15 アジュル、トブ!
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「アイシャ、イタイ? アイシャ、ドンクサイ」
案じられているのか貶されているのかわからぬ言葉だが、柔らかく鼓膜を震わせるその声は、実に可愛らしい。アイシャは弾かれたように上体を起こし、忘れかけていた呼吸を勢いよく再開する。
目を丸くして辺りを見回せば、そこは暗闇。遥か上空から差し込む黄色い陽光が、微かにアイシャと眼前の赤銀色の竜を照らす。
黒々とした瞳がこちらを気遣わし気に見下ろしている。アジュルだ。死んでなどいなかった。アジュルは相変らず元気で、小首を傾げつつ、楽し気にお喋りをしてるのだ。
「ドンクサイ」
アイシャは感極まって、アジュルの首に抱きつく。
「アジュル! 良かった。無事で……って、えええ?」
引っ付いたと思いきや弾き飛ばされるように自ら身を引いて、アイシャは闇の中、微かな光を照り返す砂竜の身体の線を目でなぞる。次いで、躊躇いがちに手を伸ばし、滑らかな鱗を撫でた。
「アジュル、こんなに大きかったっけ」
薄明りに浮かぶ赤みがかった輪郭は、山羊よりも大きい。驢馬程度の体格がある。両手を広げなければ抱きつけぬほどだ。昨日までは、アイシャの膝の辺りまでしか体高がなかったというのに、いったいこれは何事か。
「急に大きくなったの? 砂、食べ過ぎた?」
我ながら妙なことを口走っているとは思うのだが、他に心当たりがないのである。アジュルはアイシャの頬をぺろりと舐め、親愛の情を示してから、拙い口調で喋る。
「アイシャ、オチタ。ミズ、シズム。アジュル、タスケル。アジュル、チイサイ、ドンクサイ」
「そっかそっか。あたしのために大きくなってくれたんだね」
傍から見ていた者がいれば、何とも腑に落ちぬやり取りだと思ったことだろう。しかしアイシャの身にはすでに、不可解な事象が幾度も起こっていて、感覚が麻痺しつつある。
これは夢なのだろうか。いや、四肢の感覚ははっきりとしているし、頭が鈍く痛む。
そうかきっと、頭を強く打ってしまい、記憶が混乱しているのだろう。アジュルは元からこれくらいの大きさだったかもしれない。
もしくは、水がもたらした奇跡だろうか。聖地から流れ出た雨水が溜まる深淵が引き起こす現象なのだと言われれば、腹落ちはせねども辛うじて説明がつく。ような気もする。
混乱を抱えたまま、軽く頬を叩いて現実に戻る。悶々と頭を働かせるばかりでは、状況は好転しないのだ。
アイシャは気を取り直して首を反らし、岩盤がぽっかりと切り取られたかのような蒼天を見上げる。かなりの深さがありそうだ。すり鉢状の地形とはいえ、途中で岩が突き出した部分もあり、陽光は遮られてほとんど地底には届かない。
足元に目を遣れば、そこは最深部の水路脇に盛り上がった岩地である。
袖を撫で、髪を掴む。一滴も濡れてはいない。岩盤ではなく水に落ちたがゆえ、命が助かったのであろうが、あの高低差である。打撲も骨折もなく、身体が湿っていないのも奇妙だ。しかしそれら全ての謎にいったん蓋をして、優先し思案すべき事柄がある。すなわち。
「どうやって上に戻ろうか」
もう一度気絶をすれば、嚙み嚙みトビネズミさんに憑依して広場に戻れる……いや、あれは幻覚だったかもしれない。布の塊に思念が宿るなど、あり得ぬことである。
また、仮にあれが正真正銘の現実だったのだとしても、意識だけ抜け出しても仕方がない。肉体をこの穴の底で腐らせても良いと思えるほど、アイシャは達観していなかった。さらに、アイシャがここで死ぬのなら、アジュルも地底で砂に還ることになってしまう。この子の母代わりとして、容易に命を諦める訳にはいかないのだ。
アイシャは頭を抱え、次第に忍び寄る絶望に臓腑を掴まれた心地になり、身体の震えを抑えるために深呼吸をした。
臆病者のアイシャはいつも、誰かの陰に隠れて生きてきた。後宮では女官や柱の陰に。赤の集落では、ナージファやセルマといった保護者の背後に。白の集落にいても、常に姉貴分ファテナに世話を焼いてもらったし、何だかんだと思い起こせば、ずっと昔から、ファイサルの左斜め後ろ辺りが所定の位置だった。
しかしこの状況下、頼りになるのは己の手足と思考だけ。この場において、アイシャは守られる者ではなく守る者。いつまでも甘えてばかりの子供ではいられない。アジュルを守らねば。
震える膝を叱咤して、ひとまず腰を上げ壁面に指を這わせて進んでみる。道沿いに行けば、どこかに水路の出口があって、外に出られまいか。そんな僅かな希望すら打ち砕くほど、前方は果てしない闇である。
