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砂竜使いナージファの養女  作者: 平本りこ
紫の章

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9 幻の後

「!」


 自身の鋭い呼吸音で、アイシャは覚醒した。気づけは祈りの歌は止んでいて、眼前には薄紫色の祭壇がぽつんと立っている。荒ぶる心臓を押さえて俯くアイシャをよそに、右隣からは呑気な声が降って来た。


「これで北への巡礼は終わりだな。次は東か。……アイシャ?」


 不審そうに呼びかけられ、アイシャは顔を上げてファイサルに目を向ける。視線が重なると、彼は困惑気に眉を下げた。


「どうしたんだよ」

「ファイサル、見た?」

「何を」

「集落。あの日の」


 束の間、首を傾けたファイサルだが、やがて理解が追い付くにつれ、次第に目が見開かれる。


「もしかして……犯人を見たのか!」


 思わず、と言った様子でアイシャの肩を掴み、身を乗り出すファイサル。彼の驚愕の面持ちから察するに、ファイサルはあの炎を見てはいないらしい。


「う、ううん。見たのは母様と、マハだけ」


 微かな落胆を滲ませて、ファイサルはアイシャから手を放す。


「そっか。……他に何か手掛かりになりそうなものは?」


 先ほどの光景を最初から思い起こしてみたのだが、事件の真相を示すようなものはなく、アイシャは首を横に振る。


「特になかったと思う。ファイサルは、何か見た?」

「いや、俺は何も。白の聖地でもただラシード小父(おじ)さんの歌を聴いていただけだし、今回も同じだ。……まさかアイシャ、居眠りしてたんじゃねえよな」


 つまり、寝ぼけて半ば夢の世界に旅立っていたために、そのような幻覚を見たのではないか、と思われたのだろう。疑り深い目つきのファイサルに失望を覚えつつも、胸を張って否定ができぬ自分が歯がゆい。


 聖地で幻を見るのは二度目である。一度目は、竜生(りゅうせい)の儀、赤の聖地間歇泉(かんけつせん)にて。二度目は本日、紫の聖地()れ川で。


 前回は、時が止まり周囲が石のように固まる中でアイシャとナージファだけが動いていた。一方で、今回はファイサルの姿も紫色の祭壇も消え、まるで過去の記憶の中に足を踏み入れたかのような現象だった。


 状況こそ違えど、現れたのはどちらの聖地でも母ナージファである。


 アイシャはナージファに懐いていたし、僅か十の歳に母と別れたものだから、親離れする猶予もないまま、孤独を抱いて大人になった。恥ずかしいことではあるのだが、一連の光景は母に焦がれる幼い心が呼び寄せた妄想上の、それこそ幻覚なのではなかろうか。


 アイシャは己の認識に自信が持てず、言葉に詰まり拳を握る。しかし、援護は思いもよらぬ場所からもたらされる。


「聖地の水と、天竜(てんりゅう)の泉から(いで)し腕輪が、何等かの共鳴を起こしたのかもしれぬ」


 ニダールである。アイシャは目を丸くして紫の族長の陰気な顔を見上げ、自身の右腕に視線を落とす。手首に噛みつくのは、母がかつて皇妹(こうまい)ニスリンより譲り受けた黄金の天竜だ。


「共鳴?」


 ニダールは、相変わらず抑揚に乏しい声音で続ける。


「そうだ。祈りの歌が終盤に差し掛かる頃、その腕輪が淡く光ったように見えた。雲が流れ、陽光の露出度が変化したことが要因かと思ったが、もしや何等かの超常的な力が働いたのかもしれぬ。聖地は願いを叶える場所でもあるからな」

「でも、願いが叶うというのは迷信ですよね」


 ニダールは微かに眉根を寄せる。まずいことを口走ってしまったかと慌てて口を押えるアイシャだが、現実的というよりもむしろ、不信心に近い小娘の発言は歯牙にもかけず、ニダールは顎髭を撫でた。


