12 消えた砂竜
砂に沈み込んだかのような深い眠りに落ちていたアイシャを、夢の世界から連れ出したのは、何か硬質な物を叩く、こつこつという音だった。
何度目かの異音で眠りから覚醒し、アイシャは寝ぼけ眼で瞬きを繰り返す。やがて意識が明瞭になれば、この音の正体には心当たりがある。幼少期、後宮でよく耳にしていた。天幕暮らしが長く、半ば忘却の彼方に追いやられていたが、これは扉を叩く音だ。
アイシャは寝具から半身を起こし、音の出どころを察し身体を強張らせる。規則的な緩急をつけて音を響かせるのは紛れもなく、アイシャの部屋の扉である。
四角い窓から差し込むのは淡い月光。夜は更け、半ばを過ぎた時分であるが、朝日が昇るまでにはまだ時間がかかるだろう。こんな夜半にいったい誰が、アイシャの眠りを妨げるのか。
小胆なアイシャである。行動を起こす前に、扉の向こうに佇む何かの姿を想像してみる。ファイサルならば、律儀に扉を叩き続けはせず、痺れを切らして無遠慮に入り込んでくるに違いない。それでは物盗りか。いや、それこそ物音一つ立てずに侵入するだろう。ならば悪しき精霊か。いや、まさか子供騙しの寓話ではあるまいし。
ない頭を最大限に回転させる間にも、しばしの間隔を置いて、躊躇いがちな音が鳴る。アイシャは意を決し、声を絞り出す。
「どどど、どなたですか」
情けなくも盛大にどもってしまうのだが、扉の向こうの不審者は、安堵の息を吐いたらしい。
「僕です、ワシムです。起きていて良かった。夜分にすみません。ちょっと気になることが」
アイシャは束の間硬直してから、戸惑いつつも寝具から滑り出て、薄く戸を開き片目を覗かせる。細い視界に映るのは名乗り通り、ワシムのすらりとした肢体であった。
「突然すみません。ですが、もしかしたら一大事かもしれないのです」
「一大事?」
アイシャの疑り深い声音に気を害した風もなく、ワシムは頷く。
「ええ。こちら、見覚えありますよね」
薄闇の中、ワシムが腕を上げ、アイシャの視線の高さにそれを差し出した。手のひらの中、綻びた布の塊がある。半ば取れかけた三角の突起が二つあり、逆の端には長いひも状の物。
「嚙み嚙みトビネズミさん」
ワシムは顎を引き、アイシャにぬいぐるみを手渡した。何やらびっしょりと湿っている。アジュルの唾液だろうか。夜間ゆえか、即座に蒸発することはなかったらしい。
「ああ、やっぱり。これが淵の側に落ちていたんです」
淵とはあの、聖地の終点部分にあたる、地割れのような水溜まりのことだろうか。そのような場所にアジュルのお気に入りが転がっていることは確かに奇妙なのだが、そもそもこんな夜更けにワシムは何をしていたのだろう。
疑念が顔に表れたのだろうか。ワシムはこちらの表情を覗ってから、説明をする。
「僕は普段から眠りが浅い体質なので、気晴らしによく夜中に砂竜を見に行くんです。ほら、昨晩もあそこでお会いしたでしょう。今晩もいつもどおり竜の柵の側に行ったんです。そうしたら」
彼の話では、柵の一部が緩んでいて、そこから淵の方へと続く足跡を見たそうだ。柵の隙間は細かったが、幼竜であれば身体をねじ込んで脱出が可能だろう。まさかと思いつつも足跡を追えば、それは例の淵まで続いており、暗黒の地下を覗き込むような位置に、このぬいぐるみが落ちていたのだという。
「アジュルが落ちたのではないかと思い、呼び掛けてみたのですが、昨日ものすごく警戒されていたこともあってか、僕の声には反応がなくて。アイシャさんが呼べばもしかしたら応えてくれるのではないかと思ったんです」
日中でも底が暗い深淵を思い起こす。地上から見下ろした印象では、すり鉢状の地形になっているらしく、足を滑らせ落ちたとしても、どこかで引っ掛かる可能性は十分にある。とはいえ、固い岩に身体を打ち付ければ、打撲では済まぬかもしれない。
