10 蛇よりもねちっこく疑り深くて本当にすみません
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日はとうに砂丘の稜線に沈み、辺りは宵闇に包まれた。日干し煉瓦の家々から漏れ出る朱色の明かりが目に新しいが、旅行者気分はとうに萎れている。
町は騒然としていた。無理もない。ワシムの母リムが荒い息で、床に伏せっている。原因は毒、それも族長ニダールが贈ったチーズに含まれていたようで、そもそもこのチーズは赤の氏族からの客人であるアイシャとファイサルの皿に載っていたものだ。
誰がどのような動機で毒を仕込んだのか、真相は不明である。しかし、食事を手配したのはニダールである。族長は、以前より曲者と扱われていたことも災いし、一番に嫌疑をかけられ、今や鍵付きの部屋に幽閉されている。
ワシムが皿を取替えなければ、毒を口にしていたのはアイシャかファイサルだっただろう。背筋がぞくりと震えた。そして、身代わりのようにリムが苦悶に呻いていることを思えば、強烈な罪悪感に苛まれるのである。
リムはほとんど胃の中のものを吐き切ったらしく、症状は次第に落ち着きつつあるようだ。毒は致死性の高いものではなく、さほど量を食さなかったことも幸いしたのだろう。首謀者は、誰かを本気で殺めようとはしなかったらしい。それならば何が目的で、人を苦痛の渦に落とそうとしたのか。
「本当に、毒だったんですか?」
リムの様子を見舞った後、揺れる焚火の前で膝を抱え、アイシャは呟いた。火を挟んだ向かい側で、険しい表情のワシムが答える。
「毒、というより本来の用途は薬です」
「薬?」
ワシムは頷く。
「ええ。薬は用量を誤れば、人体に害を及ぼします。伯父の奥方が病がちだというのは耳にされたことがおありでしょう。町の男たちが調べた結果、奥方のために処方された気鬱の薬が、二階の安置場所からひと瓶丸々消えていました。……ほら、昨日お二人が族長宅で珈琲を飲んで、マルシブ帝国の歴史を聞かされていた時、かつかつとニダールが床を打っていた、あの小瓶です。希少なものなので、彼が毎日、残量を管理しているんです」
「そういえば。あの薄い琥珀色の」
アイシャは頷いたが、ファイサルは記憶にないらしく、首を傾けている。ワシムは続けた。
「あの時は、ちょうど奥方の薬の時間だったんです。ともかく、疑いようもなくこれは、あの家を熟知している者の仕業だ」
族長宅は夫婦二人きりの所帯である。病臥している奥方がわざわざ部屋を出て、客人の食事に薬をぶちまけるなど考えづらいことなので、やはり疑わしいのはニダールだろう。
「もし犯人が族長だというのなら、なぜあたしたちを」
「憶測にすぎませんが、伯父は以前より排他的かつ反体制的な性格でした。昨日のマルシブ帝国への叛意ともとれる持論をお聞きになったでしょう。ニダールならば、砂竜四氏族の均衡を崩し、皇帝陛下によるこの砂漠の支配体制崩壊を目論んでも、何ら不思議はありません。だって、お二人に何かあれば、赤の氏族は……いえ、すみません。縁起でもないことを言いました」
ワシムは、突きだした人差し指の先を舌で舐めて湿らせて、手のひらを上向ける形で天にかざす。ワシムの長い指が、揺れる炎の赤を弾く。
水は全てを知るのだ。誰かが不用意なことを述べれば、天に還った水が水神マージに願いを届けてしまう。だから発言を打ち消しすために、こうして己の身体から出た水を天に捧げ、言葉を乗せる。
「水神マージよ、我が願いはこれにあらず」
日常にありふれた懺悔の動作。しかしこれを目にする度、アイシャの胸は抉られるように痛むのだ。
あの日、母と最後に交わした会話が脳裏に蘇る。幼い癇癪ゆえ、「死んじゃえ」と口をついて出た心にもない言葉を、水神マージに汗を捧げて打ち消していたのなら。この瞬間、紫の地で焚火を眺めてはいなかったのではあるまいか。
