13 噛みネズミの世界
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「これが?」
不意に、世界が昼に転じたようだ。
アイシャの視界いっぱいに広がるのは、陽光に照らされた見慣れた顔。耳に飛び込むのも、もう十年以上ずっと聞き続けた、覇気有り余る声である。
「何で噛みネズミが、そんな場所に転がってんだよ」
ファイサルの顔面が、嫌に近い。言葉と共に息がかかるほどの近距離である。さすがに居心地が悪く、身を引こうとするのだが、不思議なことに身体は微動だにしない。
いったい何が起こったのだろうか。気が動転したものの、閉じる瞼もなければ荒くなる息もない。アイシャは思念の塊のようになり、ただファイサル眉間の皺を数えるばかり。
「断崖になっていますからね」
別の声が降って来る。砂竜族の男性には珍しい、上品な印象の声音である。紛れもなく、ワシム少年のものだ。
途端に、深淵の側での記憶が砂嵐の如く押し寄せて、ワシムへの怒りが火を噴いた。この少年、人をまるで不用品か何かのように穴へと突き落としたのだ。しかも、曲がりなりにも女性の尻を蹴り上げて。
「あの辺りは夜になると地面の終点が見えづらくなるんです。考えたくないですが、今朝から姿が見えないアイシャさんは、アジュルと一緒に足を踏み外したのかもしれません。もしくは誰かに突き落とされたか」
アイシャは、耳を疑った。耳どころか肉体の感覚はないけれど、ともかく驚愕した。どの口がそれを言うのか。
しばし思案顔をしたファイサルだが、不意にアイシャの世界から従弟の顔面が消え失せて、衣服の白い布地で視界が占領された。先ほどより離れた上方より、声は降って来る。
「あんたは知らねえだろうけど、アイシャは高い場所が嫌いなんだよ。崖に近づくなんて不自然だ」
「ではやはり、誰かが彼女を連れ出して、亡き者にしようとしたのでは」
「誰かって」
「毒を盛った輩の仕業と考えるのが筋が通ります。ニダールは幽閉中だったので、共謀者がいるのかもしれません。ともかく」
諸悪の根源であるワシムは、まるで自身が正義の番人であるかのような調子で言う。
「ニダールを尋問するしかありません。ファイサルさん、行きましょう」
「ああ。……ちっ、噛みネズミ、湿ってて気色悪いな」
ファイサルが低い声で吐き捨てて、ワシムに続く恰好で歩き始める。
ファイサルの歩みに合わせ、アイシャの視界は前後に揺れた。彼の脚の動きが視野の端に映る。目が回りそうなのだが、振り回されている頭部の感覚はない。これは一体何事か。
ぷらぷらと激しく揺れ、搔き乱される世界。砂色の景色の中、やっと気づいた。アイシャはファイサルに摘まれている。まさか、そんなはずはないだろうとは思えども、そうとしか思えぬのだ。
「朝日に晒されてもアジュルの涎が乾き切っていないってことは、嚙みネズミが放棄されてから、そんなに時間が経っていないはずだな」
「元々どのくらい濡れていたかにもよるでしょうけどね」
再び乱雑に視界が乱れ、気づけばファイサルの顔が近い。彼は相変らず機嫌悪そうに眉根を寄せて、こちらを半ば睨んでいた。
不意に、ファイサルのもう一方の手に包まれる。案外優しく、撫でるように前後した手のひらが離れた拍子に、細長い紐が視界に映り、アイシャはまさか、と思い至った。
あの灰茶色の紐は、噛み噛みトビネズミさんの尻尾である。ファイサルが撫でたのも気色悪いと睨んだのも、嚙み嚙みトビネズミさんであり、つまりアイシャがアイシャだと思っている、ファイサルの指先に摘まれた物体は嚙み嚙みトビネズミさんで。ということはアイシャは今や嚙み嚙みトビネズミさんなのだろう。たどり着いた一つの結論に、アイシャの思考は大混乱の様相である。自分でも訳がわからない。
「不細工な小動物だな」
ぼやいたファイサルはじっとこちらを見つめていたが、やがて目的地に着くと、近くにあった羊の囲いにアイシャをひっかけた。偶然にも、広場の光景が一望できる位置だった。
小石が転がる砂上に、紫の族長ニダールが常と変わらぬ陰気な顔で膝を突いている。後ろ手に縄をかけられ、周囲を砂竜に騎乗した男らに囲まれていた。まさに今、罪人が裁かれようとしているのだ。赤や白の集落でも同様の光景を見たことがあるが、此度は事件が事件だけに、張りつめた空気に包まれている。
ワシムとファイサルが現れると、砂竜に跨った数人が道を開ける。二人が距離を詰めるが、ニダールはふてぶてしいまでの泰然とした表情を崩さない。
「伯父上」
ワシムがニダールを睥睨して言った。
「罪を認める気になりましたか」
「罪だと」
ニダールは憎しみすら見えぬ平坦な表情で、甥を見上げた。
「罪とは何だ。妻のために、薬を常備していたことか」
「しらを切らないでいただきたい。現に薬は族長宅から消えていて、あなたが用意した食事に紛れ込んでいた。それも、毒となり得るほどの尋常ない量が。さらに今朝、赤の客人……アイシャさんと赤き幼竜が、姿を消した。毒殺に失敗した犯人が、再度犯行に及んだのだと考えるのが自然でしょう」
ニダールはそこでやっと眉を上げ、ファイサルに視線を向けた。二人は束の間視線を交わし合う。
「ナージファの養女が、消えた?」
「驚いた振りをしても無駄です、伯父上。大方、あなたの一派の者が、宵闇に紛れて手を下したのでしょう」
ワシムが吠える声は、ニダールの胸には届かぬらしい。思案気に視線を砂地に落とす。その仕草が観念した姿にでも見えたのか、ワシムは傲慢さが見え隠れする表情で続ける。
「さあ、自白してしまいましょう。薬を融通できるのはあなただけ。二階の棚からは薬瓶が消えていました。下手人があなたではなかったとしても、手を貸したことに疑いはない」
ニダールはなおも口を閉ざし、熱砂を目線でなぞっていたが、やがて顔を上げ、ワシムの瞳を見据えた。
「それで、ワシム。なぜこの俺に赤の小娘らを害す必要がある」
ワシムは弁明を用意していたのだろうか、挑むような伯父の視線に淀みなく答える。
「かねてより、天竜帝と砂漠の統治体制に疑問を抱いていたでしょう。赤のお二人は、白の氏族と縁ある方々です。赤と白が手を結べば、西方白の氏族の権威が高まるのは避けられない」
「体制を崩したいのであれば、むしろなるがままにしておけば良かろう。白が赤と結べは、氏族の力関係は崩れる」
「しかし紫の氏族が零落するのは認め難い」
「それは、無論」
「赤と白が結べば、紫は東方青の氏族と結ぶしかない。ですが青は曲者揃いですから、共闘は難しい」
青の氏族出身の父を持つワシムに、ニダールは微かに目を細めた。
「そのような軽率な動機で、事を起こすなど、浅はかの極み。だが、良く分かった。おまえが貶めたいのは赤の客人ではない。この俺だ。全てを仕組んだのは、ワシムだ」
ニダールの太い声に、周囲に騒めきが走る。ニダールの頬に、僅かに不敵な笑みが浮かぶ。
「ワシム、もう一度訊こう。薬はどこからどんな風に消えていたのだったか」
反撃の開始である。