一人と一頭の湿った足音が、岩壁に反響する。泥濘に足を取られて歩きづらい。サンダルはどこかで失くしてしまったらしく、裸足の皮膚が次第にふやけ、小石を踏んだ足裏が痛みだす。細かな傷がついたらしい。一歩進むごとに走る鋭い痛みを、目尻に涙を浮かべつつ耐えた。
「アイシャ、イタイ?」
心配げな声である。流暢でないとはいえ、どうやらアジュルは、単語を理解し並べているようだ。薄気味悪さを感じて然るべきだが、不思議とアジュルに対しては、一切の負の感情を抱かない。
アイシャは立ち止り、アジュルの角の間を撫でてやる。
「ちょっとだけだから、大丈夫だよ。アジュルは優しいね」
「ぐあああ」
目を細めて喉を鳴らすアジュル。アイシャが手を離すと、竜は首をアイシャの足元に伸ばし、匂いを嗅ぐような仕草をした。美味しそうな土でもあったかと様子を見守っていたところ、次第にアジュルの身体が微光を発する幻覚が見え、拳で目を擦る。
遥か上方から降り注ぐ陽射しの角度が変化したのだろうか。いや、そうではない。次の瞬間、冷えた足元が、熱砂に覆われたように次第に温まる心地がして、アイシャはいよいよ目を丸くする。
薄赤の淡い光が、アジュルを包み込む。それと同時に、アイシャの足元の泥濘が水分を失い、粘土質の砂と化す。足に付着していた泥が乾き、手で触れると屑となって剥がれ落ちた。
「アジュル」
思わず呼びかければアジュルは顔を上げ、アイシャの頬を舐めた。どこか得意げな表情だ。
「アイシャ、アイシャ」
砂竜の口内から、熱風が漏れた。水を蒸発させることができるほどの温度である。言葉を失い眺めていると、アジュルの鱗が発していた光が収束し、周囲には再び闇が戻る。アイシャは混乱する頭で、思考を巡らせる。
砂竜は身体能力に優れてはいるが、他の動物と何ら変わらない。つまり、超常的な力を行使することなどできぬのだ。炎宿す赤き砂竜、風纏う白き砂竜などと呼ばれはするものの、それはただ、それぞれの竜が生まれた聖地に因んだ呼称である。
アイシャは足踏みをして、地面の感触を探る。やはり水分は奪われている。アイシャの足裏にはそのような奇怪な能力は宿っていないので、やはりこれはアジュルが起こした奇跡だろうか。
「アジュル、熱い息を出せるの?」
「アツイキ?」
アジュルが首を傾けるので、アイシャは身振り手振りで火を表現し、アジュルに単語を伝える。アジュルはしばらく瞬きしていたが、不意に大きく息を吸い込んで……朱色の熱を吐いた。
紛れもなく、炎であった。強烈な光がアイシャの眼前を通り抜け、壁面を撫でる。
アイシャは束の間石になったように硬直し、困惑を振り切るために首を振ってから、アジュルの口を掴んで半ば強引に開かせる。
「アジュル、あーんして!」
「ぐあああーん」
様々な角度から観察するが、口内には何ら不審なものはない。
アイシャは目眩を覚えて額を押さえる。いったい何が起こっているのだろう。未だに、アイシャの頭はおかしくなったままなのか。奇妙なことに、この可愛らしい口から、熱くて眩い炎が吐き出されたように見えたのだが。
「まさかまさかまさか。でもさっきのは本当に」
眼前に凄まじい光を見て、まだ目がちかちかとする。とてつもない光度。上空から見れば、地底が明滅したように見えたかもしれない。そこまで考えたところで、ふと閃いて、上空を指差した。
「アジュル、さっきの上に吐ける? 地上に戻りたいの。穴の底が光っていたら、誰かに見つけてもらえるかも」
「チジョー」
「うん。結構深いから、縄か何かを落としてもらわないと。鳥みたいに飛べる訳じゃないし、あたし達だけだと戻れない」
「チジョー、トリ……トブ!」
アジュルが何かに思い至ったかのように口を大きく開き、翼を広げた。砂竜は、有翼の蜥蜴のような姿を持つが、空を飛ぶことはできない。アジュルが鳥の真似をしたところで、それはただの可愛らしい足掻きであって、実利は伴わない。
「アジュルはね、飛べないの。だから助けを」
言葉は、不意に感じた違和感に遮られる。右手首に熱が走ったのだ。驚愕に目を剥いて、右手を眼前に掲げる。天竜の腕輪が、白銀の光を纏っていた。
柔らかな色調のそれは、アジュルに向かい流れていき、砂竜の身体を包み込む。先ほどまで赤い光を纏っていたアジュルは、今度は白い微光を従えて、再度翼をはためかせる。
「アジュル、トブ、トブ!」
アジュルは上機嫌に言って、アイシャの腕を噛んで引く。
「トブ、アイシャ、トブ」
「いや、まさか」
呟いたものの、アジュルの無邪気な瞳に促され、半信半疑で竜の背に跨る。駱駝よりも小さいので、心許ない座り心地である。次いで翼が大きく広げられ、空を切った途端、アイシャは浮遊感に包まれて、アジュルの首にしがみ付いた。
「アジュル、トブ!」