深く膝の間に沈み込んだアイシャ。隣に座ったファイサルはアイシャの様子には気づかぬようで、黙り込んで何事かを思案している。しばらくして、いつになく慎重な調子で言った。
「もし族長が首謀者だとしたら、あの人は失脚か。次の族長は誰になるか決まってんのか? ほら、ニダール族長には子供がいないだろ」
ワシムは、ファイサルに視線を向けて束の間、意図を探るような眼差しを送った後、天に向けていた指先を引っ込める。
「族長は後継者候補を決めていたようですが、未だ指名はされていません」
「あれ、ワシムさんは甥にあたりますよね。継がないんですか?」
アイシャの問いに、ワシムはやや表情を緩めた。
「いいえ、血族とはいえ、直系ではないですし。それに父は青の氏族出身です。僕が紫の氏族を束ねることに反対する人もいるでしょう。それもあってか、来年の竜生の儀で砂竜を得るのは、僕ではありません。伯父の許しが出ませんでしたから。
ですが後継者が指名されなければ、どうしても僕ら姉弟にその役目は回って来るでしょうね」
「ニダール族長以外に、あの家に頻繁に出入りした奴はいないのか。今朝の食事を族長宅から持って来た奴とか」
珍しく疑り深い口調でファイサルが言えば、ワシムは再び顔を強ばらせる。いつになく鋭いファイサルの指摘に、アイシャは息を詰めて成り行きを見守った。
「食事を取りに行ったのは僕です。父や母、姉たちも含め、出入りは時々ありますよ。当然でしょう。一応は親族ですから」
「じゃあ、あんたらの家族が犯行に及んだって可能性もあるんだな。後継者が決まらないうちにニダール族長が失脚すれば……」
「ちょっと、ファイサル」
この言い草はさすがに失礼だろうと思い咎めようとしたのだが、当のワシムが片手を上げてアイシャを遮った。
焚火の光を反射するファイサルの炎色の視線とワシムの夜色の視線が、宙で火花を散らすように見え、アイシャは口を閉ざす。
「ファイサルさん、あなた方を危険に晒してしまったのは、我が氏族の責任です。伏してお詫び申し上げます。ですが、今の発言は撤回してください。心外です。母が、毒に苦しんだのですよ。それを、我が家族の仕業だと? それに」
ワシムは不意に、アイシャに眼差しを送る。続く言葉に、アイシャは思わず背筋を伸ばすことになる。
「もしかしたらアイシャさんやファイサルさんが同じ目に遭っていたかもしれません。いったい誰が、求婚した女性に毒を盛りますか? それに、彼女は赤を支える方の一人。僕が紫の族長になれば彼女との未来は叶わぬものに」
「ちょっと待て。何の話……」
「ワワワワシムさん! ファイサルが蛇よりもねちっこく疑り深くて本当にすみません! あたし、疑ってませんから。ほら、ファイサルも謝って」
ファイサルの後頭部を謝罪の形に押し倒す。突然のことだったので、されるがまま頭を垂れたファイサルだが、頭に血が上ったらしく、すぐに腕を掴まれ引きはがされた。
「何すんだよ!」
「ファイサルが失礼なこと言うからだもん」
「どっちが失礼なんだよ。もしかしたら、おまえが毒食ってたかもしれねえんだぞ」
「ううっ、それは」
「ファイサルさん、彼女に乱暴なことをしないでください」
凛と割り込んだ声に、ファイサルの悪態はぴたりと止んだのだが、その顔は、幼子が見れば一瞬で泣きだすだろうほどの怒りの形相である。頭を引っ掴んで押し倒したのは、やり過ぎだっただろうか。
「ファイサルさんはアイシャさんの従弟ですよね」
「おまえ、さっきから何を」
「確かに、あなたに先に話を通すべきでした」
ワシムは殊勝にも、やや頭を下げて言った。
「昨晩、アイシャさんに求婚しました。あなたと諍いたくはありません。未来の義従弟かもしれませんからね」
焚火は確かに熱を発しているはずなのに、アイシャの全身からは血の気が引いて、途端にひんやりとした夜気が肌を刺すように感じた。
驚愕に言葉を失ったファイサルの横顔すら見ることができないほど、アイシャは小さく縮こまるのである。




