で一命は取り留められる、という筋書きである。
親族を貶めるなど、平和な家族の関係しか知らぬアイシャにとっては考えも及ばぬことである。しかもワシムは、自身が関与していないという状況証拠を作り上げるため、毒を盛られることになるアイシャに求婚し、食卓で手ずから皿を入れ替え、実母の口に毒が入るよう仕向けたのだ。
「ワシムさんは、どうしてそこまでして族長を、その、憎んで?」
豪雨の翌日、最後の宿泊の晩、すっかり乾いた砂地で燃える焚火を囲み、アイシャはニダールに問うてみた。紫の族長は黒い髭に覆われた口元を微かに動かし、答える。
「俺が、あれに竜をやらぬことが不満なのだろう。そうでなくともワシムは、生粋の紫の氏族民ではない。迫害されているとでも妄想しているのだ」
竜卵の数は限られているし、そもそも竜に認められるほどの者でなければ、孵したところで絆は結べない。それゆえ、誰が竜生の儀を経て砂竜を得るのか、判断を下すのはそれぞれの氏族長である。
しかし慣習的に、族長の親族は砂竜と絆を得ることが多かった。それなのに、実子のいないニダールが、甥であるワシムを冷遇するとなれば、それは個人的な好悪に基づくものと邪推されるのも自然である。
「甥だろ。どうして竜卵をやらないんですか。やっぱり青の血を引くから?」
ファイサルも同様の疑問を抱いたらしく、首を傾ける。ニダールは鼻を鳴らして駱駝ミルクをあおった。髭に付着した白い泡を拭い、彼は低く述べる。
「奴の心はまだ子供だ。竜を孵したところで、愛想を尽かされる」
ニダールは、即席家屋である天幕の群れを見回して、ワシムが過ごしているはずの一角に向けて目を細めた。ワシムは、死んだ……はずの砂竜とアイシャが復讐のために深淵から蘇ったという心理的衝撃と、意識を失い転がったまま雨に打たれるという身体的負担を受け、苦悶の表情で床に就き、今も呻き声を上げているだろう。
「俺には子がいない。族長の任は必ずしも世襲ではないが、他氏族ではやはり長子に継がれていくことが多いだろう。ゆえに、後継を選ぶのであれば、ワシムが妥当だと考えていた。しかし氏族のためを思えば、肉親の情だけで後継者を指名することは出来ぬのだ」
「肉親の情」
思わずファイサルの口から復唱が飛び出すほど、意外な言葉であった。ニダールは再度鼻を鳴らす。
「俺とて、情くらい持つ。ワシムがもし、安易な道……つまり、憎い伯父を貶めることができる道が眼前に現れたとしても、自制し、自身の頭で善悪を判別できる男であるのなら、俺は喜んで奴に竜卵と氏族を託しただろう」
毒薬をワシムにのみ見せたのも、それを測るための材料の一つに過ぎなかったという訳か。何とも回りくどい肉親の情とやらである。
アイシャとファイサルは、どちらともなく顔を見合わせた。互いの裏表のない気心知れた関係に、言い知れぬ安心感を抱きつつ、アイシャは思った。ファイサルが山羊ほど単純な従弟で良かったと。
実はこの時ファイサルの方も、アイシャが策略を巡らすほどの胆力もない、どんくさい従姉で良かったと考えていたのだが、なんとなく表情で伝わった。