「だが、近距離にいるはずのファイサルや俺が何も見なかったのは、いかなる道理か」


 仮に、アイシャの見たものは聖地が見せた幻影だとすれば、ニダールの疑問はもっともである。


 アイシャだけが不思議な体験をしたのは、腕輪に触れていたからだ、と言えばそれまでである。しかし先日赤の聖地で母と語らった際、腕輪は、発掘者ファイサルの手にあったのだ。間歇泉で彼が何も見なかった点を(かんが)みても、妙な現象である。


 ニダールはひとしきり思案を巡らせた後、顎から手を放し、何事もなかったかのように背中を向ける。それから愛想のない声で命じた。


「まあ良い。何を山羊(やぎ)のようにぼんやりしている。早く片付けろ」

「山羊……」


 事ある毎に山羊扱いされているファイサルは過敏に反応しかけたのだが、続く言葉を呑み込み、珍しく殊勝(しゅしょう)な様子で絨毯を丸め始める。


 荷物を持たず身軽なアイシャに文句も言わず、自ら率先して布の塊を背負ってくれるのはありがたい。ファイサルは強引で鈍感で配慮がなくて、お気楽で優美さも皆無なのだけれど、こういうところは良い奴だなと思うアイシャである。ファイサルに失礼か。


 一連の準備が完了したことを確認すると、ニダールは町へと向けて進み始める。巡礼者二人に背を向けたまま発せられた、愛想の欠片もない声が風に乗る。


「水は循環し、過去と現在(いま)の全てを知る。……その腕輪は捨てなさい。嫌な予感がする」


 助言を受け、アイシャは袖の上から右手首の腕輪を撫でた。衣服の布により遮断されているとはいえ、体温と外気により熱せられ、温かい。


 これは、母の形見である。捨てるなど(もっ)ての外だ。さらに、もし本当に腕輪が幻影を見せるのならば、これはアイシャと母を繋ぐための大切な道具だろう。なおさら手放し(がた)い。アイシャは右手首を左手で包み込み、胸に引き寄せた。腕輪を守るかのような仕草である。


 ニダールはアイシャに目の端で視線を寄越し、陰気に呟く。


「そもそも、ナージファに腕輪を贈ったニスリン皇女は怪しい女だった。好き好んで異民族に嫁いだり、天竜を哀れみ泉に通ったり」

「天竜を哀れむ?」

「泉に囚われ孤独で、ひたすら水と卵を生み出し続ける。砂竜(我が子)を目にすることもなく、ただマルシブ帝国に尽くすだけ。言われてみれば確かに、あれではただの家畜だ。もっとも、竜に人と同じ感情があるとは思えぬがな」


 神聖なる水神の使いである天竜に対して、家畜とは。さして信心深くはないアイシャだが、あまりの冒涜に反論が湧き起こる。


 それに天竜が感情を持たぬとは思えない。アイシャの夢に時折降臨する天竜は、いつだって助けを求めてくるのだ。苦しげに、切実に、タスケテと。


 だが、もしアイシャが気弱でなかったとしても、反駁(はんばく)が口から飛び出すことはなかった。この話題は闖入者(ちんにゅうしゃ)の出現により打ち切りになったのだ。


 不意に、砂丘の頂上に、駱駝(らくだ)の影が並んだ。手綱(たづな)は紫。聖地に撒かれた砂竜の鱗の匂いにも怯える様子がない。疑いもなく、紫の氏族の駱駝である。


 予定外の訪問者に、ニダールが不快感を露わに声を張る。


「何用だ。本日聖地に用件がある者は、俺達の他にいないはず」


 駱駝の群れから一頭が、斜面を下りこちらへと向かって来る。その背に跨る人物を認めると、アイシャは思わず、あっと声を漏らした。鞍上(あんじょう)で陽光を背にして砂丘を進むのは、ワシムである。彼は今朝とは別人のように険しい表情で、耳を疑うようなことを口にした。


「伯父上。いや、ニダール。赤の客人ら毒殺未遂の罪で身柄を拘束する」


 ニダールの陰気な目が甥を見上げ、僅かに細められるのを、アイシャは一切の理解が及ばぬ心地で見守った。

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