もし、アジュルが落下の衝撃で命を落としていたとしたら。命失い砂に還り、竜の形に盛り上がる灰色の小山が眼前に浮かび、アイシャは全身から血の気が引いて腕を抱いた。
「アジュルを探さないと」
「はい。ひとまず一緒に行きましょう」
ワシムに促され部屋を出て、明かりのない廊下を進む。彼の自宅は個室が複数あり、普段から族長の客人を滞在させる役割も担っているらしい。隣の扉から漏れ出る微かないびきを耳にして、アイシャはふと思い出し、足を止めた。
「そうだ、ファイサルも」
「先ほど起こそうとしたのですが、だめでした。時間が惜しいので、急ぎ二人で行きましょう」
確かに、ファイサルの睡眠の深さは異常なほどである。幼少期から変わらぬ特性だ。アイシャは深く考えを巡らせる余裕もなく、ワシムの言葉に同意して先を急ぐ。
日中とは比べ物にならぬほど、涼やかな冷気が肌を撫でる。ワシムの先導で砂地を小走りで進む。星々は常と変わらず輝くのだが、アイシャの心に広がる不安の靄を晴らすには至らない。
やがて、闇と同化する深淵の側までたどり着き、用心深く、すり足で崖までの距離を詰める。
「気を付けてくださいね」
気遣うワシムの声を背に、アイシャは老婆のように腰を屈めて地面に目を凝らす。大地と宙の境目が夜に溶けてしまい、じっくり観察せねばうっかり足を踏み外しそうだ。
先日、白の聖地の側まで行って確信したのだが、アイシャはいわゆる、高所恐怖症であるらしい。今この瞬間も、すぐ側に崖があると思えば膝が震えるのを抑える術はない。とうとう四つん這いになり、アイシャは無様に地を這った。
やがて、指先が宙を掴む位置までやって来ると、恐々と深淵を覗き込む。一面の暗闇。色も光も何一つ目には届かない。アイシャは腹に力を込めて、漆黒に向けて声を落とした。
「アジュル、アジュル」
反応はない。少し間を空けてもう一度呼びかけてみたが、やはり結果は変わらなかった。アジュルが滑落したというのは勘違いだったのか。もしくは、すでに最悪の事態に至ってしまったのだろうか。アイシャは困惑して、肩越しにワシムを振り仰ぐ。
「ワシムさん、どうしよう」
ワシムは思いの外近くで、四つん這いのアイシャを見下ろしていた。月明かりの逆光となり、その端正な顔は黒く塗りつぶされている。
「残念ですね。もう死んでしまったのか」
冷淡な言葉に、アイシャは息を吞む。まさかアジュルが。アイシャを慕い、纏わりついてくる幼竜の円らな瞳が記憶の中から蘇る。まだこの砂漠に生を受けたばかり。あの子の声が二度と聞けないだなんて、そのようなことは認め難い。
「あたし、もう少し呼んでみます」
ワシムから視線を逸らし、漆黒に向き直る。もう一度竜を呼ぶため、息を大きく吸ったその肺を、不意に背中から強く圧迫された。
束の間呼吸が止まる。首を巡らせ振り返り、目を疑う。アイシャの背を、ワシムが踏みつけていた。
「ワシ……」
「あの竜、強く投げ過ぎたかもしれません。もう、半分くらいは砂になってるんじゃないかな。呼んでも無駄だろうから、直接行って見て来なよ」
背筋から圧迫が消えた刹那、今度は尻を足裏で強く蹴り飛ばされて、アイシャの身体は砂を擦り、前方に滑る。体勢を崩し、地面に支えを求めた肘が空気を切り、そのまま上半身が宙に浮く。再度蹴りつけられて、アイシャの小柄な身体は一切の支えを失い落下した。
回転する視界の中、月光を背にこちらを見下ろす少年の影が脳裏に焼き付いた。
「さようなら、赤の客人さん」
一滴の水もない灼熱の砂漠よりも無慈悲な声が、降って来る。内臓が宙にぶちまけられたかのような浮遊感に、アイシャは意識を手放した。




