11 焚火の前で
異様に冷え込んだ空気の中、最初に席を立ったのはワシムである。結果的に、上手く毒殺未遂についての嫌疑から逃れたことになる。強かさを覚えぬ訳ではない。だが、彼の母が被害者となったことを鑑みれば、ワシムとその家族を疑うのは、不自然さがあるのも確かである。
今宵の安寧のため、真相解明を急く気持ちはあるものの、現時点ではこれ以上思考を巡らせたとしても、結論は推察の域を出ないだろう。何より、一応の容疑者は幽閉中なのだ。それよりも今は、この重苦しい空気をどうにかせねばならない。
アイシャはファイサルの不機嫌顔にちらりと視線を向け、気合を入れて……いや、撤回。やっぱり今夜は逃げて、また明日考えよう。アイシャは意識して勢いをつけ、膝を伸ばす。
「じゃあそろそろ」
「アイシャ」
予想通り、低い声に呼び止められた。ファイサルは片膝を立てて座したまま、こちらを見上げ、視線で着座を促す。アイシャは従順な羊のように再び腰を下ろした。
「で、あいつが言ってたのは本当なのか」
「ほ、本当……なのかな」
「あのな、聞いてんのはこっちなんだけど」
「はい、本当です。でも!」
アイシャは、ずい、と身を乗り出す。
「まだ返事してないよ。だって、どうしてあたしなんか」
「不満なのか?」
改めて問われれば、アイシャの胸に答えは見当たらない。ワシムは見目麗しく、温厚で良識もある。兄弟氏族の出身で、何の懸念もない縁組だ。そんなワシムの何が不満だというのだろう……と、昨晩までであれば言ったはずなのだが。
お気楽なファイサルが珍しく疑ってかかるほど、ワシムの振舞いには気がかりな点がある。ファイサルは小さく溜め息を吐き、少し居住まいを正して言い含めるような口調になる。
「あいつはアイシャ好みの美男だろ。良かったじゃねえか」
「さっきまで疑ってたのに?」
ファイサルは肩を竦める。
「すっごく怪しいけど、あいつの弁解も筋が通っているし、まあ全部はっきりしてから考えたら?」
やけに投げやりにワシムを擁護し出したファイサルに、アイシャは疑り深い目を向ける。先程までは、常に楽観的なファイサルが、その短絡的な思考回路が張り巡らされた脳内で、いつになく緻密な推論を繰り広げていたことに驚愕し、少しだけ見直しさえしたのだが。
アイシャの表情から概ね心中を読み取ったのだろう。ファイサルは一瞬何事かを述べようとしたらしいが、胸に浮かんだ言葉を打ち消すかのように首を振った。
「とりあえず、次からはすぐ俺に相談しろよな。たった二人きりの親族だろ」
意外な配慮の言葉に、思わず口を閉ざす。勢いを失いつつある焚火に照らされた従弟の横顔が、不意にとても頼もしく目に映り、アイシャは何度か瞬きをした。しかしその幻覚は残念なことに、続く言葉によって夜に溶けて消えて行く。
「おまえ、どんくさいんだからさ。危ない目に遭っても一人じゃどうにもならねえだろ」
悪気の欠片もなく、当然のように言ってのける辺り、やはりファイサルは繊細さを砂粒ほども持ち合わせてはいないのだ。アイシャは半ば頬を膨らませる勢いで、唇を噛み締めた。そのまま勢いよくそっぽを向いて、一方的な宣言を投げつける。
「お休みなさい」
「おい、まだ話は」
「もう眠たいのっ!」
精一杯の覇気で言い切って、アイシャは腰を上げて踵を返す。背後で、機嫌が悪いだの何だのと文句を垂れる声が聞こえたが、全て聞えぬ振りをした。
胸中で渦巻く靄は晴れないが、このまま二人で焚火を眺めていても、気が紛れるとは思えない。アイシャは一度だけ肩越しに振り返り、ファイサルの横顔を一瞥してから、日干し煉瓦の家の扉を開く。
慣れぬ階段を上り、滞在用に用意してもらった自室に戻るや否や、昨晩の寝不足も相まって、強烈な睡魔に襲われる。
アイシャはそのまま、半ば倒れ込むようにして寝具に包まる。やがて、規則正しい寝息が室内に響いた。




